妹とVPN
「お兄ちゃん! お勧めのVPNってありますか?」
睡の唐突な問いかけに俺はにべもなく答える。
「ねえよ」
「そんな! 知ってるくせに教えてくれないんですか!?」
「無いって言ってんだろ! 炎上の身バレを避けるために使うテクノロジーじゃないんだよ!」
睡は憤慨する。
「まだ誰も炎上したなんて言ってないじゃないですか!」
だってなあ……
「じゃあVPNの有意義な使い道について答えてくれよ? まさかスマホのペアレンタルコントロール回避のためとか言わないよな?」
睡は必死に首を振る。
「まさか! 私はちゃんと契約時に口八丁で言いくるめてフィルタリングは外してますよ!」
「それがいいことだとは思わないがな……じゃあ一体何に使う気なんだよ?」
睡はぐっと言葉に詰まる。
「そ、それは……アカウントとるときからIPアドレスを誤魔化して……」
聞く必要はなさそうだった。
「はいはい、素直に生IPでアクセスしような? そういうことのために使うもんじゃないから!」
VPN、つまり仮想通信網を使えばIPアドレスは誤魔化すことができる、ちなみに無料でまともにずっと使えるような製品はない。
「そんな! ケチじゃないですか! なんか警察にチクられても情報開示しないVPNとか知ってるんでしょう?」
「だって……そういう使い方をすると俺も迷惑だしなあ……なんだかんだでそういうことを考えてると大抵どっかから漏れて情報開示されるのがオチだぞ?」
無料のランチなど無いという有名な言葉がある。金も払わず完璧なセキュリティとプライバシーをもらおうなど図々しいにもほどがある。
大体そんな情報開示請求されそうな使い方をすると宣言しておいて誰がそんなことに協力するんだよ。
「いいじゃないですか! 私にレスバ力をつけさせようという気はないんですか?」
「ある分けねえだろそんなもん!」
妹が不毛なレスバをするとかあまつさえそのために力をつけさせるとかやりたいわけがないだろう。
コイツはこの前の炎上で諦めたかと思っていたが、全くそんなことは無いらしい。他人ならば好き放題やらせるところだが妹だとそうもいかない。
「なあ、皆仲良く出来るって素敵なことだと思わないか? 何の実りもない争いを繰り返すよりよっぽどいいと思うぞ」
「そうですね、他の人が皆ワタシの意見に従ってくれる社会というのはとても素敵だと思いますよ」
ダメだコイツ……何も分かってない。
「そういうのはディストピアっていうんだよなあ……」
「全てワタシの意見通りに動く社会ですよ! 人類の夢のような社会じゃないですか!?」
どんだけ夢のない社会なんだろう……妹にもう少し社会常識を教えてやるべきだったかとも思うのだが……小学生で知っておくべきような内容だな。
俺はいい加減うんざりして睡のお目当ての情報を渡してやることにした。
「ここのVPNは無料で使えて、このアプリ入れれば接続できるぞ」
睡は嬉しそうにした、もう少し考えをめぐらせて欲しいものだ。
「さすがお兄ちゃん! 妹の需要を分かってるじゃないですか!」
「ちなみにログはちゃんと取られてるし、情報開示請求があったら全部公開するからな? 滅多な使い方はするもんじゃないぞ」
睡は盛大にため息をついた。
「私はログも無ければ絶対に情報を漏らさないものを所望したはずなんですがね……」
どうやらお気に召さなかったようだ。そんなことを言われても炎上するようなことに手助けをしてやる気にはなれない。人間社会のルールってものがある、それにもとるようなことはしてはいけないんだ。
「睡、やっちゃいけないこととやってもいいことの区別くらいはつけて欲しいんだがな……」
「そもそもルールとは私のことです! 私がルールだ! なので何の問題も無いでしょう?」
「そこまで唯我独尊でいられるメンタルは素直にすごいと思うよ……真似したいとは欠片も思わないけどな」
「お兄ちゃんは甘いんですよ! 合成甘味料もビックリの甘さです! もうちょっと意見を違えるものは徹底的に潰しておこうとか考えないんですか?」
コイツ、粛正とかが起きたときに真っ先に消されるタイプだなあ……平和な世の中で本当によかったよ。
自分で探せと言いたいところだが、コイツに探させると怪しいアプリを拾ってきて情報を好き放題抜かれるパターンしか見えないんだよなあ……
VPNは全通信を代理する代わりに信用できないところだと運営がカギを持っていて全ログを平気で解析したりする。そういうところを使いそうな危うさが睡にはあった。
「はぁ……とりあえず腹が減ったな、買い物でも行かないか?」
「お兄ちゃん、話を誤魔化さないでくださいよ」
「ああ、睡の作る美味しい料理が食べたいなあ」
「う……」
「妹の作ってくれた料理ほど美味しいものは無いんだけどなあ」
わざとらしかったかな?
「しょうがないですね、夕食はごちそうを出してあげましょう!」
チョロい。
「じゃあ早くスーパーに行きましょうか! お兄ちゃんが私の料理を希望してくれている……ふへへ」
そうしてスーパーにやってきた。俺が肉を希望したので睡はそれなりに良い肉を買って自宅で焼き肉ということになった。本来の目的は忘れているようで、できればこのまま忘れていて欲しいと思う。
「お兄ちゃんはカルビ多めでいいですか?」
「ああ、量がある方が好きだからな。ロースだとちょい高いし」
「了解、じゃあまとめて買っちゃいますね!」
そう言って大量の肉をカゴに放り込む睡、俺でも食べきれるか怪しい量だった。
「睡、お金は大丈夫か?」
「ええ、プリペイドカードに数千円はチャージしてますからね、それで払える量ですよ」
準備のいいことだ。そして俺たちは肉を多めに買って帰途についた。
その晩の焼き肉は、大量の肉をホットプレートで焼いたのだが、小さめのものだったので肉が一回でおけないほどの量だった。
「お兄ちゃん、はい! あーんしてください!」
少し考えてこの夢気分の睡をリアルに引き戻さない方がいいような気がして睡のされるがままに俺は食べさせられた。
「ふぅ……よく食べたな……」
「じゃあお兄ちゃん! 私にあーんをしてください!」
「ほら、あーん」
睡は少しキョトンとしてから肉を口に入れる。頬を赤く染めて美味しそうに食べている。どうやら本来の目的はすっかり忘却してしまったようだ。できればこのまま永遠に忘れてしまって欲しかった。
夕食後、睡が顔を赤くしてお風呂に急いだため、俺は無事その日の無茶振りから逃れることに成功したのだった。
――妹の部屋
「お兄ちゃん ああお兄ちゃん おにいちゃん」
思わず一句詠んでしまうほどよい日でした。お兄ちゃんがデレることって滅多にありませんからね!
私の方が耐えきれずお風呂に逃げてしまったのは失敗でしたが明日はそうはいきませんからね! お兄ちゃんも覚悟を決めて欲しいものです。
その日、私は何か忘れているような気がしたのですが、頭の大半をお兄ちゃんが占めていたのでそんなことは気にもならないのでした。




