天野くんの後日談
学長選挙の演説から数日後。
天野はいつものテラスにいた。
スマホを眺めながら、静かにタバコの煙を吐き出している。
「やっほー。勇二ってば、やっぱりテラスにいたんだ」
相棒の涼太がやって来た。
苦笑しながらコーヒーを差し出す。
「ほら、僕ちゃんからコーヒーの差し入れ。頑張った勇二へのご褒美だよ」
「ああ、すまんな。いただくよ」
生返事を返しながらスマホを眺めている。何かの映像を見ているようだ。
涼太は呆れながら言った。
「勇二は本当にマイペースだよねぇ……。もう校門とかすっごいよ。マスコミだらけ。今回の事件は全国ニュースになっちゃったねぇ」
ため息を吐きながら告げる。
天野は興味もなさそうに言った。
「桃井が自首したからな。マスコミが騒ぐのも当然さ。教授がラブホで学生を絞め殺すなんて前代未聞だからな」
涼太が力なく頷く。
「しかも『被害者は別の教授の子供を妊娠していた』なんてオマケつきだからね……。深沢教授も大学を辞めたってさ。これからどうするのか知らないけど、たぶん一家離散しちゃうんだろうね」
「自業自得だな。クズには似合いの末路だ」
「ネットではちょっと僕たちのことが噂になってるよ。殺人事件を解決に導いた学生たちがいるらしいって。『天才クソ野郎』も全国デビューしちゃうかな?」
「まったく興味ないな。わかっていると思うが、余計なことを吹聴するんじゃないぞ」
「言われるまでもないよ。僕だってこんなことで目立ちたくないもの」
「ああ、それでいい」
天野は相槌を打ちながらも、ずっとスマホの画面を眺めている。
いったい何を見ているのだろう。
涼太は小首を傾げながら画面を覗き込んだ。
「……あれ? これって……。歌舞伎町の防犯カメラじゃん」
スマホに映っているのは歌舞伎町の雑踏。
裏路地を歩く深沢と中里の姿。その後方には2人を尾行する桃井の姿がある。
「データを拝借したのさ。ちょっと気になることがあってな」
天野は何度も同じ場面を眺めている。
深沢と中里が映っているほんの数秒。
涼太は切なげにそれを見つめた。
「桃井教授も酷いことするよね。たかが『学長選挙』のことで中里さんを殺すなんてさ。深沢教授だってそうだよ。責任が取れないなら避妊すればいいのに。ゴムが欲しければいくらでもあげたのにさ」
嫌そうに言葉を続ける。
「地位や権力に溺れた人間って、本当に哀れなもんだね。何がそんなに魅力的なんだろう? 女の子を殺してでも手に入れたいもの? 僕にはマジで理解できない。中里さんが死ぬ理由なんて、どこにもなかったのにさ……」
さめざめと呟く。
天野は顔を上げ、涼太の顔をじっと見つめた。
「中里が死ぬ理由はなかった。お前はそう思うのか」
「そりゃそうでしょ。あるワケないじゃん」
「この事件は権力に溺れた哀れなクズ共の末路だ。そう思うか?」
「思うね。勇二だってそうでしょ?」
「残念だが……。俺はそう思ってはいない」
天野は腕組みをしながら虚空を見つめた。
何かを思案しながらタバコを取り出す。
「中里美波は『不倫』の気配を一切周囲に感じさせていなかった……。そうだよな?」
「うん。友達は男の気配さえ感じたことがないって」
「それが不可解なんだ。そこまで徹底して隠し切るのは難しい。そう思わないか?」
「まぁ……。確かにそうだね」
「そこまで徹底していたのに、なぜ、この日は桃井に尾行されていたんだ?」
涼太が訝しげに顔を歪めた。
「えっ? それって……。どういう意味?」
「言葉通りの意味だよ。違和感があるのさ。もしかすると、中里は『桃井の尾行に気づいていた』んじゃないのか? ……いや、それも違う。中里は『あえて桃井に尾行させた』のではないかと思うんだ」
腕組みをしながら言葉を続ける。
「これはあくまでも推測に過ぎない。証明する手立てはない。真実を追求するつもりもない。だがもし、中里が桃井の尾行に気づいていたと仮定するなら……。いくつか不鮮明だった事件のパーツが明らかになるのさ」
「不鮮明だった事件のパーツ? なにそれ?」
「お前も気づいていたはずだ。なぜ桃井は『中里のいるラブホの部屋に入ることができたのか』という点だ」
涼太が「あぁ…」と納得したように頷いた。
「それは確かに謎だったね。深沢教授たちがどの部屋に入ったのか。桃井教授が知る方法はない。でもそれってさ、別に解く必要もない謎でしょ?」
「その通りだ。この事件における最大の謎だが、解き明かす必要はなかった。桃井が中里を殺したのだから、何らかの事情で部屋に入ったことになる。犯人が確定している以上、入った理由や経緯なんてどうでもいい。そんなものは警察が取り調べの中で桃井に喋らせる。捜査が進めば勝手に明らかとなるのさ」
偉そうに言葉を続ける。
「だが、恐らくこんな状況だったと推測している。中里は桃井の尾行に気づいていた。むしろ尾行を誘った。ラブホまで桃井を招待したのさ」
嫌そうに顔を歪める。
「なぜ中里がそんな行動に出たのか、俺には理解することができない。これも推測にしか過ぎないが、中里は絶望の淵に立っていたのだろう。男に中絶を求められた女は高確率で鬱状態に陥る。腹の中の生命は自らの分身以上の存在だ。それが愛する存在に拒絶される喪失は並大抵のものじゃない。中里はあの時……。深沢との話し合いの時に……。絶望していたのさ」
涼太は思わず黙り込んだ。
「中里は深沢が部屋を去った後、自らも部屋を出た。そしてホテルの入り口付近に隠れていた桃井に声をかけた。ここでは人目につくから部屋に来てくれ。そんなことを言ったのだろう。つまり、桃井はホテルの部屋に入ったんじゃない。部屋に連れ込まれたんだよ」
涼太は青い顔で天野を見つめた。
ようやく天野が言わんとすることが理解できた。
その『推測』が真実であれば、『事件』はまた違った側面を見せる。
結末は何も変わらないのに、事実は不変なのに、恐ろしいほどに残酷な側面を見せる。
天野は涼太の表情を確かめながら言った。
「理解したようだな。これは一種の『自殺』だったのさ。中里は桃井に自分を殺させたんだよ」
涼太は呆然と天野を見つめた。
脳裏に中里美波の姿が浮かぶ。
泣きながら「産みたい」と呟いていた哀れな少女の姿。
「……自殺? え、ちょっと待ってよ……。中里さんは、殺されるってわかっていたのに、桃井教授を部屋に招いたってこと……?」
「それも違う。桃井が凶行に及ぶよう誘導したんだ。桃井は「騙された」「狂言すると言い出した」と告げていた。恐らく言葉通りのことをしたのだろう」
タバコの煙を吐き出しながら言葉を続ける。
「それは愛した男への餞別でもあり、復讐でもあった。中里としては桃井が逮捕されても、深沢が逮捕されても、どちらでも構わなかったんだ。どちらにしても深沢の『不倫』は露呈されるからな」
軽く首を横に振る。
「それでも一番に望んだのは、桃井が逮捕され、深沢が全学長の椅子に座る結末だろう。深沢に「不倫の果てに女子大生を孕ませて死なせた男」という十字架を背負わせた上で、本人が渇望していた全学長の椅子に座らせてみせる……。それこそが中里が願った、真の狙いだったんだ」
涼太は苦しげに口元を押さえた。
吐き気をこらえている。
天野はその様子を眺めながら告げた。
「事件を生み出したのは権力に溺れたクズ共じゃない。『愛人の執念』だよ。それが中里を殺し、男たちを破滅に追い込んだ。俺たちはみんな、中里の手のひらの上で踊っていたんだろうな」
天野は悔しげに呟いた。
「これは俺の失態だ。あの時、見抜くべきだった。そこまでの女だと、気づくべきだったんだ…………」
**************
事件のあった夜。
歌舞伎町のラブホテルの一室。
中里は涙をこぼしながら土下座する深沢を見下ろしていた。
「すまない……! 本当にすまない! どうか頼む! 私を愛しているなら、今回は身を引いてくれ……!」
深沢は謝罪の言葉を吐いている。
中里は目元を拭い、大きく深呼吸し、ひとつの決断を下した。
「わかった……。堕ろすよ……。それが俊哉さんのためなんだよね……?」
深沢が顔を上げた。
「ほっ」と胸を撫で下ろす。
「美波……! ありがとう……! 本当にありがとう……!」
中里は感情の死んだ瞳でその顔を眺めた。
深沢は心から喜んでいる。
厄介事が消えて安堵している。
「……お願い。俊哉さんは先に帰って。私は1人になりたい」
「いや、で、でも……」
「ちゃんと言われた通りにする。だけど、今日は帰って。これ以上、泣いてる顔を見られたくないの」
「あ、ああ……」
深沢は何度か頷き、そのまま部屋を後にした。
きっと逃げるようにラブホを出て行ったのだろう。
卑怯な男だ。最後まで、卑怯な男だった。
深沢が去った後。中里はベッドの上で、自らの『腹』を抱きしめた。
涙を流しながら、優しく撫でながら、思いつく限りの愛の言葉を届ける。
しばらくすると中里は立ち上がった。
部屋を出て、ホテルの正面玄関から顔を出す。
すぐに電信柱に隠れていた桃井と目が合った。
「……こっちです」
桃井を手招き。
桃井は驚いて中里を凝視している。
何度か周囲を見回し、ゆっくり中里に近づく。
「……き、君は……。やはりそうだ。法学部の学生だな……」
「はい。中里美波といいます」
「深沢は……? 深沢はどうしたんだ? 君は本当に、深沢と……?」
「それは部屋で話しましょう。ついて来てください」
桃井は怯えたようにラブホテルと、乱れた服装の中里を見つめた。
中里は薄手のシャツを羽織っているだけで、下着を身に着けていない。
桃井の顔には困惑が張りついている。
「……人目につきます。私も目立ちたくありません。早く来て」
「あ、ああ……」
桃井は覚悟を決めて中里の後を追った。
誘われるがまま部屋に入る。
桃井は扉がしまると、青ざめた顔で中里に詰め寄った。
「君は何を考えているんだ!? 深沢には妻子がいるぞ。君と同世代の娘もいる。あんな男と関係を持つべきじゃない。今すぐ別れたまえ!」
中里はうつろな瞳で桃井を見上げた。
「あなたには関係ありません。どうせあなたは私たちの関係を使って、深沢教授を強請るつもりですよね? 学長選挙に勝つために」
「バカなことを言うな!」
血相を変えて怒鳴る。
「私がそんなことをすれば、自分がどうなるか、本当にわかってないのか!? 学生を踏み台にしてまで選挙に勝ちたいとは思わん! 深沢のヤツめ……! まさか学生に手を出していたとは……! だからアイツは信用できないんだ!」
忌々しげに息を吐く。
「このことは私の胸に仕舞っておく。誰にも言わん。君は深沢との関係を清算したまえ」
桃井はそう言って背を向けた。
中里は部屋を出ようとする桃井のコートを掴んだ。
「……もう遅いんです。私は絶対に、深沢教授を選挙で勝たせます……。勝ってもらうんです……!」
「な、なんだと……?」
「今から、叫びます。あなたに『襲われた』って。『押し倒された』って。そうすれば、あなたはもう終わりですよね」
桃井が恐怖の表情を浮かべた。
「な、な、何を言ってるんだ……!? 君はいったい、何を考えて……!?」
「このホテルはすごく壁が薄いんです。絶対に廊下まで響きます。どうせなら、本当に襲ってみますか? それでも構いませんよ?」
中里は薄い笑みを浮かべた。
羽織っていた薄手のシャツを脱ぎ捨てる。
そして、張り裂けんばかりの大声で叫んだ。
「や、やめてくれ!」
助けを求める悲鳴。ホテルの外にまで響くような絶叫。
桃井は慌てて中里の口を押さえた。
「やめろ! 何を考えてる!?」
「離して……! 私を殴りますか!? 殴ればいいじゃない!? これでもう、みんな終わりなんです!」
桃井が必死に中里の口元を押さえる。
それでも絶叫は止まらない。
中里は壁と床を叩き、狂ったように暴れだす。
無意識に指先が首筋に伸びた。
「…………がっ! はぁ……! ぐっぅぅ……!」
ようやく部屋に静寂が訪れた。
中里が苦悶の表情を浮かべている。
苦しい。
息ができない。
喉が焼けるように痛い。
桃井を跳ね除けることができない。
薄れていく意識の向こうに、深沢との思い出が揺れている。
これであの人は終わりだ。
さよなら、大好きだった人。
滲む視界に映るのは桃井の顔だけ。
絶望の表情だ。
「あ、あ、あああ……!」
桃井は泣いていた。
顔を歪め、恐怖にあえぎ、両手に力をこめて。
「……な、なぜだ……! なぜ笑っている! わ、笑うな……! 笑うんじゃない!」
桃井の声がゆっくり消えていく。
もう何も見えない。
闇に溶けていく思い出。
遠ざかる意識の中で呟いた。
……ずっと、愛してる。
それが中里が残した、最後の言葉だった。
(おしまい)
ご愛読いただきありがとうございます。
何かひとつでも心に残るものがあれば幸いです。




