89 慟哭
空は、奇麗な『白』だった。
俺は、あまり白という色は好きじゃない。
白は、簡単に何色にも染まって、簡単に汚されて、そして、そのものには、何もない。
まるで、その白は何もないことを強調するかのような、まっさらな白だった。
「よお、久しぶり」
俺は空の白に見とれていると、何者かが話しかけてくる。
黒髪の、やせ細った不健康そうな青年。
そんな彼の顔には、どこか小馬鹿にするかのような笑みが浮かんでいた。
俺は彼の顔を一瞥すると、白い地面に左手をついて起き上がる。
視線が高くなったことでわかったが、この世界には何もなかった。
ただ、白という色以外には。
「そりゃそうだろ。この世界は、お前なんだから」
この世界が、俺?
この人は、何を言っているのだろう。
それとも、寝起きで俺の理解力がないだけか。
「……ああ、いや。これはラザレスであるお前に言ったんじゃない」
「賢者。つまり、俺とお前に言ったんだ」
……賢者。
かつて、俺はそう呼ばれていた。
だけど、彼はいったい何者だ。
どうして俺の目の前にいるんだ? それに、何故俺をその名で呼ぶ?
「お前はラザレスなんかじゃない。正真正銘、俺と同類の賢者だ」
彼は先ほどの態度からは一変したように吐き捨てる。
何を言っているんだ? ラザレスも賢者も、俺のはずだ。
「……その見識は間違ってはいない。でも、お前の意識そのものは賢者、お前のものだ」
理解ができない。
そうなると、俺のほかにラザレスの意識があるということになる。
俺はラザレスで、ラザレスは俺じゃないのか?
「それに関しては違う。お前もラザレスも、まったく別の代物だ」
「つまりだな、お前はラザレスという意識を取り込んで、ラザレスごっこをしているに過ぎないってことだ」
彼はそれだけ言うと、俺の近くに座り込む。
俺が、ラザレスごっこをしている?
言葉の意味が分からない。俺という意識の中に、ラザレスが入り込んでいるというのか?
「ラザレスという理想郷は、お前に夢を与えた」
「人間として恋をする。人間として友達を作る。人間として苦労し、人間として喜ぶ。それらすべては、魔女であった俺たちには出来ないことなんだ」
……ああ、よく知っている。
俺たちには感情の自由はなかった。
孤児院にいる間も、賢者として生きている間も。
何故だか、ここにいるとそのことを鮮明に思い出せる。
「でも、忘れるな。お前は賢者だ。お前は人間なんかじゃない」
なら、お前はなんなんだ。
何故俺に詳しい。何故、お前は俺を名乗る。
「アルバに奪われていたお前の記憶を取り戻してくれたのはお前だろ? だけど、お前の呪術のせいか、俺とお前の記憶は二つに分断され、それぞれ自我を持ったんだ」
……なら、俺の中に、お前がいたということか?
「そうだ。だから、俺の手を取れよ」
そう言って、彼は左手を突き出してくる。
よく見ると、彼も右腕の肘から先がなかった。だが、出血はしていない。
「もう一度、賢者としての力をくれてやる」
彼の危険な魅力を放った言葉につられ、俺も左腕を伸ばそうとしてしまう。
その瞬間、俺の丁度真上から、白い光が流れ込んできた。
「……チッ、時間か」
時間? 何を言っているんだ?
この世界は、俺の精神世界のはずだ。なら、何故時間制限がある?
「それはね、賢者さん。この世界は、僕が作り出した世界だから」
突然入ってきた新しい声の方向を見ると、いつか悪夢で見た少年がたっていた。
彼は少し寂しそうに微笑み、手を振っている。
「さようなら、賢者さん。また会おうね」
その言葉とともに、俺の意識は途絶えてしまった。
「……う」
俺は彼らに対して何か言おうと口に出すと、その声で自身の目が覚める。
俺は起き上がろうと体を動かすと、間違えて右腕でついてしまう。
しかし、それでも体は起き上がれたため、布団をめくり確認すると、木製の義手のようなものが腕に装着されていた。
周りを見ると、木製のベッドに、白い壁。そして、近くの椅子にはマリアレットが机に頬杖をついていた。
「それは君の義手だ。急ピッチで作ったのだから強度は大したことはないが、それでも見た目にはこだわったのだよ?」
「……マリアレット」
「だが、不思議だ。君がここに運ばれてきたときには、もうその傷はふさがっていた。まるで、元々ついていなかったかのように、ね」
「何があった、ラザレス=マーキュアス」
彼女の言う通り、俺の右腕には痛みは一切なかった。
だが、俺はこの痛みがない理由には心当たりは一切ないが、それでも何故痛みがないのかは瞬時に分かった。
魔法だ。それも、比較的難易度が高い治癒魔法だ。
「……フォルセ先代国王に、切断されました」
「それはいい。既にザール君から聞いている。私が聞いているのは、何故傷がふさがっているか、についてだ」
「……ごめんなさい、わかりません」
「……ふむ、気絶していた君に聞いたところで、わかるわけがないか」
彼女は言葉では予想していたかのようにふるまうが、見るからに気を落としている。
そんな彼女に同声をかければいいか悩んでいると、急に部屋のドアが開いた。
「ラザレスさん! 申し訳ありませんでした!」
大声とともに駆け込んできたのは、涙で目を真っ赤にしているレンだった。
彼は俺の寝ているベッドによると同時に、額を地につけて頭を下げる。
「不肖レン、あなたが命じるのなら、命を落とす覚悟もあります!」
「いや、いいんだ。君が生きててくれてよかったよ」
「お願いします! どうか罰をお与えください!」
その言葉とともに深々と頭を下げ、そのまま上がらなくなる。
そのことから、彼は俺が罰を与えないと、一生動かないであろうことも容易に想像できた。
「じゃあ、一つだけお願いがあるんだ」
「なんでしょうか?」
「……この腕のこと、ソフィアには内緒にしてほしい」
俺の言葉に彼は眼を見開いたかと思えば、そのまま閉じて、口だけ開く。
「……わかりました。それが、ラザレスさんのお願いというのなら」
「……頼むよ。彼女に、これ以上余計な心配をかけたくない」
「解せないな」
俺たちの会話に突然割り込んできたのは、先ほどから俺たちの会話を傍聴していたマリアレットだった。
彼女は俺の首元の襟をつかむと、そのままグイと自身の顔を近づけた。
その時の彼女の眼差しは好奇に満ちていて、もはや好奇を超えた狂気の光すら放っていた。
「何故、君は彼女から隠そうとする? 普通、好きな女性には心配してもらいたい、構ってもらいたいというのが一般的な心理のはずだ」
「……そうかもな。でも、俺はそうじゃない。彼女の重荷にはなりたくないんだ」
「なるほど、好きな人だからこそ、心配をかけたくない、か……」
彼女は整った顎の先を指先で触り、何かを考えるそぶりをする。
そして、その考えがまとまったのか、今度は一転して意地の悪い笑みを浮かべた。
「やはり君は面白い。自身の怪我よりも他者の心情を優先するとは」
「……そりゃ、どうも」
「だが、危険な予兆でもある」
「いつか君は、誰かを見捨てる選択をするだろう。だが、問題はそれじゃなく、君がその事実をどう受け入れるか、そこが心配だ」
……口調こそはおどけているようだが、声や表情は至って真剣だ。
それに、彼女の言うことは理解できなくもない。
でも……。
「なら、見捨てません。自分が守りたいと思ったものは、必ず守ります」
「……なるほど、面白い考え方だ。自身の力量を顧みず、それでいて無鉄砲なその言葉、実にそそる」
「そうですか」
「やはり君を部下にしたのは正解だったかもしれないな。今後、君の心がどう揺れ動くか楽しみだ」
彼女はそれだけ言うと、顔を離して部屋から出て行ってしまう。
俺はそんな彼女の後姿を見送った後、自身の義手をしばらく見つめていた。