天野くんと最後のデート
天野と涼太は綾瀬の家を出ると、黙って駅までの道を歩いた。
鎌倉の坂道には夏の強い陽射しが照りつけ、生温く湿った風が吹いている。
海が近いせいだろうか。天野の鼻を潮の香りがくすぐる。
聴こえてくるのはセミのけたたましい鳴き声。
ありふれた夏の全てが、不思議と恨めしかった。
ふと、天野は空を見上げた。
雲ひとつない晴天が広がっている。
この青空も、綾瀬にとっては毒の光でしかない。
季節がどれだけ巡っても変わらない現実。
残酷な話だと、天野はため息を吐いた。
「なぁ、涼太」
天野は何気なく声をかけた。
涼太は振り返りもせず、黙って歩き続けている。
「世の中には『男は泣くもんじゃない』とか、大した意味もなく抜かす馬鹿がいる。確かに、時には涙を堪えることも必要なのかもしれない」
天野は涼太の背中に語りかけた。
「だが、俺様に言わせれば『くだらねぇ』の一言だ。悲しい時には、感情を吐き出すべきだと思うぜ」
涼太の足が止まった。
静かに振り返ると、涼太は力なく天野を見つめた。
「……吐き出しても、いいのかな?」
天野は至極当然だというように頷いた。
それを見て、涼太の瞳から涙が溢れ出した。
「うあああああああ!」
涼太は叫びながら泣き出した。
「なんでだ!? なんで彼女があんな目にあう!? 彼女が何をしたって言うんだ! 神がこの世にいるなら僕はぶん殴ってやりたい! ささやかな幸せを彼女から奪いやがって! ちくしょう! ちくしょう! くそったれ!!!」
涼太はやり場のない悲しみをぶちまけた。
天野は黙ってその姿を見つめた。
涼太が泣き止むまで、天野はタバコを吸いながら、ずっと待っていた。
「……すまない。勇二、行こう……」
涼太は涙を流したまま、鎌倉の坂道を下って駅を目指した。
天野は黙ってその背中を追いかけた。
**************
鎌倉の駅に到着する頃には、涼太も泣き止んでいた。
東京へ向かう電車の時間を確かめていると、涼太の携帯が鳴った。
見知らぬ番号からの着信だ。
「はい佐伯です。もしもし……え?」
電話に出た涼太の顔が一気に青ざめた。
「ほ、本当ですか!? どこに? どこに行ったんですか!?」
天野は驚いて涼太を見つめた。
「とりあえず、すぐ行きます!」
涼太は電話を切るとタクシーを停めた。
そのままタクシーに飛び込み、運転手に綾瀬の自宅の住所を告げている。
天野も慌てて乗り込んだ。
「どうした? 綾瀬の容態が急変したのか?」
涼太が首を横に振った。
「綾瀬さんのお母さんからだったんだけど、綾瀬さんが家を出たらしい。防護服を着ないで、家を飛び出したって言うんだ!」
「なんだと!?」
天野は空を見上げた。
今この空の下に防護服を着ないで出るなんて、自殺行為に等しい。
「おい! 何のろのろ走ってんだ! 飛ばせ!」
天野は運転手を怒鳴りつけた。
タクシーは猛スピードで走り、綾瀬の自宅に到着した。
「釣りはいらん! 少しここで待ってくれ!」
勘定を叩きつけて綾瀬の自宅へ走る。
白い家の前には、真っ青な顔をした綾瀬の母親が立っていた。
「娘さんはどこだ!?」
「わ、私もどこに行ったのか、見当がつかなくて……」
「部屋は!? 書き置きはなかったのか!?」
母親は震えながら首を横に振った。
「ま、まだ見てません」
「部屋だ!」
天野と涼太は飛び込むように綾瀬の自宅に入った。
暗い家の中に飛び込み、2階への階段を駆け上がる。
天野はノックもせず、綾瀬の部屋の扉を開けた。
綾瀬の姿はベッドから消えていた。
「涼太! お前はベッドを探せ!」
天野は部屋中を見回した。
「くそっ! 暗すぎる!」
部屋にあった蝋燭の火は消えていた。
あまりに暗く、部屋の様子がよく見えない。
照明のスイッチを叩いても反応がない。
照明自体が取り外されている。
天野は窓のカーテンを開け放った。
しかし、全ての窓は板で打ち止めされていた。
「これでは何も見えんぞ!」
明かりを求める天野の視界にテレビが入った。
飛びつくようにテレビの電源ボタンを押す。
だが、テレビは真っ暗な画面を映すだけだ。
どのチャンネルに切り替えても画面は変わらない。
見るとテレビにはアンテナ線が繋がっておらず、DVDプレイヤーだけにケーブルが繋がっていた。
「なんだこれは」
天野はDVDを再生した。
画面が静かに明るくなる。
そこに流れる映像を見て天野は驚愕した。
そして、やり場のない悲しみと、怒りが沸き上がった。
「ゆ、勇二……」
涼太が震える声で天野を呼んだ。
手に「ウサギのぬいぐるみ」を持っている。
ウサギは1枚のメモを握らされていた。
天野はそのメモを奪い取った。
『最後のデートにいってきます』
「くっそおおお!」
天野は叫んだ。
怒りで全身が震えていた。
「ね、ねぇ勇二……」
涼太は泣きそうになりながら、天野に訴えた。
「綾瀬さん、もしかして、もしかしてさ……」
天野は言葉の先を続けた。
「死ぬ気だ」
さらに天野は言葉を続けた。
「涼太、お前が看取るんだ」
涼太はがたがた震えている。
「彼女はお前の腕の中で死ぬことを望んでいる。それが彼女の最後の願いだ。この部屋を見ろ!」
天野は両手を広げて、綾瀬の部屋を示した。
「明かりはない! 装飾品もない! 窓は板で止められて、あるのはベッドとテレビだけだ! そんなものに包まれて死ぬんじゃなく、お前の腕の中で死ぬことを望んでいる!」
涼太はあまりの恐怖に頭を抱えた。
「勇二、い、嫌だ……。ぼ、僕は怖いよ」
天野はテレビを指差し、涼太に呼びかけた。
「これを見ろ。涼太、見るんだ」
テレビは海の風景を映し出していた。
湘南の海だ。
穏やかな波。恋人同士が歩く砂浜。きらめく夏の陽射し。遥か彼方まで続く水平線。
外に出ればすぐ手に入るものが、テレビに映し出されていた。
「海だ、海に彼女はいる」
天野は涼太の顔を真正面から睨みつけ、両手を翻しながら叫んだ。
「この殺風景で、棺桶みたいな部屋で、希望も夢も何もない彼女が、ただひとつ見ていたものがこの映像だ! わかるか、涼太!? お前にはわかるはずだ! 彼女に寄り添い、彼女の苦しみを理解したお前ならわかるはずだ! この部屋で、すぐ側にある海の映像を見ながら、自分に味わえなかったささやかな幸せを空想する! ただそれだけの人生が!」
天野は涼太に近づき言った。
「行くぞ。綾瀬を見送りに行くんだ」
涼太は青ざめながら叫んだ。
「ま、待ってよ! 勇二! 僕は、どうすればいいのさ!? 綾瀬さんにどうしてあげればいい!?」
涼太は天野の足にしがみついた。
「僕が、僕なんかが、綾瀬さんに何をできるのさ!? 綾瀬さんがあれだけ僕を想ってくれたのに、僕はそんなこと、何も知らなかった! 知ろうともしなかったんだ! 僕は彼女を、守ってなんかいなかったんだよ!?」
天野は涼太の胸倉を掴みあげると、思いきり殴りつけた。
涼太は呆気なく地面に倒された。
「お前のくだらない過去や後悔なんてどうでもいい。今、出来ることはなんだ? 彼女を抱きしめ、その最期を看取ることだ! それが彼女の最後の願いだ! それが彼女にとって、本当の最後のデートだ! 彼女が望んでいるのはそれだけだ! 立てよ涼太! 今立たなくて、いつ立ち上がるんだ!!!」
涼太はその言葉を聞いて、強く拳を握った。
瞼を閉じて、綾瀬のことを思った。
綾瀬と過ごした僅かな時間のことを思った。
綾瀬のことを好きだった、幼き日の感情を思った。
この部屋で、海の映像を見ながら、自分のことを想ってくれていた綾瀬のことを思った。
そして、綾瀬が告げてくれた言葉が、涼太の中で光を放った。
「私は涼太くんのことが好きで、好きで……。ずっと好きで、たまらなかったの」
涼太は立ち上がって叫んだ。
「……行こう! 海に!」
天野は頷き走り出した。
綾瀬の家を飛び出し、停めてあったタクシーに乗り込む。
「海だ! 一番近い海に行ってくれ!」
タクシーが急発進して鎌倉の坂道を下って行く。
綾瀬が途中で倒れていないか、2人は必死で目を凝らした。
やがて由比ヶ浜にタクシーは到着した。
「……いた! 停めろ! 涼太、行け!!!」
海岸の入り口に綾瀬が倒れていた。
涼太はタクシーから飛び出した。
「綾瀬さん! 綾瀬さん!!! どうして……どうしてこんな!」
綾瀬は鼻血を流していた。
皮膚は紫外線に焼かれ、真っ赤に染まっていた。
赤く爛ただれた顔が、嬉しそうに微笑んだ。
「よかった……りょうたくん……うみに……いっしょ……」
涼太は綾瀬を抱き上げた。
驚くほどに綾瀬の体は軽かった。
「綾瀬さん……。そうだね、太陽の下で、海に、行きたいんだね……」
「うん……やっと、かなった……」
「そうだね……。君を待たせて、ごめんよ」
涼太は涙を流しながら、綾瀬を抱いて砂浜を歩いた。
潮風も、夏の陽射しも、波の音も、涼太には何も感じられなかった。
ただ腕の中にある綾瀬の温もりだけを感じていた。
「……ああ…………ずっと、こうして……」
「うん。ずっと、ずっと、こうしてるよ」
「……だい、すき……」
「僕も、綾瀬さんが好きだよ。大好きだよ」
「わたし……のこと、わすれ……ないで……」
遠ざかる温もりを抱きしめながら、涼太は叫んだ。
「忘れない! ずっと、ずっと忘れないよ! 大好きだった君のこと、忘れないから! 君との思い出も、君が僕を愛してくれたことも、ずっといつまでも、僕は忘れないから!」
「う……ん……」
涼太は砂浜で綾瀬を抱きしめた。
やがてその命の輝きが消えて、綾瀬の体から温もりが消えるまで、ずっと抱きしめていた。
天野は海岸の入り口に立ち、涼太たちを見つめていた。
その隣に、綾瀬の母親が並んだ。
「……申し訳ございません。勝手なことをしました」
天野が頭を下げると、母親は涙を流しながら首を横に振った。
「いいえ、あの子の最後の願いを叶えてくれて、本当にありがとうございます」
陽が傾き、全てがみかん色の夕焼けに染まるまで、4人はそこに佇んでいた。




