45 正義の在り処
それは、晴天の日だった。
少女はいつものように街のはずれにある、花畑に来ていた。
もう病気で動けない彼女の祖母のために、せめてものために花を摘んで、持って行こうとしていた。
どこかで、金属のはじけ合う音がする。
しかし、少女は気のせいだろうと、そのまま籠の中へつぶれないように慎重に花を摘み続ける。
その時、目の前の白い花びらが、うっすらと薄い黒に染まった。
顔を上げると、そこには仮面をかぶった男が立っていた。
血に染まったなたを振り上げながら。
「――っ!」
彼女は叫び声さえ上げることを忘れ、一目散に走った。
背後を確認する余裕などはないが、追いかけてきていることくらい彼女にだってわかっていた。
次第に乱れる呼吸、そして、もつれあいながらもどうにか前へと走り続け。
だが、彼女の拳ほどの小さな石が、その逃亡を遮りそのまま彼女の体は宙へと放り投げられた。
目を閉じる。
捕まったらどうなるかなんて、彼女にも想像がついた。
しかし、彼女の想像が現実になることはなかった。
「……大丈夫ですか? お怪我は……膝をすりむいてしまいましたか。可哀そうに」
目の前には、薄い黄緑色の髪を後ろでまとめた、どこか垢抜けないような容姿をした、女性が立っていた。
彼女は振り向いて、微笑みかける。
「大丈夫です。これでも私、強いですから」
そう言って、目の前の男に振り返る。
少しの沈黙の後、女性をため息をついた。
「……賢者の法ですか?」
「……」
「フォルセは消えた。その内部組織である賢者の法に従う必要などないでしょう?」
「……」
「あくまで答えるつもりはないのですね」
「なら消えろ。今の私は機嫌が悪い」
彼女がそう言うと、目の前の男性の足の先が、膝から下がなくなっていた。
態勢が崩れた彼ののど元を一刺しした後、血を掃って少女に振り返った。
「……ごめんなさい、あなたの前でするべきことではなかったかもしれません」
少女の目は、恐怖でおびえ切っていた。
当然だ。目の前で人が死んだのだから。
彼女はそんな少女から離れるように歩き出し、背中越しに話しかける。
「少しだけ離れた所にいてください。……きっと、今以上のことがこれから起きるから」
そう言って、彼女は少女の目の前から姿を消した。
遠目から見えた町は、想定していたよりもひどい状況だった。
ぺスウェンの兵士が、マクトリアの街を燃やしている。
例え兵士であってもなくても、殺戮の限りを尽くしている。
「……不愉快だな」
子どもの泣き叫ぶ声。
爆発音に、戸惑う大人たちの声。
今度は、俺が戦場の音を不愉快に思う番だった。
既に、他の皆には分かれてもらっている。
カレンやリンネ、ユウは町の周囲を偵察し、増援の有無を確認してもらっている。
グレアムとレオナルは、マクトリアの自警団への加勢。
そして俺は、リクかマリアレットを探していた。
彼らと話せれば、きっと何かが変わると信じていた。
だが、何が変わる。
俺はあいつらと話したことなどない。それに、リクとは最初から仲良くできる訳がない。
俺はイゼル国民で、奴はぺスウェン国民なのだから。
不安が、そうささやく。
そんな時、俺の背後に冷たい鉄のぶつかる感触がした。
「一つ答えろ。お前はどっちの味方だ?」
「どっちという質問の意味が分からないが、強いて言うなら俺はこの街の味方だ」
「どっちでもねえってことは、こんなクソ面倒なことに自分から首を突っ込んできたってことか……。なるほど、敵じゃねえらしいが相当なあほであることも確からしい」
背後の男が剣を納める音が聞こえる。
完全に収めた瞬間と同時に、俺は振り返った。
やせこけた体に、ボロボロの服。そして、顔には剃っていないのか、半端に伸びたひげ。
見たことがない男だった。
そんな彼を見つめていると、今度は俺の背後から見知った声が聞こえた。
「まあそう言うな。彼は一応私の知人だ。とはいえ、一方的に知っているだけだが」
「……そうですか。まあ何でもいいんですがね」
今度はその方向へ振り替えると、そこにはぺスウェンの国王……ルークが立っていた。
だが、今の彼には以前感じられた余裕な表情はなく、むしろどこか焦っているような印象を受ける。
「……わざわざ国王がここに来る意味がわからないな」
「国王だったのは昔の話さ。イゼルが崩壊したことによって、親イゼル派は肩身を失くしてね。今の国王は違う人物だよ」
「その人物が、マクトリアを滅ぼそうとしたと?」
「さてね。この行為の意味さえ彼は理解してないと思うよ。彼は協力者に判断を仰ぐだけの人形になってしまっているからね」
「……協力者?」
「ベテンブルグだよ。彼は奴の心の中で大きな存在だったからね。漬け込むのは容易だっただろう」
「奴とは、リクのことか?」
「ああ。僕と隊長が追放されたんだ。だとしたら三番目がトップに躍り出るのが自然じゃないかな」
……リクは奴に並々ならぬ感情を注いでいた。
篭絡されるのは、時間の問題だっただろう。
「じゃあ、今ここにいるのは二人だけという事か?」
「そうだね」
「マリアレットは?」
「彼女には、既にこの国の陛下の元へ向かってもらっている。見知った仲の方が、事情を話しやすいだろうと思ってね」
「それで、アンタ達は何のためにここにいる? まさか、ぺスウェンに加勢するつもりか?」
「まさか。僕はベテンブルグが嫌いでね。ちょっとでも歯向かおうとしてるのさ。傲慢なあいつの顔を、歪ませるためにね」
振り向いて、隊長と呼ばれた男を一瞥する。
表情から察するに、嘘ではないらしい。
「……だけど、もしかしたらもう決着がついてしまうかもしれないね」
「どういうことだ?」
「この街は撒き餌なんだ。マクトリアの兵力をここに集めて、一網打尽にするという話を彼が聞いた。マクトリアに匿ってもらっているイゼルは勿論、ぺスウェンの兵諸共ね」
「……それは、確かなのか?」
「俺がベテンブルグから盗み聞いた。確かだ」
……いや、違う。
あいつは、盗み聞かれるような不用意なことはしない。
悔しいが、あいつはわざと俺達にヒントを出したんだ。
「賢者。……ああ、君じゃないほうのね。彼の魔力なら、ここら一体を更地にすることは可能らしい。悪いけど、そんなことをされたら僕たち……いや、この世界は終わりだ」
……あいつならば、可能だろう。
もう、狼もメンティラもいない。白狼も、ここにはいない。
今、あいつに立ち向かえるのは俺だけだ。
「同じ賢者なら、抑えることが可能のはずだ」
「悪いけど、僕たちは君に期待などしていないんだ。見た所、彼に勝てるとは到底思えない」
「……知ってるさ。俺があいつよりずっと弱いなんて。でも、今誰かが立ち向かわなくちゃ、終わりなんだろ!?」
二人が黙る。
そんな二人に追い打ちを打つかのように、俺は言った。
「それに、俺は託された。もう、弱さを理由に逃げるなんてことはできないんだよ!」
もう、逃げられない。
彼の背中に乗っていたこの言葉が、俺の背中にも重くのしかかる。
あいつが見ていた世界は、こんな感じだったのだろうか、などとどこか切ない気持ちを胸の奥に押し込んだ。
しばらくした後、ルークが口を開く。
「……話に聞いていた君とは、別人のようだ」
「え?」
「前言撤回だ。恥を忍んで頼む」
「この世界を、救ってくれ」
そう言って、彼は頭を下げた。
「……メンティラ」
男が、メンティラの遺体を見下す。
その眼は彼の身体よりもさらに冷たく、残酷な視線を伴っていた。
「君は託す人間を間違えた。よりにもよって、あの出来損ないとは」
男性は、その遺体の横に座り込む。
彼は目をつむって、うつむいた。
「……私と君は敵同士だ。とはいえ、お互い思わないところがない仲ではないだろう?」
目を開けて、空を見る。
穏やかな、澄み渡る青空。
「……ベテンブルグ。何をしているの?」
「説明したところで、到底君みたいな土人形には理解できないだろう。君は彼らと先に行くといい」
「そう。醜い情でも湧いたのかと思ったわ」
傘を差した少女は、彼の背中に背を向け、歩いていく。
そんな彼女を一瞥した彼は、空を仰いだ。
「私は、滅ぼす生き方しかできなかった。君とは違って、幸せを砕くことでしか生きることを実感できなかったのだ。きっとこの世界を砕いた後も、私は醜い幸福感に襲われるだろう」
返答はない。
だけど、彼は話し続ける。
「この世界が潰えようと、私が潰えようと、正直なところ私にはどうだっていい。君が疲れたように、私も疲れたのだ」
「だけど、親友の死は別だ。どうだってよくなどない」
彼は立ち上がる。
そして、そのまま背を向けた。
「本当は、君と友達になれて嬉しかったのは君だけじゃない。だが……本能というのは、友情でさえも抑えられないらしい」
剣を抜き、その剣先で彼の手元にある剣を貫いた。
すると、凄まじい音とともに剣身が砕ける。
「本当に身勝手だが、祈っていてほしいのだよ。この身に死よりも残酷な最期が訪れることに」
そう言って、彼は自嘲気味に笑った。
剣を納めて、彼は言う。
「正義はきっと――この世界にはないのだろうな」
その言葉は、風へと消えた。