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駆け込み乗車殺人事件

この小説はかって存在した小説投稿サイトe-ペンギンに2006年に発表した作品です。あとに第3話、第4話が続きます。4話までの表題文字の一部をつなげると風林火山となる様に物語を構成しています。

 大和太郎事件帳第二話 《武蔵林影むさしりんえい



 プロローグ;


 武蔵野は、月に入るべき影もなし、草より出でて草にぞ入りぬ 


(武蔵野には、月が陰になってしまうような木々はない。草原ばかりで月は草の陰から昇り、草の陰に沈む。身を隠すことも出来ない、なんと殺風景なことよ。)


と古歌に詠まれているように、武蔵の国が置かれた万葉の時代(飛鳥・奈良時代)には、(現在の様に)武蔵野の雑木林は存在せず、湿地や、草原が広がる土地で有ったようである。

武蔵の国の範囲は、《現在のJR横浜線より東側の神奈川県内+埼玉県ほぼ全域+江戸川区、葛飾区あたりを除く東京都内》の地域である。武蔵国府は、現在の東京都府中市の大国魂おおくにたま神社のあるあたりに置かれていた。大国魂神社の例大祭は『暗闇祭くらやみまつり』と呼ばれ、4月30日の東京湾の品川沖海上での『禊祓みそぎはらい式』を始まりとして、5月3日の『競馬こまくらべ式』、5月5日の夕刻から灯りを消した暗闇の中で行われる『神輿渡御みこしとぎょ』でクライマックスに達し、5月6日『鎮座祭ちんざさい』で終る7日間の行事である。

昔は、現在の荏原神社(品川区北品川)のあるところが東京湾の海岸近くであったので、この神社の近くの天王洲あたりで『禊祓式』は行われたのだろう。(江戸時代までは天王洲あたりは海であった)

天王洲の天王は牛頭天王ごずてんのうの略で『スサノオノミコト』のことであり、全国の八坂神社の祭神であり、出雲の大国主命に国譲りを勧めた神様である。スサノオは父神のイザナギから『海原を治めよ』と委任されて高天原から降臨した神様である。

また、万葉の時代(630年から760年)には陸路の東山道(江戸時代の中山道に近い)よりも、海路または東海道でこの荏原神社近くの海岸に到着し、ここから陸路または多摩川を舟で府中を目指す方が楽であったであろう。しかし、万葉の時代の武蔵国は東山道に属しており、771年から東海道に属したらしい。武蔵の国荏原郡は現在の神奈川県川崎市から東京都千代田区に渡る地域であり、湿地帯でもあったようである。



 武蔵林影1;銃撃事件

5年前の2001年12月25日(火)午後1時頃


大和太郎は埼玉県嵐山町の都幾川土手をひとり、散歩しながら、スリーデーマーチ殺人事件のことを思い出していた。(この事件は第一話『比企の風』を参照)

前方から歩いて来た若い男女のカップルが太郎の前方5メートルくらいに近づいた。


その瞬間、太郎は耳元で『キューン』と風を切る小さな音を感じた。

咄嗟に、太郎は土手の陰に倒れこんで、身を伏せた。


「これは、確かに、拳銃の銃弾が体の近くを通過するときに聞こえる音だ。発射音は聞こえなかったな。消音器付の拳銃からの発射か?照準器付のライフルならもう一度狙ってくるな。」

太郎は、探偵稼業をはじめる前に、国際空手連盟北辰会館アメリカ支部の空手仲間であるスチーブ・キャラハンと、サンフランシスコにある銃器販売店の地下室で拳銃やライフルに対する身のこなし方を訓練したときのことを思い出していた。

「いったい、誰がねらってきたのだろう?前方のカップルだろうか。音の流れから推察すると、銃弾の方向は左前方から右後方に流れていったようだな。とすると、土手の左側に平行している道路からか?車が1台前方から走って来ていたな。」と、太郎は倒れこむ瞬間に見た、周辺の状況を頭の中で確認していた。

そう思ったところで、土手の上に再び立ち上がって、道路上に目をやった。ワンボックスの黒いバンが遠くに走り去っていくのが見えたが、ナンバープレートの番号は読めなかった。

「男女のカップルを狙ったのか、それとも俺を狙ったのか?単なるいたずらか?それとも本気で狙ったか?」と太郎は考え込んだ。

男女のカップルは、何事かと、太郎を見ながらキョトンとしている。

銃弾の音は感じていない模様である。ふたりは太郎の横を、くすくす笑いながら通り過ぎていった。

「この件を警察に通報しても、弾丸を発見できなければ、信用してくれないだろう。」と思い

しばらく様子を見ることにした。

・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

その後、太郎が命を狙われる新たなる事件が発生しないまま、5年が経過した。



 武蔵林影2

東京都内、池袋駅前西口広場の弁慶寿司;5年後の2006年4月10日(月) 午前11時ころ


《大和探偵事務所 よろず相談、調査を安価にお請けいたします。当すし屋にお尋ねください》の看板が掛かった『弁慶寿司』のドア−をあけて、50歳くらいの中年紳士が中へ入った。


「いらっしゃいあし。」板前が、いつものお客への挨拶をした。

「カウンターでいいですか、板前さん。」と紳士が訊ねた。

4人掛けのテーブルが空いていたが遠慮してカウンターにしたのだろうかと、板前はおもった。

「板前さん、特上の握り1人前下さい。」

「へい、了解しやした。」と板前が、威勢よく返事した。 

「ところで、表の看板にある大和探偵事務所の件ですが?」と、紳士が訊いた。

「探偵さんならそこのピンク電話の横にあるチラシの番号に電話してください。東武東上線の東松山駅前に事務所があるようですよ。」と板前が言った。

お茶が出てくるのを待ってから、紳士は板前に話かけた。

大和やまとは探偵さんの名前ですか?」

「そうですよ、大和太郎という、空手4段のひとですよ。」  

「で、どのような案件をよくお受けになるのかはご存知ですか?優秀な人でしょうか?」

「ああ。詳しい依頼内容のことはよく知らないんですが、最初は身上調査で来る人が多いんです。ところが、いつのまにか殺人事件に発展しちゃうんですよ、これが・・・。」と寿司をにぎりながら板前が説明した。

「そうですか。」と紳士。

「ところが、この事件が、すぐに解決しちゃうんですよ、不思議に。」

「そうですか。」と紳士。

「ええ。探偵さんが優秀なのか、担当刑事が優秀なのか、それはわかりません。」と、田村正和(俳優;古畑刑事役)の真似をしながら、板前は『にやっ』と笑った。

「探偵をする前のことはご存知ですか?」と紳士が聞いた。

「ああ。以前は品川にあるS電気の営業マンだったみたいですよ。会社の帰りに、この近くにある北辰会館で空手稽古をしてから、いつも、寿司を食べに来られました。そのご縁で表に探偵事務所のかんばんを掲げ、紹介してあげてるんですよ。いまでも、稽古帰りには寿司を食べにみえますよ。」と板前が言った。



 武蔵林影3

埼玉県東松山市の大和探偵事務所;4月10日(月)午後4時頃 


「大和太郎でございます。」と名刺を紳士に渡した。

「山形三郎と申します。」と紳士は燕三条中古車連盟とかかれた名刺を差し出した。

「新潟県内で、中古自動車の販売をされているのですか?」と名刺を見ながら、太郎が訊ねた。

「販売ではなく、中古車オークション会場の運営をしています。中古車販売を行っている会員の方々が、競売で購入されます。車の出品者の方と購入者の方から競り落とされた金額の3%を手数料として頂戴しております。」と山形が答えた。

「それで、ご依頼の件は?」と太郎がきいた。

「電話でも話しましたが、東松山市のとなり町の坂戸市に新しく実車オークション会場を開設する為、工事を推進しております。新潟では、車種のバラエティや品質など、一流の車の調達が難しいのです。首都圏で会場を開き、会員に良い車を紹介したいのです。坂戸市は関越自動車道の鶴ヶ島インターが近くにあり、関東近県から多くの中古車関連業者の来場が見込めます。この会場の従業員を現在募集しております。この従業員の候補が数名決まったのですが、その身上調査をおねがいしたいのです。ここに、その人の履歴書のコピーを持って来ました。」と3名分の書類を差し出した。

「経理担当予定の大沢和彦さん60歳、会員窓口担当の霧島信子さん48歳、総務担当の玉井健一さん51歳の3名です。住所は、埼玉県朝霞市、埼玉県坂戸市、埼玉県志木市です。」と山形が言った。

「年配の方ばかりですね。」

「ええ。一流会社のリストラで退職された方々です。今は、中小企業にとって、優秀な方を安い給料で雇用するチャンスです。視点を変えれば、日本経済再構築のチャンスでもありましょうか。どの業界も新規参入企業が増えてくるでしょう。」

「調査項目はどのように致しましょう?」と太郎が訊いた。

「家族、親戚筋に悪人がいるかどうか。本人の最近の評判、素行の確認、履歴書記載事項の再確認の3点で結構です。経理担当の大沢さんは、融資銀行からの紹介で一応信用できるとおもいますが、とりあえず、入念に調査しておいてください。」と山形がいった。

「解りました。調査期間は3週間以内。前金で30万円、残金は報告書提出後に現金振込で頂戴いたします。前金が私の銀行口座に入金され次第、活動開始いたします。」と太郎が言った。

「前金は明日入金します。よろしくお願いいたします。」と山形が答えた。


 中古車のオートオークション(通称AA)は、インターネットや衛星中継による通信型オークションもおこなわれているが、車の写真と車検査員の査定報告書を信用して購入を決めるため、ある程度の返品トラブルもある。実車オークションでは、購入者が会場に置いてある実車の品質を自分の目で確認して購入を決めることができる為、落札後の返品は少ない。オークション会場の信用は、検査員の査定内容と実車内容の一致度合の正確さで決まるが、サービス体制、会員接客なども重要である。山形三郎が、従業員採用に慎重な理由がここにある。AA会場には全国から中古車ディーラーが集まるので、高速道路のインターチェンジ近くに会場を設けることが多い。

AA会場の手数料収入は、落札金額の3%を出品者と落札者の双方から貰うので、都合6%になる。あとは会員費や出品手数料などが収入源である。



武蔵林影4

駆け込み乗車死亡事件;4月30日(日) 午後11時頃 JR蒲田駅京浜東北線横浜方面行きホーム南端階段


「おおっ寒い。5月直前とはいえ、今年は天候不順で雨が降ったり止んだりの日々が続き、今夜はかなり冷えこんでいるな。」と太郎の友人が、1、2番線ホームに降り立つと同時に言った。

品川のS電気に勤めていた頃の同期仲間たちとの飲み会をJR品川駅近くの飲み屋でおこなった帰りのことであった。東急池上線の千鳥町駅近くに住む友人の家に泊めてもらうため、大和太郎は蒲田駅横浜方面行きホームに電車から降り、友人と二人で池上線へ向かうべく昇り階段に向かった。

ちょうど、昇り階段の近くまで来た時、最上段から騒ぎながら、階段を駆け足で降りてこようとしている二人の白い人影が目に入った。

電車は少しの間ドアーを開けて停車していたが、発車のチャイムが鳴り始めていた。

太郎と友人は、駆け込み乗車をしようとしている二人と衝突しないように、反対の左側の壁沿いを昇りはじめた。電車から降りた30人くらいの人々は皆、このふたりを避けるように階段を昇って行った。

太郎が階段の中程くらいまで昇ったとき、右後方下段で『わあー』と大きな声がし、階段を歩いていた人の波がピタリと止まった。

太郎が振り返ったちょうどその時、4メートルくらい離れたところで白いトレンチコートを着た二人が倒れかけていた。階段上に白い人影が倒れた後、『ゴン』という鈍い音が周囲に広がり、太郎の耳にも聞こえた。

「倒れた人が頭を打ったな。」と太郎はおもった。

「うん?」と一瞬、何か不自然な感じを覚えたが、倒れた人がどうなったか気になり、事故現場を上から見ていた。トレンチコートの二人の背中しか見えず、その下にいる人の姿が見えない。コートのボタンをはずしている為に、コートが広がって、下に隠れている人の姿が見えない。

数秒してから、トレンチコートの二人は立ち上がって、すぐさま電車に乗ろうと、「うわー」と言いながら走り去っていった。十秒たらずの間の出来事であった。階段上にいるすべての人の目は、目を見開いた状態で仰向けに横たわっている一人の中年男性にそそがれた。頭が階段の下方、足が階段の上方にあり、逆さ釣り状態である。

「やっぱり。」と太郎はおもった。

頭からどす黒い血がじわじわと流れ始めている。

「大丈夫かな?」と周りの人々はおもっているのであろうが、皆、遠巻きに眺めているだけであった。やや酒に酔っていたので、太郎も静かに眺めていた。

倒れている人のものであろうか、頭の近くに黒ぶちの眼鏡がチョコンと置かれたように階段上にあるのが見て取れた。

しばらくして、誰かが駅員を呼んだのであろう、ふたりの駅員が駆けつけて来た。

「救急車と警察を呼んで来い。」と一人の駅員が、もう一人の駅員に言った。

「どなたか、手を貸してください」と駅員が声をかけた。

30歳前後とおもわれる青年男性が近づいて、駅員と一緒に倒れている中年男性の姿勢を階段中頃の幅の狭い踊り場に、水平に寝かし直した。その若い男性は倒れている中年男性を心配しているかのように、匂いを嗅ぐような仕草をした。それを見た太郎は、「はっつ。」とした。

太郎は、倒れている中年男性の傍に行き、口の中を開いてみた。自分の舌による気道閉鎖を起こしているかどうかを確かめたのである。そして、胸を開き、耳をあてて、心臓の鼓動を確かめた。空手稽古での気絶者にたいする応急処置として、いつも練習している事である。

「虫の息ですね。速く救急車が来てくれればいいが。頭部の出血は抑えないほうがいいでしょう。頭蓋骨が割れていると、脳に悪影響を与えますから。」と太郎が駅員に説明した。

若い男性は、階段上に置いてある自分のボストンバッグの横に戻ってしばらく眺めていたが、警官や救急隊員が来るまでに立ち去っていった。

階段上で眺めていた多くの人も三々五々いなくなっていった。

10分くらいで救急隊員や駅前の交番から警察官が到着した頃には、時刻が遅い為もあり目撃者や見物人はほとんど居なくなっていた。太郎と友人も、その頃には、池上線に乗っていた。

少し遅れて警察署から到着した警官は駅員からの事情聴取だけで、駆け込み乗車事故として、事故調書に状況を書きとめただけであった。蒲田南警察署が再度現場調査をはじめたのは、被害者が救急車で搬送された病院からの死亡通知連絡を受けてからであった。単なる傷害事件と傷害致死事件とでは、捜査方針が全く違ってくる。



 武蔵林影5

池上線電車内;4月30日(日)午後11時15分発、五反田行き電車が池上駅に到着した頃


「しまった。これは殺人事件だったかもしれん?」と、突然、太郎が友人に話し掛けた。

「どうした、大和。先ほどの事故のことか?」と友人が訊き返した。

「ああ。あの男たちが倒れ込んだとき、一瞬変だと感じたんだ。」と太郎が言った。

「なにが、変だったんだ。」

「『ゴン』という音がしたときのタイミングがね。本来の音がすべきタイミングより0.5秒くらい遅れていたような気がするんだ。あの時、『おやっ?』と思ったんだが、倒れている人のことが気になって今まで忘れていた。やはり、酔っ払っているのかな、俺は。」と太郎が言った。

「多少はな。しかし、喫茶店で1時間くらい2次会をしたから、ほとんど酔いは醒めているよ。俺たちは。」と友人が返事した。

「それに、あの男。駅員と一緒になって倒れた男性の姿勢を直した若者。あいつがあやしい。匂いを嗅いでいたな、あいつは。あれは、中年男性が死んだかどうか、呼吸を確かめていたんだ。ああっ。しかし、どんな男だったか記憶にない。服装の色も覚えていない。ああっ。」と、太郎は頭を掻きながら呟いた。

「それに、白いコートの二人ずれは、あのタイミングでは電車に間に合っていないはずなのに、現場に戻って来ていなかったぞ、確か。」と友人が答えた。

「中央階段の方から逃げたか?」と太郎が言った。

「ああ。怪しいな。でも、俺も、若者のことや、コートの男たちの顔や形は全く覚えていない。」と、友人が言った。

「おそらく、あの場面に居た野次馬全員が我々と同じ様に、記憶にないだろう。だれもが、倒れた男性に気が向いていたからな。それから、田町。」と太郎が友人に向かって話をつづけた。

「俺たちが、白いコートの二人を避けて階段を昇ろうとした時点で、4人くらいの人間が、階段の中腹で立話をしていたのを覚えていないか?そいつらが、白いコートの二人と共謀していたとしたらどうかな。特に、3人が倒れこむスペースを確保する役目を担当していた可能性がある。階段を昇る為に、われわれは足元しか見ていなかった。その間に、奴らがどのように動いたかが目に止まっていない。他の降車した乗客たちも、階段を昇るときは、下を向いていたはずだ。事故現場には多くの人はいるが、肝心なタイミングでの目撃者が居ない。計算されているな、この事件は。倒れていた中年男性は電車から降りてきたのではなく、立話グループの4人の中にいて、クロロホルムでも嗅がされたか、睡眠薬か酒でも飲まされて意識朦朧の状態になっていたとしたらどうかな。それに、あの黒ぶちの眼鏡。あれも変だ。誰かが置いたような雰囲気だった。倒れこんだときに外れたのなら、もう少し遠くに飛ばされて、レンズも割れていたはずだ。あれだけ激しい音がしたのだから。白いコートの男たちも立ち上がるのに少し時間が掛かりすぎだ、急いでいたはずなのに。プロの殺し屋集団の犯行か?」と太郎が友人にささやいた。

「考え過ぎじゃないのか、大和。おまえは、探偵稼業で想像力が逞しくなっちまったんじゃないのか。」と、友人が冷やかした。

「ああ。そうかも知れんな。確かに、想像の域を脱していないな。公衆の面前に於ける完全犯罪か?それに、この話を警察にしたところで、お前と同じで、馬鹿にされるだけだな。相手にされないだろう。」と太郎が言った。

「あの階段の上と下には監視カメラが階段側を向いて設置されているから、駅事務所でビデオ再生すれば、事故状況はわかるはずだ。」と友人の田町が言った。

「そうか。監視カメラがあったのか。気がつかなかった。やっぱり酔いが残っている所為かな。注意力が鈍っているな、今日は。」と太郎は自嘲気味に言った。

「今ごろは警察官が、ビデオ内容を確認している頃じゃないかな。安心しろ、大和。」と田町。

「そうだな。まっ、今夜は世話になるよ、田町。よろしく。」と安心したように太郎が言った。



 武蔵林影6

大和探偵事務所;5月2日(火)午前10時頃


「4月26日に調査報告書を郵送しましたが、到着しましたでしょうか?」と、太郎が山形三郎に電話で確認した。

「ええ。28日に受け取りました。調査費の残金は本日入金します。」と新潟にいる山形三郎が答えた。

「調査内容にご満足頂けましたでしょうか?」と太郎が訊いた。

「ええ。ありがとうございました。昨日、経理担当予定の大沢さんに採用通知をしたのですが、弁護士をされている弟さんが死亡されたみたいです。」と山形がいった。

「弟さんというと、報告書に書いた弁護士の大沢達美さんのことでしょうか。」と太郎が訊いた。

「ええ、そうです。それで、採用に応じるかどうか、返事が保留になっております。」と、山形。

「それでは、追加で別人の調査をする可能性はありますか?」と、太郎。

「いえ。今のところ、大沢さんが気に入っていますので返事を待ちます。」と、山形。

「そうですか。では、また調査が必要でしたら、ご連絡ください。ありがとうございました。」と太郎が電話を切ろうとした。

「ああ、チョット待ってください。弁護士の弟さんの調査内容で少し訊きたいのですが、よろしいですか?」と山形。

「ええ。弁護士ということで信用できる人だと思い、直接面会などは行っておりません。本籍地の役所での調査から、住所地の役所での確認、近隣住民からのヒアリングで報告書をまとめました。仕事の態度については、弁護士仲間からそれとなくヒアリングしましたが、特に問題ないようでした。」と太郎。

「そうですか。大沢さんのお話では、弟さんの死因が不自然らしいのです。電車のホームで他人と衝突したらしいのですが、その相手がわからないので、その人間を探したいらしいんです。その犯人が見付かるまでは、採用の返事を保留したいとのことなんです。私としては、早く返事がほしいのですが。」と不安気に山形が話した。

「いつ頃の事件ですか?それは。」

「一昨日の4月30日らしいです。」

「もしかして、東京のJR蒲田駅での事件ですか?」

「いえ。駅名は訊いていません。」

「わかりました。ぶつかった犯人を早く知りたいと言う事ですね。私がお手伝いします。」

「犯人が1ヶ月以内にみつかれば、特別ボーナスをお支払いします。よろしくお願いします。」と山形が言って電話を切った。



 武蔵林影7

コンタクト(1);5月3日(水)東松山市の大和探偵事務所


大和太郎が大沢和彦に電話をかけている。


「大和探偵事務所の大和太郎と申します。」

「ご用件は?」と大沢が訊いた。

「新潟の燕三条中古車連盟の山形三郎様からお話をきいてお電話しております。亡くなられた弁護士の弟様の件でお手伝いできればと思い、お電話いたしました。」

「弟の件で手伝い?」と大沢が訊き返した。

「ええ。山形様のお話では、弟さんは殺されたらしいと?」と太郎。

「そうです。生前、弟は、『僕に何かあったら、それは、殺された可能性もあると思ってくれ。』と私に申しておりましたので。」

「それで、死亡された現場はどちらでしょう?」

「JRの蒲田駅です。4月30日の夜のことだったようです。」と大沢。

「実は、私、その事故の瞬間を見ております。」と、太郎が言った。

「ええっつ。ほんとうですか?是非、お会いしてお話を聞かしてください。」


コンタクト(2);5月4日(木)東京都府中市の大沢達美弁護士事務所


太郎と大沢達美弁護士の妻兼事務員である里美、そして大沢和彦の3人が話し合っている。


「達美弁護士の最近の仕事内容は、企業間トラブルの訴訟問題という事ですね。」と太郎が訊き返した。

「そうです。この資料によりますと、東京大田区にある川島鉄工所からの依頼で機械商社の北河総業への損害賠償請求活動をしていたようです。」と和彦が言った。

「主人は、1ヶ月くらい前に、今回の賠償対象機械を輸入した北河総業の下請の機械加工業者が加工業務以外に何か別の仕事もあるようだ、と申しておりました。」と里美がいった。

「別の仕事とは?」と太郎が訊いた。

「いえ、詳しいことは聞いておりません。」と里美が答えた。

「連休前の4月28日に弟と会った時に、今回の訴訟調査で危険を感じている、と私に言っていました。」と和彦が付け加えた。

「北河総業の企業調査内容が、この資料ですね。お借りしてよろしいでしょうか。」と太郎が確認した。

「ええ。かまいません。訴訟は、別の弁護士さんに引き継いでもらいますが、コピーがありますから、それをお渡しいたします。それから、連休明けの5月10日には北河総業の新潟支店を訪問する予定でした。輸入機械の追加加工会社が新潟県にあるらしいのです。」と里美が言った。

「新潟支店ですね。会う約束の方の名前はわかりますか?」と太郎。

「東京本社総務部の亀井さんの紹介で椎名氏を訪問する予定でした。」と里美。

「ところで、蒲田南警察署では、何かお聞きになりましたか?」と太郎が訊いた。

「今のところ、殺人事件とは考えていないようです。駅の監視カメラのビデオが事件の時間帯に誤動作していたみたいで、事件現場の当該階段ではなく、別のホームの階段がビデオ映像に残っていたようです。そのため、事故状況が全くわからないようです。警察の現場調査の時には、目撃者がだれも居なかったみたいで。」と和彦が言った。

「ビデオの誤動作?何か、おかしいですね。いえね、私は以前、S電気でこの種のシステム製品を販売していましたからよくわかりますが、誤動作で別のホームを映していたというのは、監視カメラ装置に何か細工されている可能性がありますね。担当の刑事か、警官の名前はわかりますか?」と太郎が言った。

「ええ。この名刺の方です。地域部地域課初動捜査係の高井刑事さんです。」と和彦が言った。

「初動捜査係ということは、警察も単なる事故ではないと考えている可能性もありますね。それで、達美弁護士の事故当日の活動、いわゆる足取りはわかりますか?」と太郎が言った。

「ええ。4月30日は、早朝に出かけまして、品川の荏原神社での海上禊祓式神事を見学に行きました。大国魂神社の暗闇祭りの始まりですから、毎年、出かけていました。毎年見物に行くので神社の神主さんと懇意にしていたようです。荏原神社の神主さんのお話でも、その後の詳しい行き先はわかりません。例年ですと東京都内の神社を回って、夕方に帰宅していました。」と里美が言った。

「神社巡りがご趣味だったんですか?」と太郎が訊いた。

「ええ。全国の神社、お寺の事をよく研究していました。子供のときから暗闇祭りが好きだったみたいで。神社、お寺の資料なら、自宅にたくさんあります。」と里美が言った。

「神社の資料は、また後日に見せていただきます。とりあえず、蒲田南警察署と話し合ってみます。それから川島鉄工所、北河総業と取引先、荏原神社の線を調査します。」と太郎が言った。



 武蔵林影8

蒲田南警察署地域課定例会議1;5月8日(月)

 

定例会議では、各刑事から担当事件の報告が行われた。


「蒲田駅駆け込み乗車死亡事件の目撃証言は以上です。」と高井刑事が大和太郎から聞いた状況を報告した。

「その大和とかいう私立探偵は信用できるのか?」と橘課長が訊いた。

「昨年の池袋駅の殺人事件や、5年前の埼玉県東松山市での殺人事件で警察に協力したことがあるようです。池袋西口署の大木刑事に確認しましたが、信用できるとの返事でした。それから、被害者の大沢達美の足取りですが、荏原神社の神主の話では、近くの品川神社に寄ってから銀座に出るようなことを言っていたようです。しかし、神主と2時30分頃に別れて、それからの行動は確認できませんでした。」高井刑事が報告した。

「それで、蒲田駅の監視カメラの誤動作原因は判明したのか?高井。」と橘課長がきいた。

「ええ。監視カメラ装置の設置工事をおこなった玉田電気の話では、蒲田駅には全部で20台のカメラがあり、改札や通路、各ホーム及びホームの南階段と中央階段の上下に設置しています。蒲田駅は1,2番線と3,4番線の2ホームありますが、1ホームあたり6台のカメラが稼動しています。この6台のカメラからの映像をプログラムタイマー設定で5秒ずつ切り替えて、1台のビデオに録画しています。駅全体の監視カメラ20台に対しモニターTVは5台ですが、事件のあった1,2番線ホームの分は2台に分かれて映し出されています。1台のモニターTVには4台のカメラからの映像が4分割された形で映し出されています。映像は1階段あたり10秒間毎の録画になります。ところが、1,2番線ホームの午後10時30分から午後11時30分までは、3,4番線ホームの映像が映るように設定変更されていました。玉田電気では、設定変更をした記録はないとの事です。だれが、いつ頃、設定変更したのかが不明です。他の場所の監視カメラ録画映像も調べていますが、映像に映っている人間が事件現場にいたかどうかの判断は難しいですね。白いトレンチコートを着た人間は移っていませんでした。コートはどこかに隠したんでしょうかね?」と高井刑事が報告した。

「駅員にも確認したか?高井。」

「はい、月1回、玉田電気の営業が装置の状況確認に来るそうですが、不定期の為、4月はいつ頃来たかは不明のようです。数人いる駅員の証言からは日時の割り出しは出来ていません。駅員の記憶が曖昧でしたね。」

「玉田電気の営業に確認したのか?」

「ええ、営業は小倉という男ですが、4月上旬の午後3時ころに訪問してチェックしたようです。異常がないので、10分くらいで駅事務所から出て行ったとの事です。入室時には、事務所に駅員1人が居ましたが、特に話し掛けたりはしなかったようです。」

「しかし、誰かが、監視カメラ装置の設定を変えているはずだな。」

「ええ。日曜日の午後9時以降は、事務所が無人になる事もあるそうなので、この時間帯に誰かが入室してプログラム設定の変更をした可能性もありますが。」

「その設定変更というのは時間が掛かるのか?」

「いえ、装置の取り扱いを熟知していれば、スイッチャーという機械のボタン操作で1分以内に変更できます。実際、玉田電気の営業におこなってもらいましたが、30秒でした。」

「よし。とにかく、探偵屋の証言を信用して、引き続き捜査していく事にする。高井と木村が専任で引き続きの捜査を行ってくれ。被害者の当日の足取りを早く確認しろ。事件現場階段以外の監視カメラ映像の調査分析は岩下調査官に行ってもらう。犯人らしき奴が映っていればいいんだがな。他の仕事は後回しでいいぞ。それから、とりあえず玉田電気の営業の小倉とかいう男の身辺調査をしておく事。犯人から依頼されたかもしれんからな。警察手帳は使うな。私立探偵の身上調査という形で聞き込みをしろ。小倉が無関係なら人権問題になるからな。それから、三井事務官は警視庁に状況報告して、殺人事件の捜査本部設置の準備をお願いしておく事。」と橘課長が本格調査を決断した。

「あと、何か報告がなければ、今日の会議は終了する。」と課長が閉会宣言をした。


北品川にある荏原神社は、京浜急行「新馬場しんばんば」駅の南出口から旧東海道筋に向かって徒歩5分くらいの目黒川沿いにある。創建は西暦709年(和銅2年)9月9日で、高おかみ神(龍神、水の神様)を主祭神としている。江戸時代まではキフネ神社と称されていたが、明治中頃になって荏原神社と改称された。また、1029年に天照皇大神宮、1274年に須佐之男命(牛頭天王)を勧請し祭神としている。その他に豊受姫之命、多力男之命も祭神である。明治元年7月27日の東京遷都の詔勅後、東京入府の途上10月12日、京都から東京に向かう3300人の従者とともに明治天皇が荏原神社に行幸され、内侍所として利用されたらしい。現在の目黒川は大正12年から昭和14年までの目黒川改修埋立て工事で荏原神社の表側から東京湾まで真直ぐに伸ばされた川筋になっている。明治以前は、かなり曲がりくねった川で、荏原神社の裏側を流れていた。旧東海道の海側を街道と平行にJR品川駅方向に400Mくらい北上したところが目黒川の河口であったらしい(埋め立てられた川は道路になっている)。現在、当時の河口付近に屋形舟、つり舟を出す店が5軒ほどある。観光客の夕食を兼ねた遊覧コースとして観光バス会社などが利用している。隅田川、東京湾花火大会などの時は予約で満員になるらしい。大国魂神社の『禊祓式』も荏原神社で祭礼支度をした後、ここから屋形舟で天王洲沖の海上で汐水を汲む神事(汐盛講)を行っている。現在の神事の時には多くの関係者が府中市から自動車で来るらしいが、その昔は、一人が馬でやって来て潮水を持ち帰っていた事もあるらしい。



 武蔵林影9

スティーブ・キャラハン来日;5月8日 成田空港北ウィング1F到着ロビー 


「Hi,Taroh. How are you.」

「Fine. Thank you. And you,Steve.」

「Fine」

※ 以後、二人の会話は、日本語訳で表示※


「やあ。久しぶりだね、太郎」とスティーブが言った。

「うん。5年前のサンフランシスコでの拳銃対応訓練以来だね。」と太郎。

「ああ。そうだったね。あの時の訓練が大いに役立っているよ、太郎。君はどうだね?」

「5年前に一度役に立つ事があったが、日本ではめったに拳銃に出会わないよ。アメリカでの探偵稼業は順調かい?スティーブ。」と太郎が訊いた。

「調査探偵、ボデーガード、賞金稼ぎ、なんでも有りだよ。まあ、超多忙といったところだ。」「ところで、今回、来日の目的は?」と太郎が訊いた。

「CIA(アメリカ中央情報局)の下請調査仕事だよ。内容は秘密だから言えないけれどね。でも、太郎の力を借りることになれば、CIAに相談するけれど、君はOKか?」とスティーブが訊いた。

「今、一つの事件を追跡しているが、調査協力程度なら並行活動できるよ。スティーブ。」

「OK。それを聴いて安心したよ。日本の土地勘のある人間が必要なんでね。ぜひとも協力を頼む、太郎。実は、CIAから事前にOKをもらっている。お前の事はCIAが調査済みだ。」とスティーブが言った。

「ええっつ!調査済み。怖いな、CIAって奴は。アッハハハ。」と冗談気味に太郎が言った。

「まあな。ワッハハハ。」とスティーブも笑った。

二人は話しながら、東京の宿泊予定のホテルに向かうべく、JRの成田空港駅に向かった。



 武蔵林影10

打合せ;5月8日 夜 ホテル東京パレスサイドイン212号室 


「調査内容はK国秘密諜報機関、略称KISSの日本国内基地の監視だ。KISSは諜報活動だけでなく謀略、破壊工作、いわゆるテロ活動も行っており、かなり危険な存在である。中近東地域でのテロ活動の支援なども行っているかどうかの情報収集も今回の調査範囲になっている。現在、人口衛星からの基地監視映像から不信人物の出入りが頻繁になっているのが判明している。KISSが日本国内の民間企業の工場火災などを工作した形跡がある。米国在住の人間とその不信人物の連携の証拠確認と追跡尾行からCIAが知らない他の基地の発見が主な仕事内容だ。追跡尾行はひとりでは難しいので、日本政府の内閣情報局員の協力を得るが、銃器に対応できないので危険な場面では邪魔になる。相手が相手だけに、命の危険性もある。その点、太郎の実力は大いに期待できると確信しているよ。とりあえず、太郎には監視の手伝いを依頼したい。具体的なスケジュールなどは後日の打合わせで説明する。」とスティーブが言った。

「その基地はどこにあるんだ?」と太郎がきいた。

「東京都内と新潟県内の2箇所は判明しているが小さな情報連絡基地がどこにあるのか不明である。明日、CIAの東京支部で内閣情報局を含めた打合せがある。太郎の事は、そこで報告する。太郎への調査協力費は前金で200万円くらいだろう。あと、初期経費が50万円でるはずだ。」とスティーブが言った。

「ヘーイ。さすが豪勢だな、CIAは。がんばりまっせ。」と太郎が言った。

「ところで、太郎は、太平洋戦争前に発足した陸軍中野学校の事を知っているかい?」とスティーブが訊いた。

「ああ。スパイ養成機関の陸軍中野学校のことだろう。『破壊殺傷教程』を読んだことがある。」と太郎が答えた。

「それなら良かった。KISSは、日本陸軍特務機関のこの教程本の考え方を基本にして謀略工作の要員を訓練育成しているらしい。KISSの活動を想定・予想する場合、この事を参考にしてくれ。孫子の兵法によると、『敵を知り、己を知らば、百戦あやうからず』だからな。」とスティーブが言った。

「さすが、スティーブは博識だな。了解、注意するよ。」と太郎が冗談風に答えた。


陸軍中野学校は、秋草中佐の発案で昭和13年に創設されたと言われている。初代校長も秋草中佐である。

秋草中佐はロシア方面の諜報活動に出たまま行方不明になったとされている。この人物が生存していたとすれば、松本清張氏の推理小説である『球形の荒野』に登場する伯父様なるなぞの人物のような行動をしていたのではないだろうかと、ふと思ったものである。市川雷蔵主演の映画『陸軍中野学校』では草薙中佐の名前で登場している。

『破壊殺傷教程』は、当時のスパイ要員の人が手書きで写し取ったものが残されており、過去、雑誌(昭和45年頃の週間サンケイの別冊特集号などがあった。)に公表されたりした。卒業研修などでは、実際の日本国内の工場などに侵入して、侵入証拠を残してくることなどの実地訓練が行われた模様である。戦争末期には、疎開先の群馬県富岡分校や静岡県二俣分校で訓練が行われていた。中野学校出身の残置諜者である小野田寛郎少尉のフィリピン・ルバング島からの帰還経緯は、この破壊殺傷教程の精神と少し外れるが、戦争末期のゲリラ戦教程に従った活動をおこなっている。破壊殺傷工作(謀略)は、それと気づかれない様に行われなければならない。すなわち、事故・自殺として処理される事を最上とする。諜報要員は潜入先の地元の人間からは篤く信頼されなければならない。イスラエルの情報機関『モサド』はこの考え方でスパイ要員の人選を行い、諜報活動をおこなっている。この考え方の結果として、シリアから機密情報を入手し、ゴラン高原爆撃・占拠作戦に多大な貢献をした過去の事例がある。そのスパイは、作戦終了後のシリア側の調査で逮捕され、死刑になったらしい。



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新潟市万代橋近くの北河総業新潟支店での会談;5月10日 


「本来なら大沢達美弁護士が訪問するところですが、死亡されましたので、私、大和太郎が代理で伺いました。川島鉄工所から依頼を受けております。賠償請求の新しい担当弁護士が決まるまでの間、私が調査活動をいたしますので、よろしくお願いいたします。」と、太郎が言った。

「わかりました。この件では弊社の法務部の代行として、本社総務部の亀井と新潟支店の椎名が対応いたします。よろしくお願いいたします。」と椎名が言った。

「本日これから、機械加工会社を訪問したいのですが。」と太郎が言った。

「午後2時に社長とのアポイント(面会予約)が取れています。これから出かけましょう。私の車でご案内いたします。」と椎名が言った。


新潟県三条市の株式会社マシンテック会議室;5月10日


「マシンテック社長の 恵水と申します。韓国人で言葉に訛りがあり、聞きづらいでしょうが、ご容赦ください。」と朝鮮語訛りの日本語で、李社長が言った。

「川島鉄工所の代理人で大和と申します。よろしくお願いいたします。李社長は、日本に来られて長いのでしょうか?」と太郎が訊いた。

「新潟の大学に留学して、卒業後は、そのまま日本に住んでいます。もう30年くらい日本にいますが、仕事で韓国に帰ることも時々あります。実家はなくなりましたが、親類の家を訪問したりしています。」

「そうですか。それでは、日本のことはかなり詳しいのでしょうね。」と太郎が言った。

「ええ。国内出張も時々いたしますから。東京へも、よく行きます。弊社の機械加工ミスで製品強度が出なかったとの事ですが、弊社の見解としては、取り扱い説明通りに操作されていないのではないかと懸念しております。私どもの技術者が川島鉄工所で納入機械の検査を致しましたが、異常はありませんでした。輸入製品に追加で特別加工をした部分からは異常はありませんでした。もとのメーカーからも技術者を呼んで検査してください。」と李社長が言った。

議論は30分くらいで終了し、継続調査を3企業が共同行うことなった。

「ところで、マシンテックさんの事業内容は機械加工の他に何かされていますか?」と太郎が訊いた。

「ええ、台湾から小型の液晶テレビを輸入し、ネットでの通信販売をしております。」

「儲かりますか?」と、太郎は昔の営業時代を思い出したように聞いた。

「現在のところ、あまり売れません。知名度がないのと、個人が並行輸入してネットオークション販売をしている現状では、競争が厳しいです。」と李社長がいった。

「最後に製作工場の内部を見学できますでしょうか?」と太郎が訊いた。

「ええ、どうぞ。小さな加工現場ですが、これから案内いたしましょう。」と李社長が答えた。


 帰りの椎名氏の車中での会話;5月10日夕方


「私は、上越新幹線で東京方向に戻りますので、燕三条駅で降ろしてください。」と太郎が言った。

「かしこまりました。」と椎名が答えた。

「ところで、李社長の地元での評判は如何でしょう?」と太郎が訊いた。

「はい。燕市や三条市の地域では一応、名士という事です。三条市や新潟県の経済活動によく協力されています。産官学連携による研究開発支援の認定なども受けられていますので、我々も信用しています。」と椎名が答えた。

「そうですか。後日また、新潟に来ますのでよろしくお願いいたします。」と太郎が言った。

しばらくして、JR燕三条駅に車が到着し、二人は分かれた。



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蒲田南警察署地域課定例会議2;5月15日(月)午前10時頃 


「JR蒲田駅弁護士死亡事件の情報が乏しい為、警視庁では迷宮入りを心配していて、殺人事件の認定に二の足を踏んでいる。腰抜け野郎ばかりが高給を取りやがって。このままじゃ、捜査本部設置は見送りになるぞ。おい、高井、木村。その後、新しい情報が手に入ったか?」と橘課長がいらだって訊いた。

「被害者の足取りですが、荏原神社を2時30分頃立ち去ってから、3時頃に品川の屋形船を出す船宿『平金』に現れています。平金の主人の話では、海上禊祓式に使用した船の写真を撮りたいといって来て、10分くらいで帰っていったようです。その後は不明ですが、JR品川駅か、京浜急行の北品川駅へ向かったのではないかと考え聞き込みをしましたが、不明です。現在、JR品川駅の改札監視カメラの録画テープで被害者の映像があるか確認中です。」と高井刑事が報告した。

「品川の飲み屋街はあたったか?日曜日で店は比較的空いているから、記憶している店員が居るんじゃないか?木村、どうなんだ。」と橘課長が訊いた。

「情報なしです。こんな少ない人数で聞き込みをしても、有力情報に出会う確立はゼロですよ、課長。」と木村刑事が言った。

「バカヤロウ。泣き言を言ってる場合か。足、足、足、足。聞きまわれ。被害者の身辺に殺人の動機がある奴は居ないか調べろ。弁護士の女房とか親類から情報は貰ったのか?」と橘課長が激を飛ばした。

「まっ。確かに、『犬も歩けば棒にあたる』時代でもないが、市民の無関心、事なかれ主義、我々警察のサラリーマン化、良き昔は遠くになったか。フーム。」と橘課長が独り言を呟いた。

「弁護士の兄が遺体確認で病院に来た時、殺された可能性がある、とか言っていました。その時は事故死と思い込んでいたので、無視したんですが。再度、理由を確認してみます。」と高井刑事が言った。

「バカヤロウ。そんな重要な事を追求しない奴があるか。すぐに確認調査しろ。それから、船宿の主人の話では、事件当日に被害者は写真撮影をしていたんだからカメラを持っていたはずだろ。そのカメラはどこに行ったんだ?蒲田駅死亡現場の遺留品の中には無かったぞ。高井、木村どうなんだ。」と橘課長が怒鳴った。

「はい。調査しますが、犯人たちに壊されて捨てられたんではないですか。」と木村が言った。

「うーん。突破口が見付からんな。どこに手掛かりがあるんだ。迷宮入りか。」と力なく、橘課長が独り言を呟いた。



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ホテル東京パレスサイドイン415号室;5月15日(月)午後5時ころ


「212号室から部屋を移動したのか?スティーブ。」と太郎が言った。

「ああ。2日に1回は部屋を変えるようにしている。同じ部屋だと盗聴器などを仕掛けられたときに困るからな。また、自分の身を守る為にも、敵に居場所をすんなり教えるのは危険だから、常に移動する事を心がけている。『居着くは死ぬなり』だ。宮本武蔵の五輪書を勉強しただろう、太郎。戦いの場にいるなら、常に動け、門を構えてはならない、安住は危険だという教えだ。」とスティーブが言った。

「ああ。北辰会館の大葉周達先生も生前、よく話されていたな。さすがに銃器大国アメリカで探偵稼業をしているだけの事は有るな。スティーブから見れば、俺などはぬるま湯でのんびり、と言ったところだな。ところで、行動計画を聞こうか。」 と太郎が自嘲気味に言った。

「ハハハハツ。スパイ天国・日本で活動している太郎には危険がイッパイだな。」とスティーブが冷やかした。

「KISSの基地は東京都新宿区新宿1丁目のマンション『ガーデン御苑』の303号室と新潟県長岡市寺泊の海岸近くにあるペンション『潮騒』だ。潮騒は客の出入りがあるので、単なる泊まり客とKISS関係者の区別は難しい。内閣情報局の努力で監視場所は基地近くに確保してある。東京の基地はCIA課員と内閣情報局員に任せる。我々は、新潟の基地を監視する。情報交換は、公衆電話を使う。携帯電話では盗聴される可能性があるからな。東京側のコードネームは『ジャパンモンキー(日本猿)』、我々のコードネームは『ホワイトオウル(白いフクロウ)』だ。・・・・・・云々。」とスティーブが活動計画の説明を続けた。

「時々、俺は東京に帰って例の殺人事件の調査をおこなうが、一人で大丈夫か?スティーブ。」

「その時は、CIAから応援が来ることになっているから大丈夫だ、太郎。」

「OK。レッツ・ゴー。」と太郎は気合を入れ直した。



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経過報告;5月16日 午前11時ころ、東京都府中市の大沢達美弁護士事務所


「5月10日に新潟県の?マシンテックを訪問し、調査してきました。社長は自称韓国人の李恵水という人でした。達美弁護士が得ていた情報の詳細が事務所の書類にでも書いてあればありがたいのですが、何か見付かりましたでしょうか?」と太郎が訊いた。

「いえ、いろいろと探しましたが、?マシンテックに関する記述はなかったです。」と大沢里美が答えた。

「うむ。達美弁護士もこれから調査と云うところだったから、報告書などは作成していなかったでしょうね。メモなども探されましたか?相手の李社長の言では、他の仕事は小型液晶テレビの輸入販売という事でした。これはインターネットのホームページにも掲載されていますから、もっと違う秘密の仕事でないと不信に感じる事はなかったはずです。もう少しこの会社の調査は継続します。この加工工場内に解体部品倉庫と言うのがあったのですが、倉庫内は見せてもらえませんでした。部品倉庫にしては少し大きすぎる気がしましたので、調査してみます。」と太郎が報告した。

「昨日の昼過ぎ、蒲田南警察署の高井刑事と木村刑事が来られました。以前、主人の達美が殺されたかもしれないと申し上げていましたので、その点に関する質問でした。資料なども調べていかれました。?マシンテックの事もお教えいたしました。それから、現場の遺留品に無かった主人のデジタルカメラのことも説明しておきました。」と里美が答えた。

「警察もやっと動き出しましたか。初動捜査の遅れは事件解決にマイナスですからね。しかし、警察が動き出せば、李社長も警戒するから、倉庫の内部を整理される前に、何が入っているのかを早急に確認しないといけないな。今日の夕方から別件で新潟に行きますので、今日中に確認のため再度、マシンテックの工場へ行ってきます。」と太郎は慌てたように言った。



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燕三条駅前;5月16日(火)午後8時ころ


「運転手さん、三条市三竹さんちくの?マシンテックまでお願いします。」と太郎はタクシーに乗り込んだ。

「はい。国道289号線沿いの方でよろしいですね。」と運転手が訊き返した。

「他にも工場があるのですか?」と太郎が訊いた。

「ええ、500mくらい離れた県道331号線にもありますが。」

「県道側工場の前を通って、国道沿いの方までお願いします。」と太郎が返事した。


三条市三竹の?マシンテック工場内;2005年5月16日(火)午後8時30分ころ


「残業をしている人がいるのか。」と事務所棟の灯りを見ながら、太郎は工場の国道側の表門から人に気づかれない様に解体部品倉庫と札の掛かった建物に近づいた。そして、建物の近くにある機械梱包用の木枠を明かり取り用の窓の下に着け、その上に登った。背中に背負っているリュックサックから懐中電灯を取り出し、窓の中をのぞいたが、3メートル四方の機械が置いてあるだけで大きなスペースが広がっているだけであった。

「何もないな。証拠の品は片付けてしまったかな。それとも、俺の考えすぎだったのか。」と太郎はガックリした。

「まてよ、県道側の工場はどうかな?ためしに、行って見るか。」と太郎は考え直した。


三条市三竹の?マシンテック県道側の工場前;5月16日(火)午後9時ころ


太郎が国道側の工場から10分足らずで県道側の工場付近まで歩いてきた時、大型コンテナ・トレーラートラックが、?マシンテックの工場前の空き地に駐車しているのが見えた。工場の正門上からの照明が、トレーラーのコンテナボックスの搬入口を照らし出している。

「先ほどタクシーで通ったときにはトレーラーは無かったな。」と電信柱の陰から様子をながめていると、乗用車が工場の門からでてきて、トレーラーのコンテナボックスの中に入っていった。合計3台の乗用車が載せられたのを太郎は見届けた。

「塗装が完成していない車が2台有ったな。何か急いでいるのかな。どこへ運ぶのか見届けなければならないな。タクシーが間に合ってくれればいいが。」と太郎は、帰りに呼ぶ為に先ほどのタクシー運転手から聞き出しておいた携帯電話番号に電話をした。

「?マシンテックの県道側工場前まで至急来て下さい。」と太郎が話した。

「分かりました。10分くらいで到着します。」とタクシーの運転手が返事した。



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燕三条駅前のホテルに到着;5月17日(水)午前1時ころ


新潟東港のコンテナターミナルに3台の車が入ったコンテナボックスが置かれるのを確認した後、そのままタクシーで燕三条駅の宿泊予定のビジネスホテルまで太郎は戻ってきた。

「運転手さん、ありがとう。助かりました。今日のトラック尾行の件は他言無用に願います。」

「分かっております、探偵さん。また、お役に立てる場合は携帯に電話ください。緊張したけれど、楽しかったです。ありがとうございます。」と運転手が返事した。



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新潟県長岡市寺泊のCIA監視場所;5月17日(水)午前9時ころ


「何か有力情報は出たかい、スティーブ。」と、監視室に到着したばかりの太郎が訊いた。

「今のところ、収穫なしだ。人工衛星からの映像と、このビルに設置した3台の隠しカメラからの映像がこのモニターTVに映っている。ネットワーク通信で東京のCIA基地でも同じ映像を見ることができる。窓から覗いても、ペンションの入り口が見えるが、敵に見付かるといけないから、全体を見る必要が無い限りはTVで監視する。盗聴器はペンションの食堂と事務所に仕掛けてある。」と4台のモニターTVを指しながらスティーブが言った。

「ペンション『潮騒』から100mの路上にCIA要員2名が車で待機している。彼らとは、この特殊携帯無線機で連絡を取れる。太郎の事件の方は進展があったのか?」とスティーブが言った。

「ああ。三条市にある企業がやはり臭いな。自動車関連の犯罪組織と繋がっている可能性があるな。」と太郎が今までの状況をスティーブに話した。

「被害者の弁護士の殺されるまでの足取りは追ったのか?」とスティーブが訊いた。

「いや、まだ追いかけていない。早く追跡調査したいが、警察も動き出しているみたいなので、警察情報で足取りが判明するかも知れない。」と太郎が言った。

「今度の日曜日の同じ時間帯に現地聞き込みをしたほうがいいぞ、太郎。」とスティーブが言った。

「なぜ?被害者の動いた時間帯に聞き込みするのがいいんだい。」と太郎が訊いた。

「被害者を目撃して記憶している人はいつも定時に同じ行動をする習慣のある人の場合が多いからだ。」とスティーブがアドバイスした。

「なるほど、それは一理あるな。それじゃ、今週の日曜に足取り調査するために土曜日の午後には東京に戻るけれど、いいかい。スティーブ」と太郎が言った。

「OKだ。」とスティーブが言った。

「ところで、スティーブとCIAはどのようにして関係が出来たんだい。」と太郎が訊いた。

「ああ、その事か。以前 VIP(要人)の個人的ボディガードを請け負ったとき、ある事件が発生した。その時、攻撃相手の情報を積極的に集めて敵を捕らえてFBIに引き渡したことが有ったんだ。この事件にはCIAも関係していたらしく、俺の情報収集術とボディガードの能力を高く評価したらしい。俺としては、賞金稼ぎの時に培った能力と情報網を駆使しただけだから、どうという事はなかったけれどね。それ以来、時々CIAから調査依頼が来るようになったんだ。今回で4回目だが、海外は初めてだよ。」とスティーブが答えた。

「情報収集のコツは何だろう?」と太郎が訊いた。

「情報に出会う確率を高める為にどう行動するかだな。『犬も歩けば棒に中る』では重要情報に出会う確率は小さい。積極的に仕掛けていくことが大切だ。状況認識を元にして、知識、経験、知り合い、何でも利用して判断する事だね。追跡相手の足取りを追う場合は、相手が滞在したと思われる場所に同じ時間帯に同じ時間滞在しないと目撃者に出くわさないと考えるべきだ。『犬も散歩で立小便?』という事かな。それと、一番大切なのは、直感だ。ゲーテ曰く『直感は過たない、過つのは判断だけだ』とね。直感は経験と知識を駆使した無意識の判断だ。これは、頭脳の物理的な思考メカニズムから考察すれば、科学的には正しい考え方だと言える。だから判断する人の経験と知識の豊富さ、すなわちその人の感性に左右される。『直感の正当性』を判断するには、その事に対する自分の『思い込みの度合』を冷静に判断する必要がある。思い込みの大きい場合は、直感が間違っている可能性があるので注意が必要だ。『直感の正当性』と『思い込みの度合』は反比例の関係にある。太郎の経験と知識なら充分に効果的な情報収集が出来るだろう。」とスティーブが薀蓄うんちくを披露した。

「なるほど。スティーブと話していると勉強になるよ。ありがとう。」と太郎が言った。


新潟県長岡市寺泊のCIA監視場所;5月18日(木)午後2時ころ


「あれ。こいつの持っているボストンバックはどこかで見たような気がするぞ。どこでかな?」と監視カメラからの映像を見ながら、太郎が言った。

「ペンションに入ろうとしている奴かい。」とスティーブが訊いた。

「ああ。どこでかな?」と太郎は自分の記憶をたどり始めた。

「そうだ、JR蒲田駅の死亡事件の時、あの青年が持っていたチェック柄のボストンバッグと同じだ、多分。」と太郎が言った。

「駅員と一緒に、被害者を抱き起こして、匂いを嗅ぐ仕草をした奴か?」とスティーブが昨日、太郎から聞いた話を思い出して言った。

「そうだ。こいつがあの時の奴だろうか?記憶がないのが残念だ。年齢的には30歳前後と思われるから、こいつと同じだが。」と太郎が言った。

「その点は、これから調べればいい事だ。奴が出てくれば、尾行させる。いまは、盗聴器に何か話し声が入るかを静かに聞こう。」とスティーブが言った。



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状況報告;東京都府中市の大沢達美弁護士事務所 5月20日(土)午後5時ころ


「以上のように、?マシンテックでの裏仕事が車に関する事ではないかと思われます。この件の確証を得る必要があります。コンテナ埠頭の役割がわかりませんが、達美弁護士もこの件の証拠調査に動いて、殺された可能性があります。」と太郎は報告した。

寺泊でCIA要員に尾行させたボストンバックの青年の事は未確認の事が多いので、まだ伏せておいた方がいいとの判断で報告から除外して大沢里美と大沢和彦に説明した。

「そうですか。その筋を追及していけば、犯人にたどり着くのでしょうか?」と和彦が訊いた。

「達美弁護士の残された言葉から類推すれば、?マシンテックの件が事件に関係しているでしょう。明日、事件当日の達美弁護士の足取りを追いかけます。そこで、何かが発見できればと思います。」と太郎が言った。

「弟の達美から聞いていた話では、例年午前11時頃に荏原神社を出発して午後2時頃に荏原神社に戻ってくるらしいです。」と和彦が訊いた。

「そうですか。お手伝い願えれば、私としても有り難いです。では、明日の午前11時に荏原神社でお会いいたしましょう。」と太郎が言った。



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足取り追跡調査1;5月21日(日)


荏原神社の神主から達美弁護士が午後2時半頃に神社を出たのを確認した後、太郎と和彦は11時過ぎに荏原神社を出発した。目黒川沿いに100メートルくらい東に歩いたところで左折し、昔の目黒川が埋め立てられて出来た道路沿いに500メートルくらい北上したところにある船宿『平金ひらがね』で達美弁護士のことを訊いた。


「蒲田南警察署の刑事さんにも話しましたが、3時頃、禊祓式に使った屋形船の写真を撮って出て行かれましたよ。そのあとのことは知りませんね。」と屋形船の準備をしながら船宿の主人が答えた。

「達美弁護士は神社巡りが趣味だったですよね。」と太郎が和彦に訊いた。

「ええ、そうですが。」と和彦が答えた。

「この船宿に来る50メートルくらい前に、小さな古い神社が道路わきにありましたよね。」と太郎が言った。

「私は気がつきませんでしたが。」と和彦が答えた。

「ああ、利田かがた神社のことですね。江戸時代は洲崎弁天と言われていたようです。あそこは江戸時代の始め頃に創建された神社です。江戸時代に東京湾に迷い込んだ大鯨を天王洲沖から品川浜に追い込んで、砂浜に打上げさせて捕獲した漁師たちは、神社の傍に、その鯨を慰霊するための鯨塚を作ったようです。」と船宿の主人が説明した。


船宿を出た二人は、利田神社の横にある鯨塚の説明立て札を読んでいた。


「最近は鯨を食べる事が少なくなったね。」と、孫らしき小さな子供の手を引いた老人が声をかけてきた。

「そうですね。捕鯨の禁止が叫ばれていますからね。」と和彦が答えた。

「今日は、屋形船でも乗りに来られたのですか。」と老人が訊いた。

「いえ。チョット人探しをしています。」と太郎が返事した。

「人探しですか、大変ですね。」と老人が答えた。

「この写真の男性を見かけた事はありませんか。」と達美弁護士の写真を老人に見せながら、太郎が訊いた。

「やあ、弁護士さんですね。」と老人が驚いたように言った。

「ご存知ですか!」と和彦が言った。

「祭りの好きな人でね。私も祭りが好きで、荏原神社の『南の天王祭』や品川神社の『北の天王祭』の時に二人で祭りの話をした記憶がありますよ。この前の大国魂神社・海上禊祓式の時もお会いしましたね。」と老人が言った。

「その時のお話をお聞かせ願えますか?」と太郎が言った。

「例年通り、船が出て行くのを二人で見送った後、自転車で天王洲アイル東側の品川埠頭岸壁に行かれましたよ。そこから、海水をくみ上げている屋形船が見えますから。汐盛講とか言うんですよね。私はもう老齢ですから行きませんでしたが、ここで別れました。お台場の建物も良く見えますよ。」と老人が教えてくれた。

「自転車?」と太郎が訊いた。

「ええ、貸し自転車屋ではありませんが、ここから50メートルくらい南に自転車屋があるんです。例年、そこで自転車を借りていましたよ、弁護士さんは。写真をとったり、舟が戻ってくるまでサイクリングしたりしていましたね。大井競馬場近くの海浜公園などにも行ったりしていましたね。時々、撮影した写真映像などを見せてもらいましたよ。デジカメとか言うんですよね、カメラのこと。カメラについている小さなTV画面で見ました。便利な時代になりましたね。私の時代だと現像するまで、撮れているかどうか不安でしたが。いまでは、その場で確認できるんですね。写真は『写ルンです。』だけではだめで、『見えるんです』の時代になりましたね。いえ、私は定年退職するまではフィルムメーカーに勤めていましたものでね、写真が気になるんですよ。」と老人がしみじみと言った。

「その日は、どこかに行くとか、誰かに会うとか言っていませんでしたか?」と太郎が訊いた。

「弁護士さん行方不明なんですか?」と老人が訊いた。

「ええ、あの日の夜に蒲田駅で殺害されました。当人の当日の行動を調べているところです。」と太郎が説明した。

「ええっつ。それは、大変なことになりましたね。これからの祭りが寂しくなりますね。あの日は、大井コンテナ埠頭への行き方を教えましたね。」と驚きと落胆の入り混じった表情をしながら、老人が言った。

「コンテナ埠頭!」と太郎と和彦は驚いた様に顔を見合わせた。

「新潟東港のコンテナターミナルとの関連を調べる必要がありますね。」と和彦が太郎に言った。


足取り追跡調査2;5月21日(日)12時ころ 自転車屋にて


「午前11時半ころに自転車をお貸しいたしましたが、返却は午後5時頃でしたかね。ご本人ではなく、若い女性の方が代理で返却に来られました。ご本人は自転車に乗っていて転倒したため病院に行ったとの事でした。自転車の破損修理代として、1万円置いていかれました。」と自転車屋の店主が言った。

「自転車の破損状況はどうでしたか?」と太郎が訊いた。

「ハンドルが曲がっていたのと、店の住所が書いてある前輪の泥除けステーの変形、傷がありました。走行中の転倒とおもわれます。」と主人が答えた。

「自転車を借りるとき、この男性はカメラをもっていましたか?」と和彦が訊いた。

「ええ、例年通り、カメラをお持ちでしたよ。」と店主が言った。

「女性の印象はどうでしたか?服装とか、美人だったとか、髪の毛の色や長さなど、覚えていますか?」と太郎が訊いた。

「いえ、サングラスに野球帽でしたので顔は覚えていません。服装の色や柄は覚えていませんが、スラックスを穿いていましたね。色は黒っぽい感じでしたね。紺色だったかも知れません。よく覚えていないですね。口紅の色は赤でしたね。髪の色は黒だったと思います。野球帽の後ろから髪の毛がでていましたから、ポニーテールにしていたのでしょう。」と店主が答えた。

太郎と和彦は自転車を2台借り、老人から訊いた道順で大井コンテナ埠頭に向かった。


足取り追跡調査3;5月21日(日)午後3時ころ 大井コンテナ埠頭にて


「ここで、弟は何を確認しようとしたかですね。」と和彦が太郎に言った。

「証拠写真でも撮影したのでしょうかね?蒲田駅ではカメラはありませんでしたから、午後3時から午後5時の間に拉致され時にそのカメラがどうなったかですね。自転車の返却時間からみて、このコンテナ置き場に来ていたと考えるのが妥当でしょう。そうすると、3時半から4時半が拉致された時間帯と想定できますね。拉致された場所の特定は難しいでしょうが、返却された自転車の破損具合から考えて、自転車に乗って、逃走中の転倒か車にぶつけられたと考えられます。逃走中にカメラを落としたか、隠したかをしていれば、事件の手掛かりが残っている可能性がありますが、奴らに取られていれば、カメラは壊されて破棄されているでしょう。」と太郎が言った。

「取りあえずカメラ探しをしますか?」と和彦が太郎に訊いた。

「探すのは、帰り道でいいでしょう。少し、コンテナ置き場を回ってみましょう。税関かコンテナヤードの管理事務所でヤードに入る許可を貰いましょう。」と太郎が言って、自転車を走らせ始めた。和彦も追従した。


東京税関大井東出張所玄関口守衛所;5月21日(日)午後3時30分ころ


「コンテナヤードの写真を撮りたいのですが、こちらで許可していただけますか?」と玄関口の守衛に向かって、デジカメを見せながら太郎が言った。

「ここは税関ですから、ヤード内の管理事務所に行ってください。」と守衛が答えているところへ、事務官が出てきた。

「じゃあ今日はこれで帰ります、守衛さん。審査官の方は5時まで居ますからよろしく。」とその事務官は身分証を見せながら守衛に挨拶した。

「休日当番ご苦労さまです、河路さん。」と守衛が答えた。

「こちらの方は?」と河路事務官が守衛に訊いた。

「人探しの為にコンテナヤードに入りたいのですが。」と太郎が言った。

「人探しとコンテナヤードが関係有るのですか?」と事務官が訊いた。

「ええ、この人物の足取りを調べています。コンテナヤードに来たはずなのです。」と太郎が達美弁護士の写真を見せながら言った。

「ああ、この方は弁護士さんですね。」と事務官が言った。

「ご存知ですか、大沢達美弁護士を。」と太郎が言った。

「ええ、確か三週間くらい前の日曜日でしたから4月30日ですかね。私が今日と同じように休日当番で仕事をしている時にお見えになりまして、インボイス(輸出品の送り状)のコピーをお見せしました。本来なら裁判所の許可証が必要ですが、許可証を取ってから平日にこられては、仕事が中断されますので、休日に見てもらった方が私共は助かります。それで、私が立ち会ってお見せしました。弁護士の身分証も確認させていただきました。確かデジカメでインボイスの写真を撮っておられましたね。」と事務官が答えた。

「ああ、そのカメラでしたらここにありますよ。」と守衛が言った。

「ええっつ!」と太郎、和彦、河路事務官三人が同時に声を発した。

「どうしてまた、ここにあるの?守衛さん」と河路事務官が訊いた。

「いえね、あの日は私も当番の日で、弁護士さんが帰られた後、表の植栽に散水していたんです。そこに、突然弁護士さんが戻ってこられて、『このカメラを預かって欲しい』と無理やり私に渡して、すぐ走っていかれました。玄関前に自転車が停めてあって、それに乗っていかれましたよ。机の引き出しに入れたまま、その後忘れていました。」と守衛がカメラを机から取り出しながら言った。

「実は、大沢達美弁護士は殺されました。こちらがお兄様の和彦さんです。」と太郎が和彦を紹介した。

「このカメラは持って帰ってよろしいでしょうか?」と和彦が訊いた。

「ええ、身分を証明するものがあれば見せてください。それと、こちらに住所、氏名、電話番号を記入していただければ、お渡しいたします。」と守衛が答えた。

「それで守衛さん。何時頃だったですか、カメラを預かったのは?」と太郎が訊いた。

「入館者記録帳では15時45分に退館されていますから、その20分くらい後でしたから、午後4時頃ですね。」と守衛が入館者記録帳のノートをめくりながら答えた。


(※注記)インボイス:輸出主が輸入主に送る物品名称、金額、個数、梱包方法、積出港、到着港、船名、積出日、輸出者の住所氏名、輸入者の住所氏名などの事項が書かれた書類。積出港などがインボイスに書かれていない場合は、船荷証券(通称ビル)など、確認事項に書かれている書類を税関に提出する。税関で輸出入申告をする場合、これらの書類の記載事項と相違があるかを審査官がチェックする。この小説では、大沢弁護士が調査中の件でインボイスから何かの情報を得ようとしたと思われる。



武蔵林影20

蒲田南警察署地域課定例会議3; 5月22日(月)午前10時頃

 

「先週金曜日に新潟の?マシンテックの社長に会って話してきました。機械の動作不良による損害賠償の件で川島鉄工所が大沢弁護士に賠償請求の仕事を依頼したようです。北河総業がドイツから輸入した機械を?マシンテックで特別改造して川島鉄工所に納品したようです。特に、怪しいことはありませんでした。工場内部も見てきましたが、これといった匂いは感じませんでした。それから、探偵屋の大和が川島鉄工所の代理で?マシンテックに来たようです。新しい弁護士が決まるまで、大沢弁護士の代理で損害賠償の件の調査活動を請け負ったようです。」と高井刑事が報告した。

「探偵の大和!食えない奴だな、全く。勝手にさせておけ。ところで、被害者の足取りと行方不明のカメラの件はどうなった?木村。」と橘課長が訊いた。

「目撃者が出てきません。カメラも不明です。」と木村刑事が答えた。

「蒲田駅の事件現場と別の場所に設置したビデオカメラ録画映像からは何も出てこないのか?岩下調査官。」と橘課長がきいた。

「はい、探偵の大和が言っていたボストンバックを持った青年の映像は有りません。白いトレンチコートと思われるものを手に持っている男が二人、駅ビル西階段昇り口カメラに写っているのをやっと見つけました。この男たちです。今までコートを着ている人間を探していたのが失敗でした。小さく折りたたんで小脇に抱えていたので気づくのに遅れました。コンピューターで顔の拡大補正した写真がこれです。カメラのビデオ録画映像からは詳細な顔は判明しませんので、コンピュータグラフィックスで輪郭強調や陰影補正したのがこの写真の男たちです。」と岩下が言った。

「よしっ、出たか。至急、この写真を全国の警察署に紹介して、人物特定できるか調査依頼してくれ、三井事務官。それから、ボストンバッグの青年の目撃者は蒲田駅近隣にはいないのか?」と課長が訊いた。

「ええ。他の日付の録画映像には登場してきませんから、通りすがりの人物と思われます。通勤で蒲田駅を利用しているとは思えません。探偵屋がいうように犯人の一味かどうかは不明です。それから、トレンチコートの男の件は、所長のOKを貰って、先週の木曜には全国の警察署に紹介しております。」と岩下が言った。

「そうか、俺は出張中だったからな。ご苦労さん。木村、高井、青年の足取りを追求しろ。チェック柄のボストンバックが目印だ。いいな。」と橘課長が言った。

「はい。でもバッグの色など、もう少し詳細な内容でないと雲を掴むような話で、目撃者など期待できません。」と木村刑事が返事した。

「三井事務官、捜査本部設置依頼の件は継続しておくこと。俺が警視庁に行って、応援を頼んでくる。今日の会議はこれにて終了。」と橘課長が言った。



武蔵林影21

新潟県長岡市寺泊のCIA監視場所; 5月23日(火)午後2時ころ


「お帰り、太郎。東京での成果はどうだった?」とスティーブが訊いた。

「スティーブのアドバイスのおかげで、大収穫だった。」と太郎が言った。

「それは良かった。こちらも、昨日、重要情報が手に入ったぞ。」とスティーブ。

「盗聴から関係者6人のコードネームが判明した。『がりょうさん』、『さんちくさん』、『なりたさん』、『みやさん』、『あすかさん』、『まるだい』だ。『がりょうさん』は女性だ。」とスティーブが言った。

「ボストンバックの青年のコードネームはどれになるのか?」と太郎が訊いた。

「『さんちくさん』と思われる。」とスティーブ。

「女性の『がりょうさん』のビデオ録画映像は有るのか。」と太郎が訊いた。

「いや、この女は寺泊には来ていない。すべて、東京の『ジャパンモンキー』からの連絡だ。写真データを電子メールで送ってきた。この写真だ。東京で5人が会合を行ったようだ。『まるだい』は参加していない。」と、スティーブが女を含む4人の写真をパソコン画面に出して、太郎に見せた。

「美人だな。しかし、日本人かな?この女?化粧の具合が日本的でないな。ボストンバックの男もいるな。この5人の住処すみかは判明しているのか?」と写真を見ながら太郎は言った。

「いや、不明だ。会合場所と時間が盗聴で判ったので、『ジャパンモンキー』たちが現地で待ち伏せした。解散後、尾行をしたが、5人とも地下鉄の乗り換え時点で人ごみに混じってしまい、かれてしまった。奴らも用心している。プロだからな。」とスティーブが答えた。

「尾行を気づかれたのか?」と太郎が訊いた。

「いや、それはわからない。しかし、気づいていないとしても、撒く行動はスパイの習性だから必ず行なっただろう。奴らは用心深い。尾行するときは気をつけろ、太郎。気づかれると、逆に監視されてしまうぞ。」とスティーブが言った。

「ところで、電子メールでの情報交換は盗聴される危険性があるのでは?」と太郎が訊いた。

「その心配は無用だ。データを送出する前にスクランブルをかけて暗号化している。この暗号を解読するデコーダー(暗号解読器)を持っていないとデータを盗んでも、映像や文章を再現出来ない。そこのパソコンの横にある機器がデコーダーだ。」とスティーブが説明した。

「了解。ところで、この写真をどう見る?スティーブ。」と、太郎が大沢達美弁護士のデジカメから見つけた写真のコピーをスティーブに見せた。

「5人か。この5人が蒲田駅での殺人に関係していると考えられるな。みんなサングラスをしているな。どこかの公園で会談でもしているのかな。この野球帽の女とこの男は『がりょうさん』と『さんちくさん』に体格と顔の形がなんとなく似ているな。思い込みが激しいかな?」とスティーブが言った。

「いや、俺もそう思う。この写真は、例の事件で殺された弁護士が拉致される直前に撮影した写真だ。だから、少なくともこのサングラスの男はボストンバックの男と思われる。すなわち『さんちくさん』だ。」と太郎が言った。

「興味があるな。他の写真も見せてくれ、太郎。」とスティーブが勢い込んで言った。

「写真のデータをUSBメモリーで持ってきたから、パソコンで見よう。」と太郎がメモリーをパソコンに差し込んだ。

「コンテナヤードと公園の中か。こいつらの目的は何だ?そういえば、太郎が東京に帰る前に『さんちくさん』をCIAが尾行した。その日は新潟のホテルに宿泊したが、翌日に新潟港のあたりで見失った、とか言っていたな。新潟港のコンテナヤードに行ったか?」と写真を見ながらスティーブが考え込んだ。

「正確には、新潟東港だ、スティーブ。俺の事件に関係している?マシンテックが新潟東港のコンテナ置き場に自動車3台を隠した。」と太郎が言った。

「その場所をCIAに教えて、人工衛星から監視させよう。東京のコンテナヤードも同様にな。それから、?マシンテックも監視対象に入れる。場所の詳細を教えてくれ、太郎。」とスティーブが言った。

「?マシンテックの住所は新潟県三条市三竹さんちく2丁目。うん、さんちく?『さんちくさん』と関係が有るのかな?」と太郎が言った。

「まあ、現在の時点では関係なしとしておこう、太郎。思い込みは禁物だ。」とスティーブが言った。



武蔵林影22

蒲田南警察署地域課定例会議4; 5月29日(月)午前10時頃

 

「JR蒲田駅弁護士死亡事件に関するトレンチコートの二人の素性が判明したので報告する。千葉県警成田署からの報告によると、千葉県成田市東町の中古車販売業、川上郷太43歳。成田山新勝寺の近くの国道51号線沿いで小さな中古車販売店を経営している模様。現在、店は休業閉店中で、川上は行方不明である。家族はいない。本籍地は富山県黒部市吉田となっているが、この地に家族や親戚は住んでいない。大正時代までは祖父など、家族が住んでいたようだが、現在は書類上の本籍地登録だけのようだ。地元の親戚の話では、川上郷太は昭和56年ころ石川県金沢市で就職したあと消息不明になっているらしい。もう一人は、神奈川県警寒川町署の報告で、神奈川県高座郡寒川町岡田に住む中古車販売業、高木和久39歳。JR相模線の宮山駅前にある寒川神社の近くで中古車店を経営。販売店は休業閉鎖中。本人は行方不明。本籍地は福岡県糸島郡志摩町芥屋けやであるが、ここにも家族親戚は住んでいない。地元の親戚の話では、北九州市への就職後、音信不通状態で行方不明。以上である。それから、警視庁からの本事件に関する通達を説明する。本事件は、駆け込み乗車事故として、蒲田南署扱いでの偶発事故として処理する。担当刑事の高井と木村は公安委員会テロ対策室に今週の水曜から出向とする。公安委員会テロ対策室では関東甲信越の各県警所轄の警察署と公安委員会が連携活動するテロ特別警戒プロジェクトを計画している。高井と木村には先週、事前連絡してあるので、本日は警視庁での説明会に出席している。出向期間は当面3ヶ月間とする。内密だが、俺の同期仲間の監査室課長から聞いた話では、内閣総理大臣命令として内閣情報局から本事件捜査に対して警視庁に圧力が掛かったみたいだ。内閣情報局のやつらは何を考えていやがるんだ、クソッタレ。以上、質問は無し、いいな。次、山田。京浜急行蒲田駅の窃盗事件の進捗を報告してくれ。」と橘課長は憮然とした表情をしながら地域課課員に説明した。


東京都品川区の大井埠頭みなとが丘埠頭公園; 6月12日(月)午後9時ころ


最近は天候不順と梅雨が重なって、よく雨が降っていたが、今日は久しぶりに太陽が顔を出し、

昼間は蒸し暑い一日であった。夜に入って気温は下がり、薄い雲が所々出てきたが、満月の明かりが公園の高台にある展望台を照らし出している。展望台から見ると、コンテナヤードに渦高く置かれた大型コンテナ群が、月明かりの中に影となって浮かびあがっている。コンテナを貨物船に積み込む為の背の高い大きな鉄骨組のガントリークレーンが数本、コンテナ群から頭を突き出している。その上空には黄色く輝く満月がポッカリと浮かんでいるのが目に入る。わずかに見える東京湾の海面が波に揺れ、月の光でキラキラと輝いている風景が異様な感じを二人に与えていた。コンテナ埠頭には人家は無く、倉庫も就業後で社員が帰宅しているので、公園内を散策している他の人影がほとんどない。


「前回と同じように、今日の会合にも『みやさん』と『なりたさん』は出てこなかったな。」と小さな展望台のコンクリート淵に座っている男が言った。

「やはり、組織に殺されたのかもしれないね。」と男の隣に座っている女がいった。

「うん。我々のボスの話では高飛びさせたという事だが、真相は確かに不明だな。ボスの話では警察が『みやさん』と『なりたさん』の写真を持って探しているらしい。例の弁護士を殺した時に監視カメラに記録されたらしい。『みやさん』、『なりたさん』は中古車販売店の経営をしているから、交番の巡査に顔を覚えられている可能性が高い。いずれ素性が判明するだろう。彼らが逮捕されたら、自動車窃盗密売組織の存在も発見されかねないからね。」と男が言った。

「次郎、われわれも殺される前に組織から逃げようよ。私をどこかに連れて行ってちょうだい。」と女がいった。

「だめだ。俺は、17歳で新潟へ出てきた。それ以来、ボスに拾われ、生きる為にこの組織に入った日本人だ。15年間も悪事を働いている。君はK国に帰って、国の発展に尽力するのが夢なのだろう。俺の生きている世界と君の生きていく世界の間には深く大きな谷がある。二人は別世界の人間だから、あきらめろ。それに自動車窃盗密売組織は資金調達が目的で、真の目的は別にあるのだろう。俺は知らないけれど、それを君は知っているはずではないか?」と男が言った。

「私、怖いの。自分の意思で組織に入った訳ではないわ。私も生きる為に組織の手足になることを強要されているだけなの。国民の幸せに貢献するためにはもっと違うやり方が必要だわ。」と女が男にしがみついた。

「・・・・・・・」

月明りの中で、絶望的な気持ちで抱き合う二人を沈黙が包み込む。


「俺たちは、それぞれの世界の汚れた林に迷い込んでしまったんだ。君はK国の国家組織と云う林の中で汚れてしまった。俺も日本の社会秩序と云う世界からはみ出た林の中で生きている。清い心で、この林から抜け出す方法が俺には見つけられない。だから、君を連れて行ける道理がない。あきらめてくれ、恵明けいめい。」と男が心の中で呟いた。



武蔵林影23

ホテル東京パレスサイドイン621号室、夕食後; 6月12日(月)午後7時ころ


「今日は、奴らにかれてしまったが、次回はかれらの住処すみかまで案内してもらうぞ。今日は日本の地下鉄の特徴や駅の状況を知らなかったから失敗したが、次回は必ず成功させる。太郎の地下鉄案内と駅周辺調査のおかげで、撒くための奴らの手口が想像できた。次回は、警察官の配置を変更してもらう。地下鉄駅近くの地下駐車場のリストを早急に作成しておいて貰う必要がある。これは、内閣情報局に依頼する。」とスティーブが言った。

「奴らは、俺たちが尾行しているのを感じ取っていたのかな?」と太郎が訊いた。

「いや。あの様子では、決められたパターンで行動しただけだろう。しかし見事な動きとカモフラージュの手段が斬新だ。敵ながら天晴れと、褒めておこう。」とスティーブが言った。

「いっそのこと、捕まえてしまえば?」と太郎言った。

「今、奴らを捕まえれば、K国は用心のため動きを中止するか、手段を変えてくる。K国のねらいを知らなければ、将来、延々と調査を継続することになる。K国のテロ組織に打撃を与え、テロ問題の不安を除くのがアメリカのねらいだ。相手が警戒を強めた場合には拉致も必要になるが、今は、敵の組織の全貌をなるべく掴み、K国の日本国内の組織を壊滅に導くことがCIAの役目だ。俺たちの役目はそのための情報収集だけでいいんだ。危険な行動はCIAに任せておこう。」とスティーブが言った。

「ところで、CIAと内閣調査局からの?マシンテックの輸出、輸入の調査結果は出たのか?」と太郎が訊いた。

「ああ。過去4年間の輸出、輸入のインボイスのコピーを入手して調べたらしい。?マシンテックは自動車の輸出だけでなく、機械部品の輸入でK国には輸出禁止になっている先端技術部品を世界から輸入調達している。機械改造の為の部品という名目でな。その部品が輸出の自動車に紛れ込んでいるのか、国内のどこかに運び込まれているのかが不明だ。また、自動車の調達、購入経路が判明してない。今回追跡中のコードネームの四人が、自動車調達役の可能性がある。それと、不思議な点がある。一昨年の7月まではかなり頻繁に機械部品の輸入調達をしていたが、一昨年の2004年8月から翌2005年2月までは動きが中断している。ところが、昨年の3月から今年2006年の3月までが、今まで以上に機械部品の輸入が増えている。輸入担当は北河総業であるが、北河総業は輸入代理だけの可能性が強い。そして、今年の4月頃からの日本国内のK国基地のあわただしい動きがこの件と関係していると推定すれば、近いうちに何かが起こる可能性が強い。なにかな?奴らのねらいは、日本国内かアメリカ国内か?いや全く、太郎が持ち込んだデジカメ写真の輸入インボイスデータのおかげでCIAの内部は『てんやわんや』だぜ。」とスティーブが太郎に説明した。

「昨年の3月から急に部品調達が再開された意味は何なんだろう?」と太郎が疑問を呈した。

「さすがだな、太郎。その通りだ。俺もそれの意味がわからない。日本国内の特殊事情の所為かも知れない。」とスティーブが言った。

「日本の特殊事情?」と太郎が訊き返した。

「ああ。例えば天変地異とか、冬場の日本経済の特徴とか、・・・。」とスティーブが考え込んだ。

「一昨年の2004年10月に新潟中越大地震があった。それで、何かが壊れたかな。」と太郎がポツリと言った。

「大地震!かなりの建物が壊れたのか?例えば工場とか、倉庫とか?」とスティーブが訊いた。

「いや、長岡市や三条市などの都市部はそれほど被害が無かったと訊いている。山間部の町や村の被害はかなり大きかったみたいだ。その地域にどんな工場があるかは調べてみないと判らないな。」と太郎が答えた。

「OK。この件は調査事項としておこう。CIAに当時の衛星からの地上写真のデータベースを調査してもらう。それから、内閣情報局から太郎の弁護士死亡事件の日本語で書かれたレポートがきている。俺は日本語が読めないから、太郎、読んでくれ。」とスティーブが言った。


※データベース;過去のいろいろな事象の写真や文章、動画映像などがキーワードなどで分類されて、コンピューターにデータとして保管されている。このデータはハードディスクに記録されコンピューターで読み出しができる。この保管データを総称してデータベースという。


「大沢弁護士を殺害した奴ら5人のうちの二人の素性が判明したようだ。この二人は、『成田山なりたさん』というお寺と『寒川神社』という神道の建物の近くでそれぞれ中古車販売店を経営していたようだ。現在、消息不明。寒川神社は宮山みややまと云う地名の場所にある。この日本語の漢字は読み方をかえると『みやさん』と読める。奴らのコードネーム『なりたさん』と『みやさん』はここから来ていると考えられる。とすると、『がりょうさん』、『さんちくさん』、『あすかさん』、『まるだい』も神社かお寺に関係する地名か何かと推測できるが、どう考える?スティーブ。」と太郎がレポートの内容をスティーブに説明した。

「まあ、そう推理しておく事にしよう。あとで、役立つかもしれないな。太郎は、これらのコードネームからお寺とか、神社とかの場所に心当たりはあるかい?」とスティーブが訊いた。

「いや、思い当たらないな。ここのホテルのパソコンを借りて、インターネットで調べてくるよ。」と言って、太郎は621号室から出て行った。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

20分くらいで、太郎が621号室に戻ってきた。

「『がりょうさん』と『まるだい』については、今回の事件に関係しそうな神社やお寺の情報は見付からなかった。『さんちくさん』は漢字で三竹山(三つの竹の山)と書いて、茨城県常総市大塚戸の住所に一言主ひとことぬし神社がある。『あすかさん』は飛鳥山(飛ぶ鳥の山)と漢字で書いて、飛鳥山公園の近くの東京都北区本町に王子神社がある。」と太郎がスティーブに説明した。

「OK。その神社の近くの中古自動車販売店を洗ってみよう。明日、朝から出かけよう、太郎。先のコードネームのふたりが姿を消したという事は相手も警戒している。事態は急展開している。場合によっては『さんちくさん』を拉致・逮捕する必要がでてきたな、太郎。」とスティーブが言った。

「OK。フロントにレンタカーの予約をたのんでおく。これから、東京都と茨城県の地図を近くの本屋で買ってくる。」と太郎が外へ出かけていった。



武蔵林影24

捜査:茨城県常総市、一言主ひとことぬし神社近郊の車中; 6月13日(火)


「見付からないな。これで12件回ったが、『さんちくさん』がいると思われる中古車屋はないな。これ以上探しても無駄だろう。『ジャパンモンキー』が『あすかさん』を見つけていれば良いのだがな。」とスティーブが言った。

「ああ。帰ろうか、スティーブ。」と太郎。

「帰る前に、一言主神社に参拝しておきたいな。」とスティーブが言った。

「えっ。神社に興味があるのかい、スティーブ」

「いや。日本の伝統文化に触れておくのも大切なことだと思っている。神社とかいうのは、京都や奈良にもあるのだろう?今回の事件で、日本国中に神社やお寺が無数にあるのを知った。アメリカでは教会があるが、日本の神社やお寺の数には及ばないと思うよ。日本人というのは、本当に敬虔な人種なんだな。太郎を見ていると、そのようには思えないんだがな。ハッ八ハハ。」とスティーブが冗談風に言った。

「これは心外だな、スティーブ。これでも、大学は神学部を卒業しているんだぜ。京都にあるD大学では4年間、礼拝堂で賛美歌をよく聴いたもんだ。」と太郎が言った。

「じゃ、太郎はクリスチャンかい?」

「いや、クリスチャンじゃないが、聖書に興味があって、4年間神学部でいろいろと研究したんだ。」

「そうか。一応、神様を敬うことは知っているようだな。じゃ、神社にお参りに行こう。」と助手席に座っているスティーブが運転席の太郎を促した。


茨城県常総市、関東鉄道常総線 小絹こきぬ駅近郊の国道294号線沿い;


二人は、一言主神社にお参りしたあと、帰路についた。

「もう少し行くと、高速道路の入り口に到着するから、リラックスしてもいいよ、スティーブ。」と太郎が言った。

「待ってくれ、太郎。今、通り過ぎた左手にオートバイが多数駐輪してあった駐車場と建物に引き返してくれないか。」とスティーブが言った。

「ああ、オートバイのオークション会場だな。購入したいオートバイでも見えたかい?」と太郎が言った。

「いや、『さんちくさん』だ。」とスティーブが言った。

「そうか。中古自動車ではなく、中古オートバイの仕事をしながら情報収集している可能性があるな。」と太郎が答えた。


オークション会場の向かいにある大型電気店の駐車場に車を停めて、二人は歩いて国道を渡った。

東日本BAと書かれた看板のある建物や駐輪場の中を窺ったあと、門から中に入ろうとしたところで、勢いよく出て行く大型オートバイと衝突しそうにすれ違った。


「危ない奴だな。」と太郎が言った。

「事務所に行って誰かに、『さんちくさん』の写真を見せてみよう。」とスティーブが言った。

「いいのか。もしここに『さんちくさん』がいたら、こちらの追跡の動きを知られてしまうことになる。それでもいいのか、スティーブ。」と太郎が聴いた。

「ああ、かまわない。『なりたさん』、『みやさん』が姿を隠したという事は、彼らも用心しているということだ。彼らが会合を中止してしまう可能性もある。寺泊のKISS基地も閉鎖してしまうかもしれない。そうしたら、追跡もできなくなる。ここは勝負どころだ。『さんちくさん』を拉致することも止むを得ない。CIAにはOKをもらっている。拉致した後は、内閣情報局経由で警察のテロ特別対策本部に引き渡すことになっている。」とスティーブが言った。


太郎とスティーブは事務所に入って、事務員に写真を見せた。


「ああ、これは北山次郎ですよ。今、オートバイで出て行きましたよ。あいつ、慌てていたな。」と中年の事務員が写真を見ながら言った。

「フルフェースのヘルメットをかぶっていたので判りませんでした。ところで、北山さんはいつ頃からここで働いていますか?」と太郎が聴いた。

「アルバイトとして雇っていますが、かれこれ5年になりますかね。」と事務員が言った。

「北山さんの住所を教えていただけますか?」と太郎が聴いた。

「あなた方は刑事さんですか?素性のわからない方にはお教えできません。プライベートのことですから。」と事務員が断った。

「そうですか。」と言って太郎とスティーブは事務所の外へ出た。

二人は、広い駐輪場でオートバイの検査をしている若者に近づいて、話し掛けた。

「あなたはアルバイトですか?」と太郎が若者に聴いた。

「ええ、そうですが。何か?」と若者が返事した。

「アルバイトの北山次郎さんの住所を知っていますか?」

「ええ、知っていますけど。それが?」

太郎はその言葉を聞きながら、ポケットから財布を出して、3万円を数えた。

「これで、住所を教えてもらえませんか?」と太郎が若者にお金を握らせた。

「彼のオートバイが故障したときに車で一度送っていった事がありました。正式な住所名は知りませんが、地図が有れば場所とアパートの名前を教えますよ。事務所に届けている住所と実際に住んでいる住所は違いますからね。」と若者が答えた。


『さんちくさん』(北山次郎)のアパート近くに停車中の車内;午後9時


「もう6時間待ったが帰ってこないな。逃げてしまったかな?」と太郎が言った。

「ああ。そうらしいな。帰ろうか。」とスティーブが言った。

「しかし、北山次郎なる人物は我々のことを知っていたのだろうか?我々を見て、オークション会場の事務所から逃げ出したようだが。」と太郎はスティーブに話しかけた。

「そうだな。しかし、CIAがKISSを追跡していることは、まだ知らないと思われるから、弁護士殺害の件で太郎が追っかけて来たと思ったんだろう。」とスティーブが言った。

「しかし、北山次郎が、この名前が偽名ではないとして、俺の顔を知っているはずは無いんだがな。新潟の?マシンテックを訪問したときに顔でも見られたかな。」と太郎が言った。

「この件で太郎が顔を見られていたとしても、太郎が北山次郎を追いかけていると考えるだろうか?まだ、自分が犯人であるという証拠はどこにも残していないと考えているはずだ。もっと以前の違う事件で北山次郎に見られていないか、太郎。」とスティーブが訊いた。

「以前の事件ね。ふーむ。」と太郎はしばらく考えた。

「ああ、そうだ。思い出したぜ。北山一郎の事件かもしれないな。一郎と次郎。一字違いだが、長男と次男と考えれば、ふたりは兄弟だ。それに、5年前の事件のあと、拳銃狙撃事件があったんだ。あれは北山次郎が兄の一郎を死に追いやったのが俺だと思って、復讐してきたとも考えられるな。この事件の時に、俺の顔を脳裏に焼付けたのだろう。その件で追いかけてきたと勘違いした可能性があるな。」と太郎は5年前の八丁湖殺人事件が解決したとき、嵐山町の都幾川土手で狙撃された件を思い出した。

「そんな事件があったのか、太郎。」とスティーブが言った。

「明日、茨城県警に北山次郎の素性調査を依頼してもらいましょう。スティーブから内閣情報局経由で頼めるかな?茨城県内の公安委員会事務所に問い合わせて、北山次郎の自動車免許証があるかをしらべれば、北山の本籍地が判明するはずだ。データベース化されていれば、東京の警察庁公安委員会でも調べられるだろう。」と太郎がスティーブに言った。

「OK。明日のCIA、内閣情報局との打ち合わせの時に依頼する。しかし、北山はもう、このアパートには戻ってこないだろう。仲間の家か別の家に移動するだろう。今後、どのように追跡するかだな。これで太郎がアメリカ人らしき奴と一緒にいることの報告がKISSに入り、CIAが動いていると感づかれる可能性がある。当分の間、奴らの会合も開かなれないだろう。」とスティーブが言った。

「そうだな。でも、寺泊の監視は継続中だろう?」と太郎が訊いた。

「監視は続けるが、KISSの動きが変わってくるだろう。奴らが太郎の監視に動き出せばありがたいのだがな。とにかく、内閣情報局に太郎の探偵事務所を監視させることにする。それから、奴らは用心のため寺泊と新宿の基地を閉鎖するかもしれないな。新しい手立てを考えないと、KISSの活動調査は頓挫しかねない。とにかく、明日から出直しする気持ちで動こう、太郎。」とスティーブが言った。

「了解。明日は、例の弁護士の親類に状況報告に行く予定になっているので、あさって、寺泊に一緒に戻ろうか。」と太郎が言った。



武蔵林影25

府中市の大沢弁護士事務所; 6月14日(水)


「先日、蒲田南署から主人の件は偶発的死亡事故で処理される事の連絡が入りました。」と大沢里美が言った。

「秘密にしてほしいのですが、この事件はテロ特別対策本部の管轄に移ったみたいです。・・・・云々。」と太郎がスティーブから聞いた警察内部事情の次第を説明した。

「では、表面的に事件は終わったという形にしたわけですね。」と大沢和彦が言った。

「しかし、大沢弁護士殺害事件の犯人として逮捕される事はないと思います。物的証拠が何もない状況ですから。警察が逮捕後、犯人が弁護士殺害を自供すれば別ですが。」と太郎が言った。

「大和さんの力で何とか自供させられないでしょうか?」と和彦が言った。

「確約は出来ませんが努力はしてみます。しかし、テロ対策で犯人たちを逮捕できるかどうかもわかりません。K国への逃亡や、最悪で銃撃戦になる可能性もあります。」と太郎が答えた。

「そうですか。」とガッカリしたように和彦が言った。

「それから、川島鉄工所の損害賠償の件ですが、?マシンテックから全面保障をするとの申し出があったそうです。したがって、示談手続きに入りますので、今後の調査などはなくなりました。」と里美が言った。

「?マシンテックとしては調べられたくない事があるから、示談にもってきましたね。」と太郎が言った。

「それで犯人追跡の状況は如何ですか?」と和彦が訊いた。

「北山次郎と云う人物が浮かんでいます。一言主神社の近くの東日本BAというオートバイのオークション会場にアルバイトとして働いていました。昨日、拉致に失敗しました。」と太郎が言った。

「あら、一言主神社。なつかしいわ。」と里美が言った。

「ご存知ですか?」と太郎が言った。

「ええ、7年から8年前に主人に誘われてお参りに行きました。めずらしい名前なので覚えていますわ。確か、三つ又の竹がはえている神社で三竹山と云うのでしょ。先日見た、主人の神社資料にありましたわ。」と里美が答えた。

「その神社資料、見せていただけますか?」と太郎が勢い込んで訊いた。

「かまいませんが、何か事件の参考にでも?」と里美が訊いた。

「ええ。犯人たちのコードネームに関係する記述があればと思いまして。」と太郎が言った。

そして、『臥龍山』『丸大』の文字を神社資料の中から見つけ出した。



武蔵林影26

埼玉県入間郡毛呂山町の桂木観音; 6月13日(火)午後10時頃 --1日もどる--


武蔵国入間郡桂木/桂木観音は養老3年(西暦719)、行基が奈良の大仏創建のため全国行脚の途中で創建したといわれている。行基が杉の木で彫った観音像がいまもご本尊として存在しているようである。行基の逸話には、『紫雲たなびくのを見て』その地にお堂を建てたという話が各地で出てくる。行基がこの山の中腹にお堂を建てたのも紫雲たなびくのを見たからだそうだ。観音堂の近くに小さな桂木寺がある。観音堂の山門には恵心の作といわれる小さな仁王像が左右にある。この仁王像は古く、風雨にも晒される為か、ほとんど朽ちかけている。奈良・平安時代にはかなりの参詣人が訪れていたようである。江戸時代に入って、参詣する人が少なくなり寂れていったようである。

ここ桂木観音は山の中腹にあり、武蔵国(関東平野)が眼前に広がっている。


今日は久しぶりの晴れ間で、満月が過ぎ、右上が少し欠けた下弦の月が雲間からポッカリ浮かんでいるのが眼前に見える。

桂木観音に登る階段の前の道にオートバイと黒塗りのワンボックス車が止まっているのが月明りの中に映し出されている。


「こんなところに突然呼び出して、どうしたの。次郎」と李恵明が言った。

「私立探偵の大和太郎が急に現れやがった。」と北山次郎が言った。

「どこに?」

「バイクのオークション会場にアメリカ人と思しき白人と、今日の2時頃現れた。外から会場の中を覗き込んでいるのを見つけて、すぐ逃げてきた。その時は5年前の発砲の件かと思ったが、今考えてみると、日時がたちすぎている。白人がアメリカ人ならCIAがKISSの動きを調査している可能性もある。俺は窃盗団の一員に過ぎないが、恵明はKISSの要員だから、CIAには注意しているだろう。君の身辺にも監視が及ぶといけないから、ここに呼び出した。」と次郎が言った。

「やはりK国諜報機関KISSの事を知っていたのね、次郎。先日の大井埠頭公園での話ぶりからして、もしかして気が付いているかと思っていたけれど・・・、やはり。」と恵明が言った。

「長年、君やマシンテックの社長、ボスと付き合っていれば、自然にわかるよ。俺も馬鹿ではないからな。それに『みやさん』と『なりたさん』はK国人だろ?日本語は上手いが、ほんの少し、K国語訛りが時々出たからな。日本人に成りすましていると思っていたのだろうが、長く付き合えば判るさ。しかし、俺はKISSに首を突っ込む気はない。何を行なおうとしているか、知りたいとも思わない。おれは、自動車窃盗団の一員にすぎない。日本人だからな。」と次郎が言った。

「そうね。次郎は賢いから、すべてお見通しね。でも、私の次郎への気持ちは真実よ。わかってね、お願い。」と恵明が言った。

「ああ、わかるよ。だから、困るんだ。おれには構わないでくれ、恵明。」

「それは、次郎の本当の気持ち?違うでしょ。」

「いや、本当の俺の気持ちだ。俺には、先が無い。この迷い込んだ林の中から抜け出せない。抜け出す勇気がないんだ。」

と次郎は、迷い込んだ殺風景な林の中を歩く自分の姿を思い浮かべながら言った。


「違うわ、次郎。KISSはまだ、あなたが窃盗団のひとりと思い込んでいる、と見ているわ。KISSのことには気づいていないと思っている。だから窃盗団から逃げても必要以上に追跡されないわ。」と恵明が強調した。

「いや、そんなことは無い。おれの兄貴、一郎は自殺したとはいえ、KISSが自動車窃盗団の発覚を恐れて追いかけたからじゃないか。それで、観念して自殺したんだ。あの、探偵の大和太郎が動き廻った所為せいで、KISSが窃盗団発覚を恐れたんだろ。」と次郎が言った。

「違うわ。一郎さんは、あなたを守る為に、自ら服毒自殺をしたのよ。KISSは探偵を殺そうと狙っていたのよ。しかし、警察が、探偵の周りをウロウロするものだから、実行できなかっただけよ。一郎さんが死んだから、探偵も警察も、一郎さんが山田武雄殺害の犯人として終決させただけよ。それで、警察の捜査もなくなったからKISSは大和太郎の命ねらう必要がなくなっただけ。実際は、山田武雄が埼玉県警の自動車窃盗団と偽造ナンバー監視ネットワーク構築の仕事上から私が以前いた埼玉県行田市の中古車販売店に不信を持ったのが発端よ。私の店のパソコンに侵入調査しているのをKISSのネットワーク技術者が発見して、逆調査で山田武雄の存在を知った。だから、KISSが東松山のホテルで山田を殺害した。本来なら殺人と判らない方法をとるべきだったのでしょうが、山田武雄が我々の事を確認して、いつ警察に話すかが、気が気でなかったの。だからチャンスが来たとき、直ちに殺害を実行したのよ。その時、私の役目は、次郎が蒲田駅の弁護士殺害の場合に行なった役目と同じ、殺人完遂の見届け役だったわ。だから、一郎さんと青木智子の動きを良く知っているわ。殺害直後に山田武雄の泊まっている部屋を訪問した一郎さんが、山田の死体をみて、不憫に思い、死体に上着を掛けてあげたのよ。実行犯の3人は新聞に書かれているみたいに、上着なんか掛けていないといっていたわ。一郎さんは、その時は青木智子が山田を殺害したと思ったんじゃないかしら。それで、あわてて逃げ出した。青木智子を殺したのは、山田武雄の殺害犯人である『なりたさん』と『みやさん』と『あすかさん』が山田武雄の部屋からでてくるのを目撃されたからよ。返り血の着いたビニールの雨合羽を見られてしまったと思い込んだのよ。その場では3人は逃げたが、驚いた青木智子も反対側に逃げ出した。その後、戻ってきた智子は、一郎さんが山田の部屋から慌てて飛び出して行くのを見て、一郎さんが山田武雄を殺したと思い込んだのよ。後日、殺人犯人の3人は大和太郎の動きを追跡する過程で青木智子の居場所を見つけた。一郎さんが青木智子を逃がそうしている寸前、すなはち、一郎さんが会津の神社に到着する直前に拉致し、無理やり青酸カリを飲ませて殺害したのよ。一郎さんは次郎から貰ったナンバーが偽造である事、あなたが窃盗団の一員であることを知っていて、あなたをかばう為、警察にも行けないまま悩んでいたのよ。青木智子が殺害されたのは自分の責任だと思い、また、自分が警察に誤認逮捕されたら次郎の存在が警察に判明してしまうから、自ら死を選んだのよ。それと、やはり、一郎さんは青木智子を愛していたのよ、きっと。一郎さんの気持ちをかんがえて、次郎は生きて往かないといけないわ。」と恵明が言った。


そして、二人の間には長い沈黙が続いた。


桂木観音の山門前で、関東平野を照らし出す月明かりを見ながら立ち尽くしている二人の後ろには、月影が古代の武蔵国むさしのくにの残影の如く、長く尾を引いていた。手を繋いで立つ二人の影が『林』という文字を描き出している。



武蔵林影27

東武東上線 東松山駅前; 6月15日(木)午後2時頃 


太郎は東松山駅改札にスティーブ・キャラハンを出迎えて、駅の階段を降りたところで、東松山署の林刑事が同僚とビルの陰から自分たちの方を見ているのに気がついた。内閣情報局が探偵事務所の監視を依頼したのだろうと思い、そのまま、見なかったふりをして探偵事務所に向かった。


東松山駅前の大和探偵事務所;


「『がりょうさん』の場所がわかったようだな。」とスティーブが言った。

「埼玉県入間郡毛呂山町岩井に出雲伊波比いずもいわい神社がある。この神社の建っている小高い山、多分、古墳ではないかと思うんだが、その山が地元の人の話では臥龍山と呼ばれているそうだ。ここから車で30分くらいのところにある。」と太郎が説明した。

「神社に行く前に、昨日のCIA、内閣情報局の会議内容を報告しておく。多くのことが判明した。それでCIAはかなり焦っている。」とスティーブが説明を続けた。

「今日の午前中の情報から話そうか。新潟中越大地震での被害の件だが、人工衛星写真データベースからK国の基地と思われる建物が崩壊しているのがわかった。内閣情報局が現地を訪問して地元の人間からその工場が稼動していた頃の様子を訊いてまとめたところ、新潟テック技研とかの看板が掲げてあったらしい。工場では、最新の電子回路基板を小型の金属ケースに組み込んでいたようだ。空のダンボール箱にはドイツ語か英語で台湾やアメリカ、ヨーロッパの都市の住所や会社名が書かれていた模様である。寺泊や新宿の盗聴内容などと、?マシンテックの過去の輸入品インボイスから判明した物品名称をアメリカの兵器開発研究所に知らせ、その見解を求めた。その結果、小型爆弾、それも電波発火式超小型の核爆弾の可能性が有るとのことだ。これをどのように使うのか、CIA内部の戦略・戦術企画部で検討した結果、新築の超高層ビルの最上階に、建築時点でこの爆弾を組み込む。もちろん電源接続もアンテナも必要とするから建築業者の中にK国のスパイがもぐりこんでいる可能性がある。建築物が完成した後では、この爆弾は建物の壁の中にあるから発見されない。外部からパルスコード化された暗号電波を発信して、その暗号が記憶されているコードと一致したときに爆発する。短波の受信機回路を組み込んでいる模様で、K国から電波発信しても、地球上空の電離層で反射してアメリカまで電波が届く。6月から8月の間が電離層の最も活発な時期なので、この時期にK国は何かの実験をする可能性がある。CIAはアメリカ建国記念日の7月4日、日本時間で7月5日が決行日と踏んでいる。他の国の諜報機関から入っている情報もK国の動きを察知している模様だ。しかも、信号伝達スピードは電波だから光と同じ速さなので、防御不可能だ。この爆弾が完成していて、日本やアメリカに仕掛けられていたら、いや、アメリカだけではなく全世界の国が脅威にさらされる。もし、新潟中越大地震が起きて工場が崩壊していなかったら、今ごろはどうなっていた事か、冷や汗ものだぜ。日本は神様に守られているのかな。いや世界は地震の神様に感謝しないといけないな。被害者の方には気の毒だけれどな。」とスティーブが言った。

「7月5日ならあと3週間しかないぞ。どうするんだ。」と太郎が慌てたように言った。

「盗聴から判明している事だが、地震のおかげでまだ実験段階だ。焦ることは無い。しかし、日本の工場で完成した超小型核爆弾がK国に届くような事があれば、将来、テロの大脅威が実現することになる。なんとしても実験を食い止めたい。現在の新工場がどこにあるかを発見するのが急務だ。」とスティーブが強い意志を示した。

「しかし、すでにK本国に爆弾が渡っていたらどうするんだ。」と太郎が訊いた。

「世界の諜報機関の見解では、まだ日本国内にあるとのことだ。我々の盗聴内容からも、KISSがかなり慌てている。このことは、まだこれから、近いうちにK本国への出荷があると判断できる。」とスティーブが説明した。

「ところで、爆弾の爆発規模はどのくらいと想定しているのだ?」と太郎が訊いた。

「CIAの話では、金属箱の大きさから半径2キロメートルから3キロメートルの範囲が核爆弾の直接の被害をうける。放射能の影響はもっと広い地域に亘るらしい。今回の実験が地下施設での爆発実験としても地震計での検知できる距離は200Km以内くらいらしい。何かでカモフラージュすれば、爆発実験とは気づかれないとの事だ。」とスティーブが答えた。

「カモフラージュって何をするのだろう?」と太郎が訊いた。

「CIAではK国は外国に兵器を売っているから、ミサイル発射実験などの名目で地下爆発実験をカモフラージュしてくると言っていた。その動きが人工衛星からの監視映像に写っているらしい。この超小型核爆弾が中東のテロリストに売られたら大変な脅威になる。あと、『ジャパンモンキー』が調査していた『あすかさん』も姿を消した。消息不明だ。それでは、レンタカーを借りて、伊波比神社近くの『がりょうさん』を探しに行こうか。」とスティーブが言った。

「いや、待ってくれ、スティーブ。もう一つのコードネーム『まるだい』の事を報告する。『まるだい』は山とか神社とかの名前ではなく、漢字で丸と大という字を書く、神社の家紋の『丸大』であると想像できる。このコードネームだけが、他と性質が違う点からみて、こいつがボスである可能性が強い。新潟県内の神社では弥彦神社がこの家紋を持っている。多分、ここの近くが本拠地だろう。」と太郎が説明した。

「よし、『がりょうさん』の調査は後回しにしよう。このまま新潟へ車を飛ばそう。爆弾製造工場は新潟にある可能性が大きいからな。地図は持っているか、太郎。」とスティーブが言った。

「ああ、午前中に本屋で購入しておいた。レンタカーも駅前の店で予約してある。」

「それから近くのどこかで登山ナイフとピッケル、それとワイヤーカッター、ドライバー、懐中電灯を購入したいのだが。」とスティーブが言った。

「スポーツ用具店とDIYで購入できるが、何に使うつもりだ?」と太郎が訊いた。

「護身用と侵入用工具だ。太郎も登山ナイフだけは購入しておけ。相手は拳銃を持っているぞ。こう云う時には、拳銃所持のできるアメリカで仕事をしたいと、つくづく感じるよ。安全・平和も貴重だけれどね。」とスティーブがため息をついた。

「それから、駅前に公衆電話があったな。CIAの東京支部に連絡して、新潟県警のテロ特別対策班に出動待機要請および相手先不詳の捜索令状の取得を依頼してもらう。工場が見付かれば、間髪をいれず一気に踏み込む必要があるからな。」とスティーブが言った。


関越自動車道 赤城高原サービスエリア; 6月16日(金)午後4時頃 


東松山ICから関越自動車道に入り、運転休憩の為、赤城高原サービスエリアに車を停めた。

そして、弥彦での『まるだい』調査の方針について、太郎とスティーブは議論した。

「どのようにして工場を探すかだが、太郎、いいアイデアはないか?」とスティーブが訊いた。

「ああ、そうだね。我々では新潟県弥彦村の土地勘が無いから警察と行動するか、だが・・・。」

「だめだ。警察が動くと情報が流れる。それに、相手も警戒するから工場を整理してカモフラージュされる事になる。他にいい案はないか?」

「そうだ、燕三条駅前のタクシー運転手なら知っているかもしれない。?マシンテックの調査の時に手助けしてもらった運転手がいるんだ。携帯電話の番号を知っているから、今、電話して訊いてみる。」と太郎が携帯電話を取り出した。

「もしもし。タクシー運転手の高村さんですか?今、大丈夫ですか?」と太郎が話した。

「ええ、そうです。今、客待ち中です。どちらまで?」と運転手が返事した。

「先月お世話になった、東京の私立探偵で大和太郎です。」

「ああ、探偵さん。いま、新潟に来ているんですか?」

「チョット訊きたいんですが、『新潟テック技研』と云う会社か工場を知りませんか?」

「聴いた事がある名前だな。どこだったかな?・・・ああ、思い出した。以前ね、長岡駅前で乗せたお客を山古志村へ行く途中にある、その名前の工場まで乗せましたよ。私もそこへ行くのは初めてで、地元の人に訊きながら、やっとたどり着いた記憶がありますよ。あの時は苦労したな。でもね、タクシー運転手の仲間から一昨年の新潟中越大地震で工場は倒壊したと聞きましたよ。」と運転手が答えた。

「いま、その会社がどうなっているか聴いた事ありませんか?」

「ああ、知っていますよ。以前、乗せたお客が話していましたが、弥彦村の隣町で、燕市吉田町にある工業団地に『吉田テックラボ』の名前で工場を再開したらしいですよ。燕三条駅から近くの会社までお客を運ぶ時に、工場前を通りますから、場所を知っていますよ。案内しましょうか?」

「ええ、ぜひ。今、車で赤城高原サービスエリアにいますので、そっちに着いたら、また連絡します。」と言って、太郎は電話を切った。



武蔵林影28

新潟県弥彦村 弥彦山頂公園; 6月17日(土) 24時頃 


夕方までは曇り空であったが、午後6時頃から夕陽が見え始めていた。

日が沈み、暗くなって午後11時頃に東の空に右上が大きく欠けた下弦の月が顔を出した。

ここ、弥彦山頂から佐渡島と反対側の燕市吉田町の方角を見ると、ヘッドライトの灯りの他に、赤い光の点滅がたくさん見える。パトカーのサイレンの音もかすかに聞こえる。

日本海側に目を移すと、雲間から光は差し込んで、大きな島影の佐渡島を眼前に照らし出している。公園のベンチに座るふたつの人影を月の光が描き出している。

佐渡島が浮かぶ暗い日本海を見つめながら、二人は話し込んでいた。


「みんな居なくなってしまったわ。これからどうしましょう。」と恵明が言った。

「ああ。工場は完全に警察の手に落ちたな。みんな死んでしまったのだろうか。」と次郎が言った。

「完全に包囲され、かなりの銃撃戦になったみたいだから、みんな生きていないと思うわ。KISSでは、生きて相手に捕らえられたら本国にいる家族や親類が大変な目に会うのよ。だから、みんな自決する事を強制されているわ。そして、顔がわからないように死ぬことが義務づけられているの。だから今回も、建物が火事になってしまったわ。自ら工場に火を点けたのよ。私も青酸化合物を持ち歩いている。いつでも自決できるようにね。悲しいわ。」と恵明が涙ぐんだ。

「工場に隠れていた『みやさん』『あすかさん』『なりたさん』も、ボスと一緒に死んでしまったかな。長い付き合いだったから、やはり寂しいよ。」と次郎が言った。

「ええ。来週には製作した機械と一緒にK本国に帰れることになっていたのに。可哀想なことになってしまったわ。私も新潟東港からの帰り道で車の渋滞に巻き込まれていなかったら、KISSの会議に間に合っていたでしょう。そうしたら、みんなと同じ運命だったのね。あなたに会っていた時間のおかげで命拾いをしたわ。」と恵明がため息をついた。

「しかし、?マシンテックも警察が家宅捜索に入ったから、君のお父さんは逮捕されたかも知れないね。」と次郎が言った。

「捕まっても、無事で居てくれればいいわ。私たちもここから逃げなくてはいけないわ。どうしましょうか?」と恵明が次郎に相談した。

「警察の検問の場所はだいたい判っている。逃げ道は僕にまかせろ。しかし、どこへ逃げるかだ。」と次郎が答えた。

「今回の事で、寺泊の基地も新宿の基地もすぐに閉鎖されるでしょうから頼る場所は無いわ。でも、私たちが自由になれるチャンスでもあるわ。もう、悪事を重ねる必要はないのよ。」と恵明はこれからの希望に気持ちが傾いていた。

「確かに、俺たちもここで死んだことになれば、組織からは自由の身となる。しかし、何をして生きていくかの問題がでてくる。警察が俺たちを指名手配するかも知れない。きょうは、新潟市内の俺のアパートで過ごそう。明日は新潟を脱出する。」と次郎が言った。


二人の若者は暗い過去から脱却して、新しい希望に気持ちを寄せて行こうと、心が動き出し始めていた。



武蔵林影29

新潟県長岡市寺泊 野積のづみ海岸; 6月18日(日) 25時頃 


「きょうは一日現場調査や検討会議で大変だったな。お互い疲れたな。」とスティーブが言った。

「やはり、昨日の工場踏み込みの所為で、寺泊のKISS基地は無人になってしまったな。」と太郎が言った。

「ああ。しかし、CIAの話では、基地責任者の追跡は継続しているみたいだ。そいつの住処すみかを知っているみたいだ。しかし、新宿の基地も閉鎖するだろうから、新しい基地ができるまで、K国の情報は別ルートに頼る事になるだろう。」とスティーブが言った。

「工場には、核爆弾本体は無かったみたいだ。日本で製作した回路部とK本国で製作した核爆弾部を合体させる予定だったようだな。とにかく、アメリカとしては、一安心だ。しかし、これからも、K国はテロ兵器の開発を続けるだろうから、世界にとっては脅威が続くことに変わりはない。とりあえず、俺たちの仕事は今日で完了だ。太郎、協力ありがとう。」とスティーブが太郎に礼を言った。

「しかし、10人の男女全員が焼死とは、K国のスパイは壮絶だな。身元も全くわからない。K国国民の為に死んでいったと、本当に思っているのだろうか、彼らは。そうだとしたら、今の日本人には考えられない洗脳状態だな。」と太郎がシミジミと言った。

「ああ。国が貧しい為、奴らも国のため、家族のために必死なのだろう。やはり、国政を行う者の責任は重大だ。罪深きもの、汝の名は政治家なり、かな。」とスティーブが死者の冥福を祈るように、胸の前で十字を切って、手を合わせた。


太郎もスティーブにあわせて、死者のため黙祷を奉げた。


暗い沈黙の中、日本海から野積海岸に打ち寄せる波の音が『ザザー、ザザーッ』と、何かを洗い流すかの様に延々と続いて聞こえていた。

月明りの中、波の向うに佐渡ヶ島の影がどっかり浮かんで見える。


------  荒海や 佐渡によこたふ 天の河  (松尾芭蕉 7月4日 句想成立) ------



武蔵林影30

東京都府中市 大沢弁護士事務所; 6月22日(木) 午後4時ころ 


前日、スティーブ・キャラハンの東京めぐりに付き合ったのに引き続き、本日の午前中、成田空港からアメリカに帰国するスティーブ・キャラハンを太郎は見送った。

その後、事件終了報告のため、府中市の大沢弁護士事務所を訪問した。


「一昨日、新潟県の燕三条中古車連盟の山形三郎社長を訪問してきました。9月からの埼玉県坂戸市の新オークション会場事務員の仕事をお手伝いする事になり、挨拶を兼ねて中古車オークションの勉強に行ってきました。」と大沢和彦が太郎に言った。

「それは良かった。オークションの事はマスター出来ましたか?」と太郎が訊いた。

「ええ。勉強の為、弟の形見のデジタルカメラで施設や運営資料の写真を撮ってきました。今、その写真を見ていたところです。」と和彦がテレビ画面を指さした。

「どれどれ。たくさん人が居ますね。それに、大きな会場ですね。」と何枚かの写真を見ていた太郎が一つの画面に映っている人物に目が止まった。

「この外人は誰であるかご存知ですか?車の横に立っている白人ですが。」と太郎が訊いた。

「ああ。この人は3人いたアメリカ人のひとりですよ。3人とも山形さんと打ち合わせをされていましたね、会議室で。英語の声がしていましたから。内容は聞き取れませんでしたがね。いえ、私も銀行員時代にニューヨークに4年ほど出向していましたから英語は判りますが、声が小さかったので内容は聞き取れませんでした。別に聞き耳を立てていた訳ではありませんから。」と和彦が答えた。

デジカメの画面に映っているスティーブ・キャラハンの映像を見ながら、太郎の頭はフル回転

していた。

「山形三郎とスティーブが知り合い?山形は英語が喋れるのか。確かに、山形の日本語は英語訛りが時々出ていたな。注意して聞いていないと、どこかの地方の訛りと間違うが、あれは英語なまりだな。スティーブの奴、CIAが俺の事を事前調査した、とか言っていたな。山形は俺を調査するために依頼人になって、大沢和彦始め3人の調査で俺の調査能力をためしたな。一石二鳥と言う訳か。山形は日系3世のCIA要員かも知れないな。もしかして、最初から俺と大沢弁護士を結び付けて?マシンテックを調べさせる予定だったかも知れないな。そのために、大沢弁護士の兄である和彦氏の推薦を銀行から貰い、俺に調査を通じて大沢弁護士に近づけようとした、と考えられるな。ところが、想定に反して、大沢弁護士が殺された。焦っただろうな、多分。CIAはやっぱり怖いな。これからはCIAやKISSに尾行されないように注意しないといけないな。はははは。」と頭を掻きながら、太郎は思った。


太郎の顔を見ながら、大沢和彦と里美が不思議そうな表情を浮かべていた。


   ---------- 《武蔵林影》 完  ----------


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