26 夜光
暗くなった酒場に戻り、俺はベッドで寝る。
孤児院は今エミルやルーファウスが泊まり込みで見守っていてくれているが、いつまでも彼らの厚意に甘えているわけにはいかない。
近日中には、俺はここを去ることになる。
とはいっても、今生の別れではないし、荷物を移動させるだけでいいため、事実上ただの引っ越しだ。
それでも、しばらくいたこの部屋に対して、どこか寂しさを感じざるを得なかった。
真っ暗な部屋の中で、造花に触れる。
布で出来た花弁をそっと指でなぞった。
この花に、どんな意味があるのだろうか。
もとはこの部屋は、ユウの兄のものだったという。
この造花は、それに関係するものだったのだろうか。
「……」
眠れない。
もうこの場所ともお別れとなると、先ほどまでの寂しさが次第に膨れ上がってくる。
ユウやリンネ、カレンと過ごした日々は短かったが、それでも昔の俺を支えてくれたのは、まぎれもなく彼女たちだ。
俺はそんな彼女たちに対して、何かできることはないのだろうか?
「……ふぅ」
息をつく。
俺はベッドから立ち上がって、一階に降りる。
そして、一階の出入り口から出て、俺は夜風を体に感じた。
月が、時計塔を照らしている。
寝静まった街を、家々の明かりが照らしている。
本来真っ暗だった世界は、温かい光に満ちていた。
できるのなら、もう少し早く気づきたかった。
「よ。お前も眠れないのか?」
振り向くと、いつものように微笑みながら話しかけてくれるリンネの姿があった。
彼女は一度俺に視線を向けると、俺が見ていたように月に視線を向けた。
「なんだかオレも目がさえちまってな。ま、昼間死ぬほど寝てたからなんだがよ」
「羨ましい限りだ」
「はは、そう言うなよ。昼は眠り、夜に起きる。それが酒場なんだからな」
なるほど、と俺は彼女の言葉に答える。
それきり、夜の街にふさわしい静寂がこの街を包んだ。
だが、不思議とそれに居づらさは感じられなかった。
「なあ」
「ん?」
「お前、変わったよな。昔の暗い感じとは大違いだ」
「そうか?」
「ああ。なんというか、人間らしくなったというか……。嫌な感じが抜けたんだな、とにかく」
「ははっ、なんだそれ」
「……はは、そうだな。何言ってんだろ、オレ」
柄でもないことを言ってしまった自覚はあるのだろう。
彼女は耳まで真っ赤にして、うつむいて黙り込んでしまう。
俺はそんな彼女の様子がなんだか可愛らしくて、笑ってしまった。
「……ふふっ」
「なんだよ。言いたいことがあるなら言えよ。つか殺せ。頼むから殺してくれ」
「ありがとな」
「……は? お、おう」
単に感謝の気持ちを述べただけなのだが、彼女は面食らったかのように目を見開く。
……もう、彼女には打ち明けてもいいだろう。
「時計塔、俺はそこから……未来から、ここに来た」
「らしいな」
「そこで見た景色は、今よりもずっと誰かが死ぬ世界だった。誰かが泣く世界だった。あいつ……いや、俺も多くの人と敵対してきたんだ」
「……」
「それはリンネ……そして、ユウも例外じゃない」
「なるほど、だから最初はユウに対して殺気を放っていたのか」
「ああ。だけど、今はみんなに本当に感謝してる。それだけは、嘘じゃない」
「ん。そうか」
彼女はそれだけ言うと、こちらを見て微笑む。
俺はそんな彼女に面食らってしまっていた。
「『そうか』って、……もっと他に言う事とかはなかったのか?」
「なんだよ、もっと悪口とか言われたいのか? ばーか、ばーか」
「いや、そういうわけじゃ……」
「なら、素直に受け取っとけ。言っとくが、今のオレはお前のこと嫌いじゃないぜ? それが全てだろ」
「全て、か」
「ああ。他でもないオレが言うんだ。許すよ。お前がそれで救われるんだったらな」
歯を見せて、無邪気に笑うリンネ。
俺は、こんな優しい少女を傷つけようとしていたのだろうか。
彼女を憎んでさえいた俺を、彼女は許してくれた。
――ありがとう。
「んだよ、何ニヤついてんだ、お前」
「……ニヤついてたかな?」
「ああ、ついてた。すっげー気持ち悪かった」
「そうか。はは、ニヤついてたか」
俺は彼女から目線をそらし、今度は家の方を見る。
もう彼女たちにお別れはすんだ。それでも、聞いておきたいことがある。
「なあ、ユウのお兄さんのことなんだが……」
「ああ、義兄さんの話か」
「どうして、お兄さんは亡くなったんだ?」
「病気だよ。あいつはずっと子供のころから体が弱くて、そのせいで病気こじらせて簡単に逝っちまった。ユウ一人残してな」
「その、ユウの両親はどうしたんだ?」
「さあな。ユウがまだカレンくらいの時に、この店残して蒸発しちまったんだってよ。当時の義兄さんが言うには、店の経営不振が原因だったそうだ」
「……そうだったのか」
「でもな、義兄さんはそれでも諦めずに店を継いで、なんとか軌道に乗せたんだ。今この場所があるのも、そのおかげさ」
「言いにくいんだが、その……」
俺の言おうとしていることが分かっているのか、彼女は話を続ける。
「ああ。大人が無理だった経営を、どうして子供ができるのか、って疑問だろ? 答えは簡単、あいつは天才で、そんでもって努力を惜しまない、いわば完璧な奴だったんだ」
「……完璧、か」
「『笑っていれば何とかなる』とか、『絶対にあきらめるな』とか、ずっとずっと言っててな。本当、あの頃のあいつは凄かったな」
「凄い人だったんだな」
「ああそうさ。でも二年前、あいつは逝っちまった。突然倒れてから、まるで水が流れるかのように」
俺はその言葉が震えているのに気付く。
見ると、彼女の目からは水がこぼれていて、うつむいてそれを隠していた。
「天才は薄命って、実感したよ。本当、凄い奴から先に死んでいくよな」
「……そうだな」
「だけど、ユウはもっと凄かった。一番つらいはずなのに、それでも泣き言一つ言わずに店を継いで、立派に生きている。兄妹なんだなって、実感したよ」
「ああ。本当に、ユウは凄い奴だ」
「お前の部屋、造花があったろ?」
彼女は俺の部屋を指さす。
当然、忘れるはずもない。
「ああ」
「あれは、義兄さんが亡くなったときの気持ちを忘れないように、ユウがああやって活けてるんだ。枯れることなく、永遠に」
「……ユウは、本当に強いんだな」
「ああ。強い。一人で全部背負って、それでも立ち続けてる。自慢じゃないけど、オレじゃ無理だな」
そう言って、付け加えるかのように笑うリンネ。
だが、彼女の話を聞いて、もう一つ疑問が生まれた。
「リンネは、いつからユウと一緒にいるんだ?」
「オレ?」
「ああ。その口ぶりだと、孤児院で一緒に暮らしてたわけじゃないんだろ?」
「……あー、お前って、意外とデリカシーないよな?」
……そうなのだろうか?
俺がその疑問を頭の中で巡らせていると、しばらくした後にリンネが頭の後ろを掻いて、堪忍したかのように話し始めた。
「オレは昔、まあ、所謂コソ泥をやってたんだよ。親父も母親も行方不明。言ってしまえば社会のゴミだな」
「……そんなこと」
「あるさ。オレが一番よくわかってる」
……そんなことは、ないんだ。
誰だって強く生きようとしている。
その気持ちさえあれば、人は人でいられる。
そう言いたかったが、俺の言葉を遮るように、彼女が口を開いた。
「ある日オレは餓死寸前で道端で倒れてたんだ。でもそんなオレに、義兄さんは料理をふるまってくれた。経営不振だったころだというのに」
「良い人だったんだな」
「ああ。でもな、オレはあいつにこう言ったんだ。『どうして死なせてくれなかったんだ!』。『こんな自分が生きて立って、奇麗な未来が待ってるわけないだろうがっ!』って。そしたらな、笑顔でこう言い返された」
「『まずは笑ってみろ。必死な顔して生きるから、必死な人生しか送れないんだ』って」
「ああ、バカみたいだったよ、アイツの顔は。でも、それでもな……それでも……」
それきり、彼女の涙が絶え間なく零れ落ちる。
今まで我慢してきた分が、今決壊したかのように。
「……とにかくだ。そっからオレはそこでユウと仲良くなって、一緒に暮らし始めたとさ。終わりだ終わり、さあもう寝ろ!」
「リンネ」
「なんだよっ!」
「今まで、よく頑張ったな」
「……うるせぇ」
少女の透き通った優しい声が聞こえるとともに、どこかから俺たちを見守るかのような視線を感じた。