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54 勝機

 アンセルの剣を握る手に、汗が滴り、肩が上下する。

 一瞬。ルークが去ってから、ほんの一瞬の間だった。

 だが、アンセルの体力はまるで数時間の間強敵と相対しているかのように失われていた。


 対象に、目の前に立っているベテンブルグは、どこか余裕がある表情だ。

 ベテンブルグが鞘に手をかけ、アンセルに微笑む。


「随分楽しませてもらったが、どうやらここまでのようだ」

「……それより、一つ聞きたいことがあるんだが」

「この状況で問いとは。いいだろう、冥土の土産に聞くといい」

「あんたは、何でさっきからラザレスに攻撃しないんだ? 俺があんたなら、もうとっくに殺している」

「……聞きたいことが一つだけあるからさ。それを聞く前には殺せない」

「それは、鴉の総意か?」

「いいや。これは、私の我儘さ」

「そうか。それじゃあ、な……ッ!」


 彼がそう言うと、剣を握っていない方から小さな針のようなものが投げられる。

 ベテンブルグがそれを弾いたとき、アンセルは先ほどの彼のように笑った。


「さっきから見えなかったんだ、その刀身。アンタの斬撃は鋭すぎてな。……だけど、今初めて見えた」

「それが?」

「アンタは殺せねえ相手じゃねえってことさ」


 その言葉が吐かれると、ベテンブルグの顔の前で火花が散り、衝撃でモノクルがはじけ飛ぶ。

 それに動揺したとき、確かに彼には隙があった。

 普通の人間なら気付かないほどの、僅かな隙。


 だが、アンセルもまた『普通』の人間ではなかった。


 鋭く一閃し、ベテンブルグの頬に血が伝う。

 それを手で触れたベテンブルグが、自身の血を確認した後に大きく高笑いをした。


「なるほど、なるほど。ああ、思い出した。相手は貴様だったか! 覚えているとも、その獣のような戦い方!」

「……ようやく思い出せたかよ。危うく、忘れられちまったままお前を殺すことになるとこだったな」


「態々会いに来たんだぜ、ベテンブルグ。テメエに黒星をつけた『化け物』のアンセルが、テメエを殺しに遠路はるばる会いに来たんだ」


 そう語るアンセルの表情に先ほどの無機質な印象はなく、化け物と名乗るにふさわしいほど、狂気にゆがんだ顔をしていた。


 たった一度、彼はベテンブルグに勝ったことがある。

 きっかけは、彼とベテンブルグのどちらかがぺスウェンの隊を率いるかの議論のために執り行われた、親善試合だった。


 結果として、アンセルの攻撃にベテンブルグの剣が耐え切れず折れたため、アンセルの勝利に終わった。

 当時の彼の試合を見た兵士は、彼をこう形容した。


「化け物」と。


「……随分と人間らしくなったようだ」

「テメエは随分と化け物らしくなったな? ええ?」


 アンセルの言葉を鼻で笑うベテンブルグ。

 だが、その瞳には先ほどまでなかった警戒の色があった。


「さあ、続きをやろうぜ。鴉だか何だか知らねえが、今ここでこの戦いは終わらせてやる」

「『終わらせる』? たかだか一回の勝利で大きく出たものだ。……いいだろう、かかってくるがいい。私をくじいてみるがいい。それが出来るというのなら、の話だが」

「……ああ、お望み通りやってやる」


 アンセルがそう吐くと、先程のように鉄の針が彼めがけて飛んでいく。

 ベテンブルグはそれを今度は避けるが、その瞬間の隙を突き、凄まじい速度で距離を詰めた。


「……ッ」


 ベテンブルグの息をのむ音が聞こえる。


 だが、それだけだった。


 切り抜けたはずのアンセルの剣が、砕かれる音がする。


「……なんだ、今のは」

「初めてだ、私が本気を出したのは。……認めよう、私がいなければ、貴様はきっとこの世界の誰よりも強い」


 アンセルの膝が、地面をつく。

 その下に敷かれた紫色のカーペットに、赤い血がしみこんでいった。

 彼はそんな彼に背を向けたまま、納刀する。


「殺す前に、一つ聞かせてほしい。何故、貴様はこの世界を守ろうとする?」

「……あ?」

「この世界は醜い。奴隷、戦争、差別。そして、貴様の力を頼りにするしかない能無しの人間ども。いいや、それはこの世界だけではない。どの世界でも、人は醜かった」


 彼には、理解できなかった。

 この世界に絶望しない人たちが。

 悲しみや弱さに負けず、希望を持ち続ける彼らが。


「それでも、何故貴様らは『未来』という不確かなものを信じ続ける。私から見れば、折れてしまった人間の方が正しいようにさえ感じるのだ」

「……まあ、そんな奴もいるだろうな。俺も、その折れてしまった人間の方に正しささえ感じる」

「なら、何故だ?」

「知らねえよ。俺だって、何のために立ってるかなんて、わからねえ。だけど……俺の命が、生きたがってる。それだけがすべてだ」

「……それは、人間ゆえか?」

「かもな。そういう訳だ、ここいらで終いにしようぜ、ベテンブルグ」


 彼がそう言うと、扉が開け放たれる。

 そこには、ルークを中心に、十数人の兵士が弓を引き絞って立っていた。

 その中には、レオナルも混ざっている。


「……ッ!」


 後ろに飛んで回避しようとするが、その足はアンセルにつかまれている。

 ならばと寝ているラザレスの体を射線上に入れようとするが、丁度矢の死角の位置となる場所に彼らは立っていた。


「ようやく追い詰めたぞ、化け物」

「……なるほどな。私が本気を出すのも、君にてこずるのもすべて計算づくという事か」


「ルーク=アウグスタ=グランティル……!」


 ベテンブルグがルークを睨む。

 そんな彼を見て、ルークは心底愉快そうに微笑んだ。


「王手でもかけに来たか? それとも、舐めきっていたのか? ……まあ、今となってはどっちだっていい」


「裏目に出たな、鴉」


 彼がそう言って片手を前に突き出すと、その合図に従い一斉に弓矢が放たれる。

 だが、彼らとベテンブルグの間に突如発生した黒い靄のようなものがその矢をすべて取り込んでしまった。


「……それが、時空を自由に移動できる通路、というわけか?」

「貴様、どこまで知って……っ!」

「教えてくれたのさ。仮面をつけた親切な男が、ね」

「……ッ、狼か!」

「答える義務はない。第二射、準備しろ」


 彼の掛け声とともに、弓矢が放たれる。

 だが、今度はその弓矢を空中で切り落とした。


「……お見事だった、諸君。あと一歩で、私に届いただろう。ああ、実に惜しい」


 彼がそう言った刹那、彼の足首から下が切り離される。

 誰が切り落としたわけでもない。

 彼は、自分自身で自分の足を切り落としたのだ。


「さらばだ、諸君」


 彼はその言葉を残し、靄の中に姿を消していく。

 アンセルはそれを確認した後、立ち上がってルークの元へと歩いて行った。


「……お力添え感謝します、陛下」

「いや、想定以上の働きだった。取り逃がしはしたが、おかげでラザレスを守ることが出来た。感謝する、アンセル隊長」


 ルークは少し微笑んだと思うと、振り返る。

 そこには、マクトリア国王であるシアンの姿があった。


「さて、これで我々の成すべき最重要事項が分かった。ここにいるラザレスを死守し、目覚めた際に彼らを殲滅することにしよう」




 エミルと一人の少女は走っていた。

 肩で息をしながら、整備されていない森の中を。


 彼女は、見てしまった。

 愛する夫……ルーファウスが切り落とされる、その瞬間を。


 何かの間違いだと思った。

 よりにもよって彼が……ラザレスが、彼を殺した。


 今、エミルの手を握ってともに走っている少女も、彼が世話をしていた。

 彼女の記憶だと、少しばかり影があるが、優しい青年だった。


 そんなことを考えていた時のことだった。


「お急ぎのところ、失礼します」


 正面に、一人の青年が現れる。

 顔を見ると、そこには彼女たちが逃げている存在が立っていた。

 叫ぼうにも、呼吸が整わず喋ることさえ出来ない。


「……顔色が優れませんね、悪い夢でも見ましたか? それとも、何かから逃げている途中でしたか?」


 彼は薄ら笑いをしながら問う。

 その時、彼女は確信した。


 彼は、ラザレスではない。


 もう逃げられない。そう判断した彼女は、咄嗟に少女の体を庇うように抱きしめて、言い放った。


「……許さない。私はお前のことを、絶対に許さない!」

「『ラザレス』を、ですか?」

「お前が、お前如きが……ラザレスの名を騙るな!」


 彼女が言い終えた時、彼の剣が振り下ろされた。

 それは的確に彼女ののどを切り裂き、音もなく彼女の体が倒れる。


 残された少女は、呟いた。


「助けて、助けて……せんせい……」

「せんせい? ……ああ、それも、ラザレスのことか?」

「いや……死にたくない……」


 彼女が後ずさりするように逃げようとする。

 しかし……彼の刃は無情にも振り下ろされた。


「ふざけるなよ……! 誰も彼もがラザレスの名を呼ぶ! 私ではない、『奴』の名を呼ぶ! 私がラザレスではないと言いたいのか!?」


 その声は空にとどろき、森に響いた。

 しかし、答える者はいない。


「……チッ。この感情、どうやら私ではない方の、器のものでしょう。この期に及んでも、まだ『ラザレス』の名を欲しますか」


 不愉快そうに顔をゆがめながら、彼女の体に突き刺さった剣を抜く。

 その背後から、対照的な涼しい声が聞こえた。


「……どうしたの。あなたらしくもない怒声が聞こえたけど」

「いえ、なんでもありませんよ。それよりシルヴィア、これでここらあたりの人間の生き残りは排除しました。次へ向かいましょう」

「そうね。次は、排除してほしい三人組がいるの。一人は、あなたも知ってるメアよ」

「メアですか。なるほど、それは裏切ったという事ですかね?」

「そう。愚かにもね」


 シルヴィアが口を隠し、笑う仕草を見せる。

 彼はそれを見もせずに、死体を見つめていた。


「……シルヴィア。ルーファウスとここの二つの死体は燃やして、再利用できないようにしてください」

「いいけど、どうして?」

「もう彼らの顔を見たくない。それだけですよ」


 彼はそう言って、靄の中に姿を消した。

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