58 新月
「ああ、そうかよ。やっぱお前、敵だったんだな」
足早に勇者の元へと歩いていくグレアム。
その姿は無防備そのもので、勝算などまるでないように見える。
それもそのはずだ。今、彼の脳内には怒りしかないのだから。
目の前に、友人であったモノへの。
「あああああぁぁぁぁぁっ!」
グレアムの咆哮がすでに薄暗くなった森の中にこだまする。
見ると、そこには勇者の襟首を掴んで睨みつける彼の姿があった。
「お前、なんなんだよ。そんなにこの世界が嫌いなのか? なあ、答えろよラザレス=マーキュアス」
「さてね」
「さてね、じゃねえんだよ。もう私の頭の中の理性は限界なんだよ、早く答えろよ私がお前を殺す前にさあ!」
詰め寄るように言うと、彼は少し驚いた後に息を漏らす。
それは、何かを言うというよりも、純粋な笑いだった。
「……ふっ、ははは。あっはははははは!」
「何がおかしい。言っておくけどな、私はお前が好きだから裏切られたことにキレてるわけじゃねえぞ。お前を信じている優しい人たちが好きだからそれを裏切ったお前にキレてるんだ」
彼を思って涙をこらえていた少女。友達として信用していた彼女。
それらすべてを裏切ったこと、そのことが彼にとっては我慢ならないことだった。
そして、少しの静寂の後に、襟首を掴まれながら彼は言った。
「……くだらない。そんなものが、これから滅びゆく世界で何の役に立つと?」
「お前、言葉を選べよ」
「うるせえな、今は私が話している。それにな、お前が好きな奴らだか何だか知らねえけど、そいつらもな……」
「みぃんな、私が殺してやるよ」
その言葉を聴いた途端、彼の襟首を掴んでいた手首が腕から切り離された。
突然力を込めていた部分が消え、バランスを崩すグレアムを横目に襟を直しながら彼は言う。
「魔女だから血が出るわけねえよな。そんな血の通っていない化け物のお前が、何一丁前に人間のふりをして怒ってるんだ?」
「ラザレス、貴様を……!」
「っ、グレアム!」
グレアムは言葉の途中で気を失ったのか、倒れこんでしまう。
レオナルがそんな彼を庇うように動こうとするが、それを防ぐかのようにほかの三人が立ちはだかる。
そして、その中心にいるベテンブルグは柔らかい口調を崩さず、レオナルに話しかけた。
「悪いけど、彼らには近付けさせない……と言いたいが、そろそろ時間だ。フィオドーラ、後は任せる」
「わかりました。この二人はここで殺してしまっても?」
「無論、構わない。行こう、シルヴィア」
「ええ。それじゃあ、ご機嫌よう」
そう言って彼らは踵を返し、背中を見せびらかすかのように森の奥へと消えていく。
そのこちらを意にも介していないかのような態度に腹が立ち、レオナルの手が剣に伸びた。
「待てよ、逃がすわけが……」
その時、彼の首が飛んだ。
いや、違う。飛んだようなイメージが、脳裏に走った。
現に、彼の首は今も繋がっていて、その首筋に嫌な汗が伝う。
しかし、それだけでレオナルに彼らへの恐怖心を植え付けるには十分だった。
「十分でしょう」
「は……?」
「あなた方は我々には勝てない。……もし今ここで起きたことをすべて忘れ、滅びの定めを受け入れるのなら。私はここにあなたがいたことを忘れましょう」
「なにを、言って……」
「見逃すと言っているのです。どうせあなた方は死ぬのです。それが早いか遅いかの違いしかありません」
フィオドーラと呼ばれた青年はそれだけ言うと、立ちすくんでいるレオナルに近付いていく。
その時、彼は近付いてくるレオナルに一つの問いを投げかけた。
「……どうして、世界を滅ぼすんだ?」
「またその問いですか。……この世界が腐ってるからですよ、それも根本的に。だから、この世界の神を殺してこの世界ごと崩壊させるのです」
「神、だって?」
「ええ。この世界……いや、この次元に存在する数多の世界に、創造を手掛けた神が存在しています。その神が消えれば、世界を待つのは緩やかな崩壊のみ。草木は枯れ、人は死に絶え、未来などという色づいたものは消え去ります」
「何を、バカなことを……」
「馬鹿な事かどうか、もう少しでわかりますよ」
「そうですね。馬鹿な事だった、という事実が」
突然会話に割り込んできた、女性の声。
レオナルは、微かだがその声に聞き覚えがあった。
マクトリアで聞いた、厳かでいて優しい声。
草木をかき分け、その声の持ち主が現れる。
その持ち主は、マクトリア国王であるシアンだった。
「……あなたが何故ここに?」
「決まっています。兄さんが眠っている間に、彼らを死なせるわけにはいかない」
「そうではありません。我々についたはずのあなたが、何故そちらに立っているのですか?」
フィオドーラの言葉を聞いて、レオナルははじかれたかのようにシアンを見る。
それを否定するでもなく少し笑った後、彼女は答えた。
「狼。彼からそうするようにお願いがあったのです。『鴉に協力する振りをして、ラザレスを保護しろ』、と」
「つまり、最初から裏切っていたと?」
「そうなりますね。……レオナルさん、でしたか?」
彼女はフィオドーラに顔を向けたまま、持っていた小瓶を彼に手渡し、こう話した。
「ラザレスの傷はもう癒えきっています。この子瓶の中の液体を飲ませれば、目を覚ますはずです」
「……わかりました。代わりに、グレアムをお願いします」
「ええ、お願いしますね。私は知っての通り、目が見えないので早くは走れないのです。代わりに、お友達のことはお任せください」
彼はその言葉に頷いた後、城へと向かって走っていく。
その足音が消えた後、シアンは目を開き、フィオドーラに尋ねた。
「フィオドーラさん、と言いましたか? 今宵、月は空に浮かんでいますか?」
「何を言っているんですか? 月など浮かんではいません」
「……おや、それは残念ですね。では、夜も更け、辺り一面がまるで空の月夜のように暗く染まっていることでしょう」
「まさか、お喋りに来たのですか?」
「忠告ですよ。視界という唯一私に勝っている部分を失くした今、あなたが私に勝つことなどありえない」
「……っ! ほざくなっ!」
槍を構え、そのまま彼女を突き刺す。
しかし、槍の先端は彼女に届くどころか、構えた所から動かずにいた。それは、シアンも同様に。
だが、彼の意識には攻撃した、という事実が色濃く残っている。
「不思議ですか?」
「……何をした」
「簡単ですよ。私の呪術は情報の抹消。つまり、あなたが攻撃した、という事実をこの世から消し去ったのです。私の視力を対価にして」
「ふざけるなっ! 貴様は既に盲目のはず……!」
「ええ。なので、今も対価を支払っていますよ。既に消え去った視力を、ね」
口元に手を当てて笑うシアン。
それを聞いていた勇者が、一笑する。
「なるほど。確かに私は支払う対価が無くなった際のことは考えていなかった。流石ですね、シアン……といいましたか?」
「お褒めに預かり光栄です。それも、態々呪術を作った本人からいただけるとは」
「事実なので。……ですが、惜しいですね。今宵、あなたは生きる意味を失う」
「……負け惜しみですか?」
「ふふ。耳を澄ませてください」
言われた通り耳を澄ますと、どこからか地響きと鉄の音がする。
それも、少数ではない。このあたり一帯を包み込むかのような大きな地響きが、彼女の耳に伝わってきた。
「……っ!」
「さて、これで本当に追い詰められたのはどちらか、ご理解いただけましたか?」
微笑みながらそう言うと、彼の刃がシアンの首に当たる。
フィオドーラも勇者の言葉に勝ちを確信したのか、武器を下ろす。
その瞬間、彼女の笑いが漏れた。
「ふふ」
「……哀れな。恐怖でおかしくなってしまいましたか?」
「哀れ、ですか? 面白いことを言うのですね」
シアンはそう言いながら、首に当てられている刃を握り締め、既に視力を失った目を開き、勇者に近付いていく。
そして、息と息が触れ合うほどに顔が近くなった時、彼女は言った。
「あまり私たちを舐めるなよ、青二才どもが」
その言葉に弾かれたかのように、彼女の手に握りしめられていた刃が砕ける。
その瞬間、先ほどまで槍を納めていたフィオドーラの周辺で、鉄と鉄がぶつかり合うような音が響いた。
その方向には、槍の柄で刃を受け止めているフィオドーラと、身の丈ほどある大剣を振り下ろす、ガゼルの姿があった。
「……なっ、いつの間にっ!」
「待たせたな、マクトリア女王陛下。少々雑魚の相手に手間取った」
「構いません。……さて皆さん、今この場には敵方の参謀が二名います。つまり、大チャンスですよ?」
「その言葉はそちら側にも言えますよ、シアン。それに……そんな大見え切ったんだ、精々楽しませて見せろよ?」
城の中は騒がしかった。
突然現れた敵に対し、寝ていたはずの兵まで駆り出されていく。
その足跡が響く部屋の中で、ルークは紅茶を見つめていた。
「……おや、随分と早く来たね。来るとしても、もう少し先……そう、この紅茶を飲み干すまではこないと踏んでいたんだけど」
「陛下の先見の明も枯れましたかね?」
「酷いことを言ってくれるね。この僕からそれがなくなったら、ただの不気味なガキだ」
自分で言って、おかしそうに笑うルーク。
それを聞いて相槌を打つようにアンセルが笑った後、ルークが紅茶を置き、席を立つ。
「さて、指揮棒を振りに……と行きたいが、今僕が動かせる兵は君しかいない。さて、君には少しばかり頑張ってもらおう」
「人使いが荒くなりましたね、陛下」
「騎士団長として身も心も僕にゆだねると言ったのはどこのだれだろうね?」
「それは言いっこなしですよ」
冗談で笑いあう二人。
そして、しばらくして笑い声が消えた後、アンセルが言った。
「さて、勝ってきますよ。陛下」
「当然だろう。それ以外の報告は聞くつもりはないよ」
それだけ聞くと、アンセルは部屋を後にする。
そして、先程から物陰に隠れ、話を聞いていた少女に声をかけた。
「さて、君はどうする? といっても、この城に隠れやり過ごす、というのも賢い手だとは思うがね」
「……気付いてたんですね」
「気付いてないよ。正確には、アンセルが君に気付いて僕に教えてくれた」
彼は紅茶から顔を背けず、カップを揺らして水面を波立たせながら話し続ける。
冷静な彼に対し、少女の声はどこか不安そうだった。
「あの、その……」
「敬語に慣れていないのなら無理に使う必要はないよ。僕はもう国王じゃないからね」
「……質問があるんだ。もし、自分が死ぬとわかっている戦争があるとしたら、アンタはどうする?」
「逃げる。だってそうだろう? 国王が死んだら、もうその国は終わりだ」
その返答に言葉を詰まらす様子に笑った後、彼は続けていった。
「冗談だよ。国王としての意見を聞きたいわけじゃないってことくらいわかるさ」
「……」
「戦う者としてという問いに対してだが……それでも逃げる。命を張って戦うのは、それこそ神話の英雄だけで十分さ」
「じゃあ、アンタのとこのアンセルってやつが逃げたら?」
「許さないね」
「……言ってること、滅茶苦茶じゃねえかよ」
「客観的な意見と主観的な意見は別さ。それに、僕はアンセルに戦えと命じただけで、死ねとは言ってない」
「そんなの……!」
「詭弁だね。だけど戦争なんてそんなものだ」
彼はそう言い切ると、紅茶を嚥下する。
そして、空になったティーカップを置き、窓を通して空を見上げる。
「祖国のために死ぬ。僕のために死ぬ。そんな兵士がいたら、僕はきっと幸せ者だろう。そんな彼らには国王として、一人の人間として敬意を表そう」
「……」
「だけどね、そんな奴らばかりじゃない。大切な人のために死ねない。死ぬのが怖くなった。だから逃げる。それはそれで、僕は人間として正しい判断をしたと思う」
「……逃げることは間違っていないと?」
「兵士としては三流以下のクズだし、国王としては許せないけどね。つまり、質問の答えとしては『その時の気分』、だ。どちらにせよ、僕にはそれを否定する言葉が思いつかない」
彼は窓に背を向けて、部屋の扉へと歩いていく。
そんな彼の姿に、彼女は声をかけた。
「どこへ行くんだ?」
「国民たちが避難しているであろう食堂さ。この城の食堂はとにかく広い。恐らく避難している人たちが案内されるのはそこだろう。そこで、話し相手にでもなってくる。他に出来ることはないだろうからね」
「わかった。……その、ありがとう」
「ああ。……それはそうと、足音の中にラザレスが眠っている部屋へと向かっている足音があった。君はそっちに向かうと言い」
「まさか、敵……!」
「敵を見逃すほどここの兵士は無能じゃないから安心したまえ」
「それじゃあ、機会があったらまた話すとしよう。お互い、友として」
それだけ言い残し、彼は部屋を去っていく。
そして、後を追うかのように声の持ち主であるリンネは、ラザレスの元へと駆けだした。