大神殿①
5/23はキスの日らしい。
神殿の鐘の音が、荘厳に鳴り響く。
晴れた日。
祝福された二人の門出に、それは相応しい日だった……。
アニーという名の娼婦に出会った。
10のときに人買いに連れ去られ、この街に来たのだという。
奴隷として売り飛ばされる前に運よく逃げ出せたものの、たどり着いた道は結局こんな掃き溜めのように汚れた世界。
「それでもアタシは幸せ。だってアタシは、自由だもの」
と、彼女は笑った。
ボロアパートの一室。
安物のベッドと、小さなタンスと、壊れかけたテーブルと椅子が1つずつしかない薄暗い部屋。
汚れたカーテンの向こう側には、隣の建物の湿った壁しか見えない。
性質の悪い客に絡まれていたところを偶然救ってやったことに痛く感動したらしい彼女は、明るい笑顔で僕の手を引きながら、有無を言わさずこの部屋に招きいれたのだ。
この部屋の空気には覚えがある。
かつて僕もこんなところで、彼女のように暮らしていた日々があったから。
「ねえ、綺麗な剣士さん」
少し欠けのあるティーカップに紅茶を注ぎながら、彼女は言った。
「お金が溜まったら、故郷を探して旅に出てみようと思うの」
安物に違いないその茶の香りは、しかし、不思議と芳醇に思えた。
「その時は、アタシのボディーガードをしてくれる?」
「ギルドの依頼料は高いぞ」
進められた紅茶を一口飲んで、僕は答えた。どうやらカップは一つしかないらしく、彼女は微笑みながら傍らに立っていた。先刻男に暴力を受けた頬が少し腫れているのが痛々しい。
「体で払うわ。ダメ?」
「……冗談じゃない」
「あら、失礼ね。お代わりあげないわよ」
そういって、僕の頭をコンと小突く。
僕は、女は嫌いだ。
与えられる恩恵を当然のように振る舞い、僕の心を踏みにじる。
だが、彼女のような女たちは別だ。
傷ついた体で精一杯背伸びをし、届かないものに向かって手を伸ばしながら、愛を求め、光を夢見て……社会の底辺で蔑まれ、泥にまみれながらも必死に生きている。
そんな女は、嫌いじゃない。
「ねえ、今夜は泊まっていって。気に入らないかもしれないけど、お礼をさせて頂戴」
「……紅茶をご馳走になった。それで十分だ」
「なによ、格好つけないで」
「そういうつもりじゃない」
僕は席を立ち、早々に部屋を出て行こうとしたが、白く細い手が僕の腕を掴んだ。
「お願い、一晩でいいからここにいて。なんだか最近、とても心細いの……お願い」
「……」
「あなたはとても不思議な人。何故だか初めて逢ったような気がしないの。あなたなら、きっとアタシの気持ちを分かってくれる……そんな気がするのよ」
「それは気のせいだ」
「それでもいいわ」
甘く香る金色の髪。
震えながら胸にすがり付いてきた体を、僕はそっと抱きしめた。
涙に潤んだ青い瞳が僕を見上げ、優しく振るえる睫毛が静かに伏せられる。
青い痣の残る頬をそっと撫で、僕はまだあどけなさの残るその顔に似合わぬ、真っ赤なルージュを引いた唇に口付けた。
遠い日の自分を、慰めるように。
できうる限りの、愛を込めて。