第1話:もしあなたが貧しい国で飢えている人々のために寄付をせずに、豊かな国で裕福な暮らしをしているならば、あなたは不正なことをしていることになる。(1)
放課後。名執は約束通り楠神のいる職員室に向かった。
名執:失礼しまーす!楠神先生!名執でーす!
楠神:本当に来たのね……。まあいいわ。ここだと他の先生方の迷惑になるから、空き教室に行きましょう。
名執:はーい。
※※※
二人は空き教室に移動した。
名執:こんな教室があったんですね。
楠神:ここはもともと何かの部活の部室だったそうだけど、ずいぶん前に廃部になってしまって、今では倉庫として使われているの。段ボール箱がたくさんあって手狭だけれど、椅子と机と黒板はあるから、哲学するには十分ね。
名執:じゃあさっそく哲学が何なのか教えてください!気になって午後の授業は眠れませんでした!
楠神:授業中は寝てはだめなのだけれど……。まあ今それはどうでもいいわ。ものすごく大雑把に言えば、哲学というのは、基礎的な概念や根本的な原理を論理によって発見したり、分析したり、明確にしたりすることよ。
名執:基礎的な概念や根本的な原理を論理によって発見したり、分析したり、明確にしたりすること……だとっ?!
楠神:何もわかっていないようで安心したわ。まあ実際にやってみた方が早いわね。じゃあ、今日はこの論文を読んでみましょう。ゆきのちゃんなら読めるはずよ?
名執:“Famine, Affluence, and Morality”ですか……。訳すと「飢えと豊かさと道徳」でしょうか?
楠神:さすがね。これはピーター・シンガーという人が1972年に書いたもので、世界中の哲学者にものすごく大きな影響を与えた重要な論文なの。意外性のある主張が明晰な論理によって導き出される様は、読んでいて気持ちがいいわ。だから、数十年経った今でも、大学で哲学を教えている先生が哲学のお手本として学生に紹介することが多いわ。
名執:すごい論文なんですね!
楠神:そうよ。まあ、さすがに今日はこの論文を最初から最後まで読むわけにはいかないから、先生がその議論をかいつまんで説明していくことにするわ。
名執:お願いします!
楠神:まず、この論文を通じてシンガーが一番言いたかったことを確認しておきましょう。一言で言えば、それは、豊かな国で裕福な暮らしをしているわたしたちは、貧しい国で飢えている人々のために寄付しなければならないということよ。
名執:え?それって別に普通じゃないんですか?
楠神:いいえ、全然普通のことではないわ。普通、寄付は慈善、チャリティーと考えられているわよね?つまり、寄付は「もしすれば賞賛に値する行為」ということよ。けれど、シンガーの考えでは、寄付は義務なの。つまり、寄付は「もししなければ非難に値する行為」ということよ。哲学用語では、「もしすれば賞賛に値する行為」は超義務、「もししなければ非難に値する行為」を義務と言うの。だから、シンガーの主張を簡潔に表現し直すと、寄付は超義務ではなく義務であるということになるわね。
名執:じゃあ、わたしは寄付してないんですけど、不正なことをしちゃってるってことですか?
楠神:そういうことになるわね。もしシンガーの主張が正しいならば、ゆきのちゃんは今まさに不正なことをしている最中よ。まあ、先生もなんだけれど。
名執:先生もなんですね……。けど、本当にシンガーの主張は正しいんですか?
楠神:じゃあ、シンガーがどんな議論からこんな主張を導き出すのかを見ていくことにしましょう。
名執:はい!