95 力
「さて、そこにいる皆にはご足労をかけたね。この国の民に代わり、労いの言葉を遅らせてほしい」
「……いえ、勿体ないお言葉です」
彼は一番前にいるソフィアがに対して話しかけるが、ソフィアは一瞬何か考え込んだ後、頭を下げたまま言葉を放つ。
その中で、俺だけは目の前にいる彼から視線が外せず、一人だけ頭を上げた形になってしまっていた。
だが、それを国王は咎める様子もなく、ただ不敵にほほ笑みこちらを見下ろしていた。
「要件はすでにわかっているよ。マリーとベテンブルグ卿がここに来た、ということは同盟の話かな?」
「はい。既にマクトリアが加わっているのですが……その……」
「なに?」
「彼らはすでに、賢者の法の一部に成り果てました」
彼女が悲痛な声を絞り出して、ぺスウェンの国王にマクトリアの状況を説明する。
だが、彼はそれに驚く様子は一切なかった。
「うん。知ってるよ」
「……え?」
「だって、僕だって賢者の法だもの」
「知っているよね、そこのお兄さん?」
その言葉とともに、先ほどまでは一切送られてこなかった視線が、急にぶつかり合った。
急な出来事に俺は反応することはできず、ただ黙り込むしかなかった。
だが、ザールはすでに足元に置いている大剣に手をかけ、臨戦態勢をとっている。
距離が離れているとはいえ、彼の炎ならこの部屋一面を焼き尽くすことも可能だ。
しかし、そんな明らかな敵対行動を見ても、彼は一切表情を崩さなかった。
「僕は賢者の法だけど、彼らが目指す世界がどういうものか、気付かないほど馬鹿じゃない」
「なら、何故賢者の法に入ったのですか!?」
「……ああ、失礼。少し言い方が悪かったね。僕が信仰しているのは、四年前の賢者の法だ」
四年前、というと俺を賢者に立てようとし、イゼルの民を洗脳した、ダリアを教皇とした邪教。
いや、平等という世界を作った後、人間がどのような立場になるか示しているという点では、今よりはマシだ。
「だから、君の記憶に干渉したんだよ、賢者様。君のもう一つの自我を持った記憶、そして君。それが手を取り合ったのなら、君はもう一度賢者としての力を得られる」
彼の言葉に、周りの人間が一斉にこちらに振り向く。
「……ラザレス、どういうことだ?」
「陛下の言うとおりだ。今俺には、俺という自我と、賢者としての俺の自我。両方がそれぞれ意思を持っている」
「だけど、君はまだその力を受け入れられない。そうだろう?」
彼は意地悪な笑みを浮かべ、俺を試すようにじろじろと見つめてくる。
俺はその視線に耐えられず下を向くと、突然彼の声が耳元とで聞こえてきた。
「受け入れちゃいなよ。君の力なら、フォルセや賢者の法を一人でつぶすのも余裕だろう?」
「……ッ」
俺は突然のことに驚いて、後ろにしりもちをついて後ずさる。
だが、彼の言っていることは同時に正しくも思えた。
賢者としての力を得れば、もうこれ以上被害はなくなる。
だが、本当にそれでいいのだろうか?
俺はまた、賢者として生きるしかないのか?
それに、賢者となった俺に居場所などあるのか?
「……すみません、ちょっとだけ考えさせてください」
「……ラザレス」
俺の曖昧な答えでも満足したのか、彼は満面の笑みを浮かべて頷いた。
だが、その時の俺に彼の様子を気にする余裕はなく、ただ今後のことについて頭がいっぱいになっていた。
俺たちはマリアレットと別れた後部屋に案内され、荷物を下ろし、自由時間を与えられた。
部屋割りとしては、俺とソフィア。もう片方に、ザールとメンティラという形になった。
流石にソフィアと同室はまずいと思ったが、ザールはソフィアのことを毛嫌いしているし、メンティラはそもそも女性が苦手だ。
それに、今ソフィアはクリストのため、部屋割りに文句を言うのも不自然ということになったのだろう。
だが、今の俺にそんなことを気にする余裕はなかった。
ベッドに座り込み、先ほどの話を考え始める。
賢者としての力を受け入れるべきか。
それとも、ラザレスとして生きるか。
前者なら、俺はきっとこの戦争を今週中にでも終わらせられるだろう。
だが、そんなことをしたら前の世界の二の舞だ。
なら、後者を選ぶべきなのだろうか。
「……」
俺は一度、自身の腕を見つめた。
片方は違うが、もう片方は確実にラザレスのものだ。
この手を、もう一度血に汚す。
もう、嫌だ。
俺は賢者という力をどうすればいいんだ。
その時、ふと思い出した。
俺は確か、生まれるときに『誰かを救える存在になりたい』と漠然と願ったことがある。
前者も、そういった意味ではそれを遵守しているのだろう。
それに、多くの民も戦争からの救済を願っているはずだ。
なら……。
その時、ベッドに俺のとは違う種類の重みが加わり、施行を妨げられる。
顔を向けると、そこにはウィッグを外したソフィアが座っていた。
「賢者という人は、戦争を一人で終わらせられるほど凄い人なんですか?」
「……うん、可能だと思うよ」
「そうですか。でも、私にはあまり凄そうには感じませんでしたよ」
彼女はそう言って、微笑みながら告げる。
俺のことなのに、どこか俺とは関係のない話のような声色で。
「自分を守ろうと必死で、今にも壊れてしまいそうな脆い人間そのものに感じました」
「……そうだね」
「でも、きっとそれでいいんですよ」
「だって、あなたが何者になったとしても、あなたが選んだ人生が、ラザレスという青年の選んだ人生なんですから」
俺は、その言葉に聞き覚えがあった。
どこか遠くの、優しい人。
今はもう、記憶の中から消してしまった、大事な人の言葉。
……もう、心は決まった。
俺は賢者でもあり、ラザレスでもある。
そう思った瞬間、俺の心の中に青空のようなものが広がった気がした。
わかったんだ。
俺は、何を望んでいたのか。
簡単だった。それも、身近にあるものだった。
俺は、自分を許してあげたかったんだ。
ベッドから立ち上がり、その思いを彼らに伝えることにした。
もしかしたら、ザールは起こるかもしれない。
でも、もう決めたことだ。
彼らの部屋は隣で、俺は一度通路にでて床に敷かれた赤いカーペットを踏みしめ、彼らの戸を叩こうとする。
その時俺は、足元からピチャリという音が聞こえた気がした。
だが、特に気にせず戸を叩くが、誰も反応しない。
……さすがに不審に思い、一度ドアノブをひねる。
すると、元々カギはかかっていなかったようで、そのまま素直に扉が開いた。
だが、中はすでに薄暗いというのに、ランタンに火がともっておらず、何も見えない。
「……ザール? メンティラ?」
彼らの名前を呼ぶ。
だが、返事はない。
中に入ると、メンティラが赤いじゅうたんの上で壁に寄り掛かり、長座の形で座っていた。
どうやら、相当疲れているようで、戸を叩いても反応がなかったのは、寝ていたかららしい。
俺は息をついて彼の体をベッドに横たわらせようとした。
右手はこのままでは使えないため、左手で形を作り硬化する。
そして、彼の体を持ち上げると、異常なほど軽く持ち上がった。
それと同時に、彼の身体から赤い液体が流れ落ちていた。
「……え?」
それが意味していることは分かる。
だが、死を奪われたはずの彼が、何故死んでいる?
呼吸が荒くなり、心拍数も跳ね上がる。
胸が張り裂けそうだ。動悸もする。
胃からせりあがってくる吐しゃ物の匂いが、口の中に充満し、そのまま通過して吐き出してしまう。
その時、俺は彼の姿を確かに見た。
四年前、賢者の法側として俺たちに立ちはだかった、彼の姿を。
「……フィオドーラ=イフ……!?」
三大貴族の一つ、イフ家の御曹司。
フィオドーラ=イフ。
彼の槍の先端には、赤い臓物が突き刺さっていた。




