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ぼくは信長  作者: ほすてふ


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武田

 武田との付き合いは、ぼくが尾張を制する前からあった。

 鷹の調達を依頼したのはいつだったか。親父が死んでより後だったはずだが。


 本格的に協力するようになったのは上洛を決めてからになるが、一族同士の婚姻、後にぼくの息子の正室に武田の姫を迎えることでさらに間を深くした。


 甲斐武田は周囲を強敵に囲まれていた。信濃へ手を伸ばしても接する相手に美濃と織田が加わることとなっており、利害の上でも手を組むことは理にかなっていた。

 そのため長らく良い関係を続けてきたのだ。


 駿河侵攻への同心。

 宿敵と言われている上杉との関係の改善。

 この二つが特に大きな支援だろう。


 徳川とも同盟していた織田を通じて武田徳川は連携して駿河遠江を領する強国今川を攻め取った。

 武田は今川に加え北条。さらにもともと敵対していた上杉を同時に敵に回すこととなるところに上杉との和睦を実現させたのはぼくと義昭さまの尽力によるものだ。


 このことについて、武田はわざわざ感謝状を贈ってくるほど喜んでいた。

 それ以外にも、日ごろから織田を頼みにしている、織田のおかげだなどと漏らしているという情報も得られている。


 比叡山を焼いた時には非難の手紙が送られてきたが、これは信心深い故のことだろうし、必要なことであったのはわかってくれるだろう。実際、先の感謝状はその後のことだ。


 そのような態度でいてくれるものだから、ぼくも忙しい中、力を貸そうと思えたのである。

 もちろん、幕府が、そして織田が優先ではあるが、直近でも、畿内近江美濃尾張伊勢と目まぐるしく動く戦況を維持しながら、当主がなくなった家を安定させるために養子を入れたりと内外で様々に重要な問題が重なる中で、先年和睦を破棄した上杉に対し再度の和睦を取り付けたところだった。


 もう少しというところで、武田が兵を集める動きをした。

 これはいかんと、義昭さまとともに、上杉を挑発するようなことは控えてくれと諫める手紙を送り、上杉には理解を求める手紙を送ったのだ。

 そんな苦労の中で、上杉に再度の和睦を認めさせた。


 また、この年の夏には義昭さまから本願寺との和睦仲介の話が回っており、武田はこれを了承していた。


 にもかかわらず。


 その秋に、甲斐武田は裏切ったのだ。


 東美濃にある織田の一門が治める城を落とし。あろうことか織田の一門を家臣と結婚させた。養子に入れていたぼくの息子も拉致されたらしい。

 遠江の徳川軍を壊走させ。

 三河へも侵攻したのである。


 徳川は自業自得と思わないでもないが。


 それ以上にぼくは怒りに打ち震えた。驚きもあったが、それ以上にこの野郎という思いが強かった。


 ぼくは、そして義昭さまは、ぼくを攻める準備をしている武田のために苦労して上杉との和睦を斡旋していたということだ。


 そんなことってある?


 長年積み上げた労力も信頼も裏切って、身内に手を出し、だまし討ちの要領で突然仕掛けてきたのである。

 これが怒らずにおれようか。


 ぼくは上杉に怒りの手紙を書いた。

 和睦なし!

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