31 祈り
灰色の廊下に立ち、ニコライは目の前の少女を睨み続ける。
不穏な空気が流れる中、彼は皮肉な笑みを浮かべていた。
目の前の少女に対し、隙を見つけることができない自分への笑みを。
「どうした? 言っておくが、私はあまり気が長い方ではない。来ないのなら、こちらから行くぞ?」
「そう急かすなよ。これから嫌というほど動くことになるんだからさ」
「随分と自信があるようだな。……いや、それとも虚勢か」
彼女の言う通り、彼の態度は虚勢だ。
実力も、彼と彼女では大きく離れている。
それをニコライもわかっているのか、ただ隙を見せないように立ち振る舞うことしかできない。
このままでは、防戦一方になることは確実だった。
「言っておくが、既にほかの世界の魔核は我が体内の中だ。援護が来るとは思うなよ」
「もとより、そんなの期待してないよ。それに、そんなことを伝えて俺の心が折れるとでも?」
「いや、思わない。だが、降伏した方が身のためということを伝えておきたかっただけということ」
「そう」
彼はそう言い切ると、懐に持っていた短剣を彼女に向かって投げつける。
それは壁の中から生えてきた黒に染まった手のようなもので防がれるが、それに気を取られていた彼女の視界に、既にニコライはいなかった。
「ほう。面白い遊戯だ。さて、次はどう出てくる?」
少女は妖艶な笑みを浮かべ、ただ悠然と立っている。
その隙だらけのように見えた背中に向けて、背後の影から彼の手が伸びた。
だが、その彼女の背中から伸びてきた手に、手首を受け止められる。
「惜しい。あと数センチ、いや数ミリで、私を殺せていたかもしれなかったな」
「……ご冗談を」
「さて、次はこっちの番だな」
彼女がそう言うと、彼の体を何十本もの腕が巻き付き、彼女の体に引き寄せようとしてくる。
その力はとても強く、力づくで引きはがそうとしても容易には離れない。
咄嗟に影に潜み、その手から姿を消し、今度は手が届かない場所まで離れた。
「小癪だな、その能力。その様子だと、影に潜むことができる、と言ったところか?」
「そう思うだろう? 最初は俺もそう思っていた」
「何?」
「見せてあげよう。俺の呪術の真の力を」
彼はそれきり廊下の中に溶け込むと、廊下を照らしていた月明かりや、廊下に備え付けられているランプの光がとたんに消え失せ、瞬く間に闇の世界へと変わり、少女の視界が極端に狭まる。
「光源が見えなくなったくらいで、私がひるむとでも?」
返答はない。
逃げた、という可能性を彼女が吟味し始めた瞬間、背後から伸びる手があるのを察知し、先ほどのように捕えた。
「結局はそれか。背後なら隙があるとでも?」
興覚めのように、彼女が息を吐く。
その瞬間に、彼女には一瞬だが、確かに隙があった。
そこをついて、もう一つの手が、彼女の正面から伸び、そのまま彼女の胸……心臓の部分を貫いた。
「な……が、あっ……!」
突然の出来事に、彼女が目を見開く。
そのままニコライの手が心臓の部分にあるものを握りつぶすと、そのまま少女の体が仰向けに倒れた。
しばらくした後に月明かりやランプの光が元に戻り、廊下には、赤い血を流している少女の姿があった。
「……死んだ、か」
それを確認すると、ニコライは膝をついた。
ニコライの本来の呪術は、『影を操る能力』。影で出来た自身の人形を操り、油断させたところで彼女の心臓を貫いた。
しかし、これは対価の消耗が激しく、既に彼の視界はぼやけ、目の前にいる少女さえもはっきりとは確認できない。
「明日一回死んで、教皇にもう一回体作り直してもらうか」
もう歩いて自分の部屋に戻ることさえ困難な彼は、そのまま廊下に座り、誰かが通りかかるのを待ち始める。
しばらくすると、二人ほどの足音が、こちらに向けて歩いてきていた。
「お二人さん、悪いけど、老人の介護を頼むよ」
返事はない。
思えば、その時気付くべきだったのだ。
返事もせず一直線に向かってくる人間が、まともなわけがないのだと。
その二人のうち片方が彼の手を取ると、そのもう一人が……彼の体を、剣で貫いた。
「え……?」
何が起きたのか、彼にさえわからなった。
目の前にいる二人が誰なのか、視力を失った彼にさえ。
しかし、次の言葉は誰なのかは、よくわかった。
「嬉しいな。よくぞここまで私を楽しませた。私の中の一人を殺せるとは、思わなかったぞ」
「……な、ぜ」
「『何故生きている?』、か。私は数個の魔核……私の心臓を取り込んだ。それが一つの個所に集まっているとでも?」
その言葉を聞くと、次第に彼の意識が薄れていく。
「気付いているかはわからないが、これでお前は私のものだ。魔力が自我を失えば、私のものと置き換えることは容易い。その力、精々利用させてもらおう」
それが、意識が途絶える前に聞いた、彼女の最後の言葉だった。
――――
「協力、感謝します。これで移民は全員です」
彼……ザールは目の前にいるマクトリア兵に深々と頭を下げる。
それを見て目の前の彼は満足したのか、何も言わずにこの場を去った。
その後姿が小さくなるのを見て、ザールは背後にいる人間に話しかける。
「レン、各部隊の隊長に休憩を伝えてきてくれ」
「はいっ!」
レンと呼ばれた少年は、そのままほかの部隊のところへと駆けていく。
しかし、意識は隣の壁の近くに立っている女性……ソフィアにあった。
「それで、その狼という男にラザレスを引き渡すという選択をしたのは、本当なのか?」
「はい。マクトリア、イゼル、両国王の承認を得たそうです。両国王への事実確認も滞りなく終わりました」
「そいつが何を企んでいるかはわからないが、何故ラザレスを……」
「大丈夫ですよ」
ソフィアは信じ切っているといった様子で、微笑んでそう言い切る。
その様子を見て、ザールは思ったことを打ち明けた。
「……随分と、いい表情をしているな。何があった?」
「彼と会って話をしました。それだけです」
「それだけ、だと?」
「ええ。その時の彼の眼は何か決意をした人のものと比べても、遜色がないように感じられるほどに、まっすぐに感じましたから」
「決意……」
「彼は選んだんです。その内容はわかりませんが、決して悪い方向ではないと断言できます」
『彼は選んだ』。
その言葉を聞いて、ザールはどこか……彼が遠い存在になってしまったと感じた。
その成長は友として喜ぶべきなのだが、彼と敵対している国の騎士団という立場が、どうしてもそれを阻む。
「ザール。これからはあなたが彼とどう向き合うか考える時です」
「……そうだな」
「今一度聞こうと思います。あなたは今、何がしたいのですか?」
「私は、奴に罪を償わせなくてはならない。奴がこれ以上心の負荷を負わせるわけにはいかない」
「……それは、『イゼル騎士団長のザール』の意思ですよね? そんなもの、私は聞きたくもない」
彼女のどこか強い物言いに、ザールは目を見開く。
今までの彼女ならこのような物言いはしなかった。
そこで、ようやく彼は一つの結論にたどり着く。
彼女は、自身よりも彼についての理解があったのだと。
「教えてください、『ザール』。あなたの意思として、本当にラザレスを殺したいと考えているのですか?」
「奴の行為によって家族を殺されたものも多くいる。そんな血にまみれたあいつを、許せというのか?」
「騎士団長としての言葉は聞きたくない。二度も同じことを言わせないでください」
「なら、何と答えれば満足する?」
「……本当にわからないのですか?」
そんなはずはない。
彼は、どう答えればいいかを理解している。
しかし、彼にとっては、今まで倒すべき存在と断じてきたラザレスに対して、その言葉を口にするのがどうしてもはばかられた。
「ザール。私はラザレスの味方をしろとは言っていません。あなたが心から彼を憎いと感じるのなら、それもいいです。いえ、それのほうがいいでしょう。人の心を捻じ曲げて出した意見など、反吐が出る」
「……」
「だからこそ、私は騎士団長として意見を出すあなたを、心底軽蔑します。一生その場で足踏みをしていればいい」
「……黙れ」
「彼は犯罪者です。でも……あなた方は、それ以上に友達だったはずです」
「黙れ」
「黙りません。今ここであなたの意見を聞かなければ、もう二度とあなたは自身の心と向き合わないでしょう?」
「戯言を……!」
「なんとでも言ってください。私は貴方と仲良くなりたいわけではありませんから」
彼女の言葉は、素直だった。
まるで、真っ直ぐにとがったナイフのように。
ただ純粋に、ザールの心を突き刺していく。
「……ただのザールとして、か」
彼は、知らずのうちに口から零れ落ちてしまっているのに気付いた。
何の歪曲もない、胸に押し込められた純粋な彼の思い。
「奴が何を成し遂げるのか、見てみたい」
「……やっと、話しましたね」
「だが、私は騎士団長として、彼を断罪しなくてはならない。その事実は変わりはしない」
「そうですか」
「……それでも、もし許されるのなら、たった一つだけ、許されるというのなら」
友として、とつぶやき彼は目を閉じる。
「彼の旅路が、せめて平穏に終わるように、祈らせてほしい」
彼女も、その行為に深く言及はしなかった。
しばらくした後に目を開くと、彼は言葉の続きを言った。
「休憩時間は終わりだ。私は仕事に戻る。貴様も書類整理が山ほどたまっているのだろう?」
「ええ。それじゃあ、頑張りましょうか。お互いに、ね」
「ああ。それと……その、感謝する」
「え? 最後の方、何と言いましたか?」
「なんでもない。いいから行け」
ザールは手で彼女を追い払うと、各部隊が待機している場所へと歩いていく。
彼女もまた、自身のするべきことのため、自身の机へと戻っていった。