天野くんへの依頼
※この物語はフィクションであり、実在の人物及び団体とは一切関係ありません。
都内にある私立大学。学生食堂の2階テラス席。
ここは『天才クソ野郎』こと、天野勇二の特等席だ。
その日、天野はパンとコーヒーを口にしながら、のんびりと穏やかな昼食の時間を過ごしていた。
「やぁ、天野くん。お久しぶり。隣に座ってもいいかな?」
テラスに1人の訪問客が現れた。
物腰の柔らかい中年男性。親しみ深い表情を浮かべている。
天野は驚いたように言った。
「これはこれは……。深沢教授じゃありませんか。『法学部の権威』であるあなたが、こんなむさ苦しい学生食堂で昼食とは珍しい。いつものように教授部屋で松花堂弁当でも食べていればいいじゃないですか」
「あっはっは。手厳しいことを言うねぇ。私も学生と食を共にしたい時があるんだよ」
深沢は笑顔で天野の隣に座った。
法学部の学部長、深沢俊哉。
通称『法学部の権威』とも呼ばれる男だ。
天野は医学生のため、深沢の講義を受けたことはない。
しかし深沢の評判は知っている。
まだ50歳ほどなのに『学部長』にまで登りつめた若きエリート。
穏やかで人当たりが良いためか、学生からの人気は上々。教授陣の信頼も厚い。学生食堂で見かけるのは初めてだ。
「深沢教授……。失礼ですが、俺のことはご存知で?」
「ああ、もちろん」
深沢は焼き魚定食を頬張りながら、天野を優しげに見つめた。
「医学部の首席である紛れもない天才児。それでいて学園一の問題児。天野勇二くんのことを知らない教授なんて、うちの大学にはいないよ」
「それは光栄です。何でもその中には、俺のことを『天才クソ野郎』と呼んでるヤツもいるみたいですけどね」
「あははっ。それはユニークな表現だね」
深沢は温和な表情を崩さない。
紳士的かつ懐の深さを感じさせる男だ。
笑顔で味噌汁を口にしている。
「その味噌汁、酷い味でしょ? 教授会で『味噌汁の品質向上』を掲げてくださいよ」
「これも悪くないじゃないか。若い頃はこんな味を好んだよ。天野くんはいつもパンなのかい?」
「うちは貧乏ですからね。この程度で十分ですよ」
「ほぉ、君のお父上はいくつもの病院を経営する名士だというのに。なかなか質素な生活を送っているんだね」
天野はニタリと嫌味ったらしい笑みを浮かべた。
「そりゃそうですよ。人間、贅沢になれきった豚になったら、おしまいだと思いません? 例えば教授のように遥か高みから物事を見下す間になったら、それは豚以下の価値しかない……。いや、例えばの話ですよ。深沢教授のことじゃありませんよ。あっはっはっ」
皮肉たっぷりの口調だ。
敬語を使ってはいるが、完全に深沢を小馬鹿にしている。
このクソ野郎は誰が相手でも『いつものスタンス』を崩さない。
「ふ、ふふっ……。その通りだね。人間、いつまでも謙虚さを忘れてはいけないね」
深沢は額の汗を拭った。居心地の悪い空気がテラスを包んでいる。
天野は偉そうに腕を組むと、心底楽しそうに深沢の顔を覗きこんだ。
「深沢教授、昼休みは長くない。本題に入ったらどうです?」
「ほ、本題? それはどういうことかね?」
「俺みたいな『クソ野郎』に腹の内を隠す必要はありませんよ。詳しい事情は知りませんが……」
ニヤリと唇を歪める。
「この俺様に、どこかの女を始末してほしいんでしょう?」
「なっ……!」
深沢は慌てて周囲を見渡した。
周囲に人影がないことを確かめ、恐る恐る口を開く。
「あ、天野くん……? な、な、何を言い出すんだね……?」
「いや、俺様はそれなりの地獄耳を持ってましてね。ちょっと妙な噂を耳にしてしまったんですよ」
意地悪く深沢を睨みつける。
「どうやら、1人の若い娘が、とある教授の、とんでもなく『スキャンダラスな秘密』を握っているらしいじゃないですか。教授はそれで困っている。もう引き返せないところまで追い詰められている。こうなったら『学園の事件屋』に頼むしかない。そんな噂を耳にしたんですよね」
深沢は箸を置いた。天野の顔を穴が空くほど凝視する。
この男はどこまで知っているのか。まさか全てを知っているのか。
深沢の頭にいくつもの疑問符が浮かび上がる。
「深沢教授? どうしました? ご飯、冷めちゃいますよ」
「あ、ああ……」
慌てて焼き魚を咀嚼する。
天野のペースに引き込まれないよう、賢明に平然とした態度を保とうと努力している。
天野はそれを眺めながら言った。
「もうすぐ『学長選挙』ですね」
深沢の背筋が凍った。
「その『教授』が『学長選挙』に出馬していたら、とんでもないスキャンダルは命取りになるでしょうねぇ。掴みかけた『全学長の椅子』が遠ざかる。この大学でトップに立つ貴重なチャンスを逃してしまう。1度逃してしまえば、なかなかチャンスは回って来ない。困るでしょうねぇ」
のんびりと深沢の顔を見つめる。
天野は優しく問いかけた。
「深沢教授もそう思いません? 何でも今回は『あなた』と、経済学部の『桃井教授』との一騎打ちなんでしょう? おまけに下馬評では圧倒的に深沢優勢。黙っていても勝てる選挙らしいじゃないですか」
深沢の全身が小刻みに震えている。
天野はニタニタと下品な笑みを浮かべた。
「まぁ、俺はただの学生です。学長選挙なんかに興味はありません。わざわざ街宣車のように叫ぶことはしませんよ。といっても……」
口元に手をやり、ジッパーを締めるように横に引く。
「口にチャックするかどうか。それは相手次第ですけどね」
深沢が勢いよく立ち上がった。
「……天野くん! どうか頼む! 私の話を聞いてくれ!」
その場で勢いよく土下座。
額を床にこすりつけながら叫ぶ。
「この通りだ! 今度の選挙が最大のチャンスなんだ! 負ける訳にはいかない! そのために、君にどうしても頼みたいことがあるんだ!」
天野は椅子に踏ん反り返った。
恍惚とした表情を浮かべ、偉そうに土下座する深沢を見下ろす。
(クックックッ……。教授様が『学園一の問題児』に土下座か。悪くない光景だ。初めからその姿勢で話せば良いんだよ)
天野は笑みを浮かべながら深沢に近づいた。
肩を抱き立ち上がらせる。
「深沢教授。何をしているんですか。学生に土下座なんてみっともない。それこそ噂になりますよ。さぁ、椅子に座りましょう」
「ああ……。す、すまないね……」
「それで……。俺様に何を『依頼』したいのか。教えていただけます?」
まるで蛙を見つけた蛇のように、天野はニタリと不敵な笑みを浮かべた。




