30 霧
俺は剣を抜いて怪我していないほうの腕で構えながら、馬車からゆっくりと降りる。
「……メンティラさん、戦えますか?」
「……ごめん、戦えないんだ」
「わかりました。それじゃあ、中にいてソフィアとマニカを見てあげてください」
俺はアリスに目線を配ると、頷いた後馬車から飛び降りる。
それと同時に、もう一人馬車から飛び降りる人影があった。
「……ラザレスは中にいてください」
「え? でも、それじゃあソフィアが……」
「平気だよ、僕が守るからね。それに、怪我人よりソフィアちゃんのほうが頼りになるよ」
アリスが真面目な顔で俺に告げた後、馬車を囲うように背中を向ける。
……確かに、今の俺は利き腕を怪我していてお世辞にも戦力になるとは言えない。
「……わかりました。頼みますね」
俺は彼女らに背を向け、馬車に乗り込む。
そこには、馬車の片隅でおびえているマニカの姿があった。
「どういうこと!? 砂漠でこんなに深い霧って、ありえないでしょ!」
「ああ、あり得ない。砂漠に霧が起こることはたまにあるが、ここまで深い霧は見たことない」
実際、この霧はダリアの靄とは比較にならないい濃く、腕を伸ばした先ですらすでにもやがかかっている。
だが、もっと恐ろしいのはこの霧に対し、町の住民から一切興味を示す声が聞こえないことだ。
もしこの霧がよくあることだとしても、観光客だっているはずなのに、無反応は明らかに不自然だ。
「メンティラさん、ゆっくり行きましょう。これが魔女の仕業じゃないとは言い切れません」
「……わかった。それじゃあ、二人とも。ゆ、ゆっくり行くから、ついてきてね」
そういうと、メンティラはゆっくりと馬を歩かせ始める。
周りから聞こえる音はこの馬の足音だけで、昨日あれだけ騒がしかった市場が物音一つ聞こえないことだ。
だが、そんな時霧の中から男の声が聞こえてきた。
「やあ。すごい霧だね」
「は、はい。そうですね」
「ほんと、困っちゃうよ。これじゃあまったく先が見えないしね」
メンティラはどこからか聞こえる男の声に、笑って対応する。
おかしい、男の声は近くから聞こえるのに、姿が見えない。
「……君は、誰だい?」
メンティラが問う。
しかし、笑い声しか聞こえてはこない。
おかしいのは姿が見えないことだけじゃない。
様子が明らかにおかしかった。
「アリスさん、ソフィア!」
「はい!」
アリス達に呼びかけると、メンティラを囲うように各々武器を構える。
そして、しばらくすると声の持ち主らしき若い男が現れてきた。
「……止まってください」
止まらない。
その様子に一度息をつくと、アリスはこちらにアイサインを送り、それに頷く。
その刹那、アリスが男の背後に素早く回り、喉元にナイフを突きつけた。
だが、男はそれを意にも介さず、こちらに歩き続ける。
そして、男が右腕を振り上げたかと思うと、何かをソフィアに振り下ろした。
「死ね」。たったその二文字に、あふれるほどの殺意を込めて。
だが、ソフィアはそれを間一髪といったときに、アリスのナイフが男の喉元に食い込む。
それと同時に、男は地面に力なく倒れた。
だが、すぐに立ち上がりこちらに向かってくる。
それと同時に、怪我した個所から皮膚が剥がれ落ち、その下からは緑色のような皮膚が露出していた。
「えっ……?」
俺はそのあまりにもグロテスクな男の姿を、とっさに馬車から飛び降り、ソフィアの目をふさぐ。
だが、それは遅すぎたようで、すぐに目をそらし吐瀉物をまき散らしてしまう。
男は鬱陶しそうに残りの肌を自分の手でそぎ落とし、完全に緑色の皮膚を露出させる。
その姿は、まるで……俺が滅ぼした種族である、魔族にそっくりだった。
「皆、逃げるぞ!」
俺は外にいる二人を無理やり馬車に押し込めた後、メンティラがこちらの意図を察し大急ぎで馬を走らせる。
「どうしたんだい、ラザレス! あれって……!?」
「……アリスさん、落ち着いて聞いてください。あれは、俺の世界で魔族と呼ばれていました。魔族は、例えどんなに武勇に秀でてようと、一対一で勝てる相手じゃありません」
俺はショックのあまり泣き出してしまうソフィアの背中をさすりながら、質問を続けるアリスに答える。
「魔族って何なんだい!? あんなふうに、人間の皮をかぶってだまし討ちをするの!?」
「……それは、俺も初めて見ました。少なくとも、俺の世界ではこういった事例は初めてです」
……そういえば、俺の世界のことを知っている人が今はもう一人いる。
俺は馬車の隅で震えているマニカに、今度は俺が質問を投げかけた。
「教えてくれ、魔族はあんな風に人間の皮をかぶるのか?」
「知らない……! あんな化け物、見たことない!」
……見たことがない?
俺は確かに魔族を滅ぼした。だが、彼らは現にここにいる。
もしこの世界に魔族がいたとしても、メンティラやアリスが知らないのは明らかに異常だ。
しばらくすると、霧がだんだんと晴れてきて、街の様子が明らかになる。
街の人々は、昨日と同じように生活しているが、所々緑色の肌が露出している人や、完全に魔族になってしまっている人。
そして、ちらほら魔族が複数人集まっている場所から、悲鳴のような声が耳をつんざいてくる。
「メンティラさん、関所は強行突破してください!」
「わかった!」
メンティラは俺の言葉にうなずいた後、鞭で馬を叩くと同時に、素早く走り出す。
そして、昨日は塞がれていた関所が、馬力によって打ち破られ、そのまま向こう側の砂漠まで走り続けた。
だが。突然馬車が大きく揺れ、馬が大きくいなないた。
それと同時に、メンティラが小さくつぶやいた。
「……な、なぜ、あなたがここに……?」
俺は馬車から顔を出すと、目の前には三人の男が立っていた。
前の二人はフードをかぶり、表情が読み取れないが、奥の男は良く知っている人だった。
「やあ、久しぶりだね。ラザレス君、ソフィア君」
「……何故、あなたがそこに立っているんですか!」
「ベテンブルグ!」
そこに立っている人物……つまり、ベテンブルグは、俺の言葉にニヤニヤとするだけだった。