93 齟齬
夜が明けて、小屋からぺスウェンまで折り返しといったところを過ぎたところまで走っていた。
以前来たようにこの場所はどこを見ても雪しかなく、皆どこか少々暇を持て余している。
だが、この中にそれを呑気と咎めるものもいるはずもなく、つかの間の平穏を各々楽しんでいた。
俺も例外ではなく、固い背表紙を机代わりにして、ベテンブルグにもらった日記帳に、覚えている限りのことを書き連ねる。
元々こういった乗り物は得意であるため、揺れる馬車の上で字を読んだとしても、酔う様子は一切感じない。
ちょっとした、俺の自慢だ。
しかし、問題は右腕がないため、利き手でもない左手で書かなくてはならないということだ。
そのため、少しだけコートで身を隠し、ソフィアの視線からそらさなくてはならない。
だが、それは割とすぐに徒労に終わった。
「あれ? ラザレス、日記付けてたんですか?」
「まあ、ね。昔、ベテンブルグに言いつけられたからね。手帳くらいの大きさだから、ずっと持っていたんだ」
「ほう? 興味深い。ぜひ私に見せてくれ」
ソフィアとの会話の間を切り裂くように、マリアレットが顔をのぞかせる。
そんな彼女に一瞬反応が遅れ、日記を奪われそうになってしまう。
だが、済んでのところでザールが俺の手から手帳を拾い、彼女を一喝してくれた。
「人の日記を見るとは、随分と良い性格をしている。傍から見ていた私が口を挟むほどにはな」
「……悪いな、ザール。ありがと」
「別に構わん。見るに堪えなかったから手を出しただけのことだ」
そう言ってザールは元の位置……御者台に一番近い場所に戻ると、そんな彼を見てマリアレットが呟いた。
「ずいぶんとお堅いね。普通、他人の日記は興味の対象だと思うんだが」
「つまらないことを言うな。貴様が不愉快だから止めただけのことだ」
「……短気なんだね。それだと、下の者は苦労しそうだ」
「挑発のつもりか? なら期待に添えられず申し訳ないが、今回は剣を抜くつもりはない。あくまで、『今回は』だがな」
……俺もマリアレットではないが、少しは彼のことを短気と思わなかったことがないわけでもない。
だが、流石にそれを口にするわけにもいかなかったが、度が過ぎている気もしなくもない。
「ザール、庇ってくれたことは嬉しいけど、もう少し肩の力を抜いても、罰は当たらないと思うぞ」
「悪いが、それはできない。肩の力を抜く抜かない以前に、元々これが私の素だ」
「……そっか」
「それに、以前は……」
彼は何かを言いかけようとしたが、一瞬目を背けた後、またうつむいて何も言わなくなる。
だが、そんなぶつ切りの会話をされてしまったら、気になるのが人間というものだ。
「ザール、言いたいことがあるならはっきりと言ってくれ」
「……いや、なんでもない。よくよく考えてみれば、貴様はもちろん、私にとっても些末な出来事だったということだ」
「些末なことでも、話してくれていいだろ? 友達なんだからさ」
「悪いが、その価値観は迎合できない。友と呼んでくれたのは素直に嬉しいが、思ったことをすべて話さなくてはならないという関係ではないだろう?」
「まあ、そりゃそうだけどさ……」
それきり、車内には静寂が漂い始める。
……なんというか、四年前の時も切羽詰まっていたが、今はそれ以上に皆に余裕がない気がする。
以前はイゼルだけの問題だったが、今は四大国全ての問題だ。
……待てよ。
俺は一つ、たった一つ、気付かなくてはならなかったことにようやっと気付いたのかもしれない。
それも、常識的な人間なら、誰しもが抱くであろう疑問に。
四年前、ほかの国は何をしていた?
「……メンティラ、その、聞きたいことがあるんですが」
「なんだい?」
「四年前、他国はイゼルの異常な事態に対して、どのような対応をしていたのですか?」
「……え?」
一瞬、俺の問いの意味が分からなかった様子だった。
その証拠としては、先ほどから前を向いて馬を走らせていたメンティラが、一度振り返りこちらを見た。
……いや、彼に聞くよりも、もっと適任がいる。
「なあ、マリアレット。四年前、ぺスウェンはイゼルに対し、何か言及しなかったのか?」
「……四年前?」
「ああ。良く思い出してほしい」
「……四年前、四年前か……」
彼女はうつむき、ただ『四年前』というワードを繰り返し呟いている。
その様子は一瞬不気味にも感じたが、俺のほかにもその疑問を抱いている者はいるようで、彼女に対して何かを言う者は現れなかった。
「すまない。答える前に質問させてもらってもいいか?」
「ああ」
「四年前に一体、何が起きた?」
彼女の言葉に、言葉には出さずとも、馬車の中の雰囲気がどよめいた。
流石のメンティラも彼女の発言の異質さを感じたのか、馬を止めて、身を乗り出してこちらを見る。
だが、反対に彼女は驚くかのように、目を見開いていた。
「何を驚いている? 何か、おかしなことでも言ったか?」
「……ああ。だって、アルバは手紙で何が起きてたか知ってたって……」
いや、アルバは賢者の法の一員だ。彼の言葉をうのみにするのは危険すぎる。
それに、マリアレットがこんなくだらない嘘をつくとは、到底思えなかった。
ソフィアもそのことをわかっているのか、少し口調を強めて詰問する。
「ちょっと待ってください! じゃあ、他国から見てイゼルはいつも通りの風景に見えたといいたいのですか!?」
「……ああ、そう言っているが……」
「じゃあ、魔女の国設立も、賢者の法についても、何も知らないと!?」
「そうなるね。少なくとも魔女の国なんてものは聞いたことがない」
……これでわかった。
何故、マクトリアが賢者の法の意思に疑問を持たないのか。
何故、フォルセという国が彼らの味方をしているのか。
異常性を、知らないからだ。
誰もが今まで感じていた違和感に頭をもたげ、黙り込み思案に暮れていると、ザールが馬車の中に聞こえるくらいの清涼でつぶやいた。
「……呪術の類か」
「……ああ。魔法には、こんな力はない」
「……人の記憶を捻じ曲げる、呪術ですか」
人の記憶に干渉する呪術というのに、聞いたことがないわけじゃない。
だが、あれは夢の中の出来事であり、信憑性は低すぎる。
それに、何より彼は俺に対して何もしていない。ひどい夢を見せられただけだ。
……もし、決まって悪夢を見るときに、彼が表れるとしたら?
「急ごう。その呪術がぺスウェン国王にかけられている可能性がないわけじゃない」
「……でも、かけられていたとしたら」
「……それでも、賢者の法に賛同するわけじゃないだろう?」
……彼は絞り出すような声で、一縷の望みに託す。
だが、人の記憶をいじれるということは、賢者の法のイメージも変えられることが可能ということだ。
それに、まだダリアが彼らの信仰心を増幅させないと決まったわけじゃない。
先ほどの殺伐とした雰囲気とは一転して、今度は焦燥を感じさせる何かが、この馬車の中に転がり込んできたのを感じた。




