16 敗北
気が付くと、俺の腕にかかっていた靄は取れ、地面に伏せていた。
二人の様子はよく見えない。もはや、首一つ動かす力すら残っていないためだ。
ソフィアの剣が空気を切り裂く音こそは聞こえるが、手ごたえのある音がまるでしない。
そのことから分かる。ソフィアとあの女の実力差は歴然だ。
「ソフィア、いいから逃げろ! こいつは、お前が勝てる相手じゃない!」
「流石は賢者様。冷静な判断ですわ」
「うるさい! 私は勇者です、こんな魔女なんて……!」
ソフィアはあくまでも彼女に勝とうとしている。
だがわかる。彼女は、俺がいた世界でもかなり上位の魔術師だ。
だが、俺がまた無理矢理封印術を解呪すれば有効打は与えられるはずだが、そうなってしまうと万が一の場合ソフィアの足かせになってしまう。
「ほんと、可愛らしい娘ですね。賢者様もこんな子に愛されて、幸せ者ですわ」
「……さっきから賢者様賢者様って、何の話をしているんですか! 彼はラザレス、マーキュアス家の……」
「当主様、でしたわよね?」
女は戦闘中にもかかわらず、俺を横目で見ながら確かめる。
その間、ソフィアの攻撃は全てかわされ、傷一つつけることはままならなかった。
だが、その時ソフィアの攻撃を見切っていた動きが、突然停止した。
「もう面倒ですわね。お好きなように攻撃なさいな。私は賢者様に用がありましてよ」
「舐めるのもたいがいに……!」
「待て! 挑発だ!」
俺は無理矢理体を動かして立ち上がり、ソフィアを制止する。
しかし、ソフィアはすっかり相手の挑発に乗ってしまって、俺の言葉が聞こえなかったのか女に切り付けてしまう。
だが、その刃は彼女に届かず、体中を靄で縛りつけられ、拘束されてしまった。
「はい、おしまい。勇者と言えど、生娘ではこんなものなのですね」
「は、離してください……! 私はまだ、負けたわけでは……!」
「ない。強がりもここまでくると、滑稽ですわ」
女は歯を食いしばり睨みつけてくるソフィアを、冷笑しつつも首元に手をかけた。
「さて、それじゃあ賢者様に話を聞く前に……」
女はソフィアの首元をなぞるように、舌で舐める。
ソフィアは、その行動に心から嫌悪しているらしく、穴が開きそうなほどに彼女を睨みつけている。
そんな彼女を見てほほ笑む女。
「勇者様と遊びましょうか」
「ふ、ふざけないでください! いやっ、離して……!」
「お遊びですもの、ふざけるのも道理でしょう?」
おどけた口調でソフィアに語り掛ける。
ソフィアの胸に手をかけようとしたときに、その腕は手首から地面に落ちた。
そして、そこにはいつか俺を助けてくれた男……アルバが立っていた。
「……お姉さん、そんなガキ共と遊ぶより俺と遊ばねえか?」
「……あら、意外ね。ここであなたが出てくるとは。でもごめんなさい、私、あの方以外の男性には興味がないの」
「へえ? てっきり女知音かと思っていたが、野郎がいるとはな」
「ふふ。ええ、お生憎様」
女はそう微笑むと、切り落とされた右腕を左指でなぞると、黒い靄が手を形作り、そのまま肌色に変わった。
アルバはそれを見て、少しもたじろぐことはなく、手にしている短剣で彼女を切り裂いていく。
その一つ一つの斬撃が正確で、美しく軌道を描いていたが、それらすべてが彼女の体をすり抜けていった。
「それも魔法って奴か、魔女さんよ」
「さあ? どうかしらね」
「おいおい、つれないじゃねえか。ほんの少し弱みを見せる女が、最もモテるんだぜ?」
「参考にしますわ」
女は微笑みながらアルバの斬撃をかわしていく。
アルバも同様に微笑みながら、カウンターのように伸びる靄をかわしつつも、微笑みながら斬撃を繰り返していた。
一見すると互角の戦いに見えるが、やはり手ごたえのない相手を切り刻もうとしているのもあってか、先に疲れが見え始めたのはアルバのほうだった。
「……さて、そろそろお暇するとしようかねぇ」
「まだ遊びませんこと? 淑女を誘っておいて逃げるのは感心しませんわ」
「ここまでガードが固い女を落とすのは骨折り損なんでね。俺はもっと可愛げのある女を口説くとするわ、っと!」
投げたナイフに意識が言ったのか、ふいに宙ぶらりんになっていた靄がかき消され、解放される。
それと同様にソフィアの体中に巻き付いていた靄もかき消された。
見ると、アルバが剣で靄を切り払っている姿が見えた。
「逃げるぞガキ共! ちょっと先に馬車がある! 先客はいるが気にしないでくれ!」
「はい!」
俺はさっきまでボロボロだった体に鞭を打ち、ソフィアの手を引いて走り出す。
女はそんな俺達をやすやすと逃すはずもないのだが、何故か歩いて追ってくる。
しかし、歩いているのにもかかわらず、早さはあっちのほうが上に感じた。
「乗り込め、ガキども!」
アルバの掛け声に合わせて馬車に無理やり飛び込むような形で乗り込んだ。
そして、そのままアルバは馬の背中に手鞭を打つと同時に、森中にいななきが響き渡り、飛ぶような速さで走り出す。
俺はそのことに一安心して馬車の背もたれに体を預け、隣にいるソフィアに話しかける。
「ソフィア、大丈夫だったか?」
「……はい」
「……その、勇者ってのは本当なのか?」
俺の質問に押し黙ってしまう。
……今はあまり問い詰めないほうがいいだろう。と思って俺は後ろを振り向くと、そこには森を覆いつくしそうなほどの靄が追いかけてきていた。
「アルバさん、後ろッ!」
「うっせぇ、わかってるよ! 揺れっからどっか掴まっとけ!」
アルバは鬱陶しそうに前髪をかき上げ、馬に手鞭を続ける。
俺はソフィアを抑えながら馬車の入り口につかまり、衝撃に備える。
そして、しばらくすると森を抜け、靄もまるで存在しなかったかのような静けさが広がっていた。