90 邂逅
あの日、俺がソフィアに会うことはなかった。
……いや、今思うと、俺が無意識に彼女を避けていたのかもしれない。
少なくとも、自身の腕のことは話したくない。
そのために、俺はマリアレットから手袋をもらい、右腕は完全に隠してある。
だが、その心配は杞憂に終わりそうだ。
「さあ、行こうか諸君! ぺスウェンが我々を待っている!」
そう言って、俺の前にいる短い金髪の青年は、胸を張ってぺスウェンの方向をさしている。
ザールやマリアレットもそれに異論はないようで、黙って付き従っているが、俺の中で一つの疑問が生まれていた。
いや、誰だよお前。
「……すいません、どちら様ですか?」
「む? 私はベテンブルグの助手であり、親善大使としての命を預かった『クリスト』というものだ。仲良くしていただけるとありがたい」
……彼女に助手がいるなど、聞いたことがない。
一応メアがそうではあるが、彼女はこういった仕事の補佐とは少し違った役割だ。
だが、ザールが微塵も警戒を示していないということは、危険人物ではないということだろうか?
俺はその真意を確かめるべく、そっとザールに耳打ちする。
「……なあ、ザール。あいつは」
「……なんだ、気付いていないのか。あいつはソ……」
彼が何か言いかけようとすると、急にそのクリストという青年がザールの口をふさぐ。
「ちょっと、何言おうとしてるんで……だい? それは秘密だといったばかりじゃないか!」
「……何故、貴様の狂言に私が付き合わなくてはならない? 貴様のことは信用には値するが、貴様自身のことは好いてはいない」
「ザール……!」
クリストはザールの雰囲気で押し黙らされてしまい、これ以上は何も言えなくなってしまう。
そんな彼らを見て、マリアレットはなぜか腹を抱えて笑っていた。
「……面白いか、これ」
「ああ、面白いとも。いやはや、実に人間の心というものは面白い!」
そう言って、愉快そうに馬車に乗り込んでいくマリアレット。
そんな彼女の後に続いて、クリスト、ザールと馬車に乗り込んでいく。
彼らの後に続いて、俺もはっきりとしない気持ちを抱いたまま、馬車に乗り込んだ。
御者の人は、寡黙な人で、一言二言クリストと会話すると、黙々とぺスウェンに向けて馬車を走らせる。
内装としてもどこかみすぼらしく、歩くたびにギシギシと音が鳴り、所々が朽ちている印象だ。
光をいれる窓もないため、薄暗く不気味にも感じる。
外装としても、木箱を無理やり馬車に改造したようなもので、華やかとはお世辞でも言い難い。
……これが、親善大使を乗せる馬車だというのか? という疑問も抱いたが、マクトリアの財政難を非難することになるかもしれないので、黙っていることにした。
「さて、ラザレス。君に聞きたいことがある」
「……あれ? 自己紹介しましたっけ?」
「……あー、いや、ベテンブルグ卿からすでに聞いていてね」
その言葉に、ザールが深いため息をつく。
クリストはそんな彼を一瞥した後、また俺の眼を見つめる。
……この目、どこかで見たことがあるような、そんな気がした。
「君は、現ベテンブルグ卿についてどう思う?」
「どうって? 現ってついてるってことは、先代と比べてってことですか?」
俺の意見に相違ないようで、彼は賛同するように頷いた。
……先代と比べて、か。
「両方、凄い人だと思います。ソフィアも十分凄いけど、先代もそれと同等に凄い人です。彼がいなかったら、俺はもしかしたら本の読み書きすらできませんでしたから」
「……そうですね」
「……でも、ソフィアは少し心配なところがあるんです。無理していないようでいて、実はすごく頑張ってる。良ければ、彼女を支えてやってほしいんです。本当は俺が見ていたいんですけどね」
俺の言葉に、何故かクリストは黙ってしまう。
上司が褒められるということは、そんなに気恥しいものなのだろうか?
それに、先ほどクリストは敢えて触れなかったが、何故か俺に敬語だった。
それこそ、ソフィアのような。
「……もしかして」
「ん? なんだい? 何か忘れ物?」
「……ごめんなさい、気のせいです。気にしないでください」
もしかしたら、彼女の口調が移ってしまっただけなのかもしれない。
それに、自身の上司と間違えられるのは、彼にとっても複雑だろう。
俺は息をついて壁に寄り掛かると、突然マリアレットが悪戯のような笑みを口に浮かべ、言葉を放った。
「それで、クリスト君だったかな? ラザレスに対する質問はそれで終わりかな?」
「……え?」
「今なら何だって聞き放題なんだよ? それだけじゃあ、あまりに味気ないじゃないか」
……彼女が何を言っているのか、いまいちわからなかった。
助けを求めるようにザールを見ても、彼はそっぽを向いてしまう。
「……じゃ、じゃあ、最後に一つだけ」
「……え?」
おずおずと指を一本立てて、耳まで赤くして消え入りそうな声で俺に話しかける彼に、一瞬かわいいと思ってしまった。
だが、俺に男色の趣味はない。多分、ないはずだ。
そのため、一瞬目の錯覚だと思ったのだ。
「ベテンブルグ卿のこと、す、す―――」
彼が何かを言おうとした瞬間、馬車が突然止まり、物音が消えた。
その瞬間、ザールは壁である馬車を焼き尽くすと、周りを覆っていた壁がなくなった。
「ザール!? 何をやってるんだ!?」
「……罠か。ラザレス、戦えそうか?」
「……ああ。硬化させれば、むしろ元より便利だ」
ザールは自身の大剣を構え、周りを囲んでいる雪をかぶさった木々に警戒を向ける。
俺はそんな彼の背中を警戒するために、義手を硬化させる。
もう、俺に短剣は使えない。左手では、振ることさえも敵わないのだ。
「……ラザレス、それはどういう意味なんだ?」
「……すいません、いつか教えます」
その言葉と同時に、俺はとびかかってくる魔族を空中で殴りつける。
それをまともに食らったそいつは、形容しがたい端末間を上げて、頭から血を吹き出し木まで吹き飛ばされる。
俺はそんな彼から目をそらし、他の方向を警戒すると、マリアレットが俺の近くによって顔を向けずに耳打ちしてくる。
「……ラザレス、こいつらは何だ? 私たちの国に、こんな生き物はいなかったはずだが」
「魔族。人間に魔力というものを注入すると、あんな姿に変容してしまうんだ。少なくとも俺たちは、これを何度も見てきた」
「……なるほど、それだけわかればいい。そうすれば、陛下に聞くこともできるからね」
彼女はそれだけ言うと、俺の体の陰に隠れる。
その時、俺の視界にクリストが映ったが、彼もなかなか剣の使い方は慣れているらしく、魔族に動揺して戦えないという心配も杞憂に終わった。
だが、寒さが俺たちの体を蝕んでいるのも事実で、段々と体力がなくなってきてしまう。
ザールの炎の温度で体温を温めるようにして戦ってはいるが、限界はある。
その時、木々の間に止まっていた鳥が一斉に飛び立ち、急に周りに静寂が訪れ、彼らの気配が消えた。
そんな異常な状況に流石に違和感を感じたのか、ザールが口を開いた。
「……なんだ、一体……」
ザールの言葉と同時に、周りの木々にもう一度警戒を向けると足音が聞こえ、体が緊張していくのが分かる。
だが、その緊張は森から現れてくる人物の顔を見ると、一気にほぐれた。
「……メンティラ、さん?」
「……久しぶりだね、ザール。それと、みんな」
そこに立っているメンティラが、少し疲れたかのようにこちらに笑いかけた。
彼の数年前と変わらない優しい声に、俺はその瞬間、心から安心してしまったことを覚えている。




