17 変化
家に戻ると、平手打ちが飛んだ。
突然のことに、俺は反応できなかった。
俺は熱くなった頬をさすりながら、彼女――ユウの方を向く。
「どうして、何も言ってくれないんだ!」
そんな彼女の怒声が、家に響き渡る。
彼女は歯を食いしばりながら、怒りのこもった声で俺を責めた。
リンネやカレンは何も言わないが、視線だけは俺をじっと見つめている。
「ご挨拶だな。別に、生きて帰ってきたんだからいいじゃないか」
「そういう問題じゃない! 一人で勝手に戦争に行くなんて……!」
「……」
「ラザレス!」
……俺には分からなかった。
何故、彼女はここまで激昂している?
俺が戦場に赴いたことが、そんなに腹立たしいことなのか?
「ラザレス、今度から勝手に戦場に行くなんて危険な真似、しないでくれ! 次やったら、嫌いになるからな! いいな!」
「……ああ」
そう言い切ると彼女は家の奥まで戻っていってしまう。
大方言いたいことを言いきったのだろう。
だが、今度は入れ替わりにリンネが口を開いた。
「ユウは優しいよな。あれくらいですませたんだから」
「リンネ?」
「……はあ。どうしてこんな馬鹿が『賢者』なんて呼ばれてたんだか」
「……ッ!」
俺は彼女の口から出てきた賢者という単語に身じろぐ。
だが、彼女はこれといった反応は見せなかった。
「グレアムってやつから聞いたよ。お前がどこにいるのか、といった説明と一緒にな」
「……それで、どうする?」
「どうもしねえよ。でもな……」
彼女は右手で頭をかきむしるような動作をした後、ため息をついた。
「ちょっと一発くらい殴らせろ」
そう言うと、彼女は頭から手を放し、そのまま俺の頬に拳を叩き込む。
突然のことに俺も受け身が取れず、そのまましりもちをつき、殴られた左頬を手で触ることしかできなかった。
「ああ、なんとなくお前がどういうやつかわかったさ。昔は賢者の法の敵だったとか、お前が賢者の法の、『賢者』の由来だとか、いろんなことがな」
「……」
「だけどな、今ここでオレの前に立ってる奴は、ただの『ラザレス』だ。紛れもない、俺達の家族のな」
「家族……?」
「お前にも事情がある。そんなこたぁわかってんだよ。オレだって隠し事くらい許すさ。だけどな……」
彼女は言葉をいったん取りやめると、近くにいたカレンを引っ張り、俺の方へ顔を向ける。
「うちのチビ泣かしたら、いくらテメェでも許さねえぞ?」
見ると、カレンの瞳が若干程度赤くなっているのに気付いた。
……もしかして、これは。
「……泣いて、くれたのか?」
「知るかよ。それに、今話すべきはオレじゃなくて、チビの方だろ」
「カレン……?」
俺はカレンの方を向く。
……そして、おずおずと、ゆっくり首を縦に振った。
「ったく、なんでこんなどんくさい馬鹿に付き合わなきゃなんねえんだよ。はぁ、やってらんね」
彼女はそれだけ言うと、階段を上がって部屋に戻っていってしまう。
俺はそれを見届けた後、もう一度視線をカレンに向けた。
「……カレン」
「……ッ」
カレンは息をのんだと思うと、小さな拳で、俺の胸を叩く。
その拳に威力はなく、ぽす、という音とともに、俺の着ていたコートに沈んでいった。
「カレンは、怒っているか?」
「怒ってる。けど……それで、済ませてあげる」
「……そうか」
これで俺は、この家の人間全員から殴られたわけだ。
どういうわけだか、戦場で受けた傷よりも、痛く感じた。
「……心配、した」
「……心配?」
「お友達がいなくなるのは……もう、嫌だから」
「お友達? ……そうか、お友達か」
……友達と、呼んでくれるのか。
それに、心配してくれたのか。
「……ごめんな」
俺はこの場所で、初めてその言葉を口にした。
先程までそうする意味が分からなかったが、今でははっきりとわかる。
「ん。いいよ」
彼女の涼しい声がする。
皆、心配してくれたのだ。
戦場は命のやり取りをする場所。
俺だって、ニコライが来なかったら、もしかしたら今日処刑されていたのかもしれない。
……どこか、危機感が足りなかったのかもしれない。
いや、違うな。危機感が足りなかったんじゃない。元々、生き残るつもりなんてなかったのだ。
「……ラザレス」
「ん?」
彼女が俺の名を呼ぶ。
見ると、彼女は俺の腕をつかんでいた。
それも、かなり強く。
「……なんだ」
「離さない。もう、一人でどこかに行っちゃやだから」
「……」
……随分となつかれたものだ。
俺は、彼女に何かしただろうか?
好かれるようなことなど、何もしていないはずだが。
「……ありがとう」
俺の口から、何かが零れ落ちる。
その言葉は、完全に俺の意識の外から出たものだった。
「え?」
「え、あ、いや。今のは何でもないんだ」
みるみるうちに、顔が熱くなっていく。
……なんだ、今のは。訳が分からない。
また、あいつの仕業か?
だが、あいつはこの子のことを知らない。
……俺は、変わろうとしているのか?
「……」
どうでもいい、と投げだすことはできなかった。
だって、だって、それは……。
……俺自身が、どこかでずっと願っていたことだから。
だけど、俺はもう、多くの命を奪ってしまった。
もう、遅いんだ。
何もかもが、もう遅い。
だから……。
「……どうでもいいことなんだ。本当に、大したことじゃない」
「ラザレス?」
「悪いな、少しだけ眠らせてくれ。昨日は一睡もしていないんだ」
俺はそう言って、つかんでくれていた彼女の手をそっと払う。
あいつなら……この手を、取れていただろうか。
そう思うと、どこか寂しい気持ちになった。
階段を上がり、俺の部屋に戻る。
そこは、夕日の差し込む、ベッドと机、そして造花しかない、相変わらず殺風景な世界が広がっていた。
俺はコートを机の上に乱雑に欠けると、そのままベッドに沈みこまれる。
「……あと一日早く自分の気持ちに気付けてたらな」
俺はもう、変われない。
変わってはいけないのだ。
もう俺には、この世界には、正義を振りかざす狂人の席しか残ってはいない。
自分は、救われてはいけないのだから。
「……」
……自分は、ここまで弱かっただろうか。
たった一回だけ、誰かが俺を許してくれただけで、それだけで、救いを求めてしまうほどだっただろうか。
俺は、寝転んで近くに会った花瓶の中の増加を手に取り、弄ぶ。
俺が殺した人々にも……ユウ達のような、女の子もいた。
……ああ、認めよう。俺は、何も感じなかったんじゃない。
何も、感じたくなかったんだ。
「……ぐ、うっ」
理解した途端、胸が苦しくなってくる。
俺は、死ぬ覚悟が出来てたわけなんかじゃない。
生きて、その罪を背負うのが怖かっただけだ。
俺は、目をつむる。
……目を覚ましたら、またザールやシアンたちと、笑い合いたい。
ただ、それだけを願っていた。
―――
彼……メンティラは、二人に言う。
「大丈夫ですよ。彼は心から闇になんて染まっていません」
安堵の表情が、二人に戻る。
だが、メンティラに表情を緩めるつもりはなく、依然険しい表情のままだ。
「……ですが、このまま放っておいたらきっと、不味いことになります。だから、時間はありません」
メンティラは部屋に差し込む月明かりが照らす椅子に座り、二人に向いた。
「僕は勇者という立場上、あなた方に協力は惜しみません。ですが、ことと次第によっては、彼を殺すことになるかもしれません」
二人も、覚悟した表情でうなずく。
「当然、そうなることは極力避けます。それに、もしかしたらあなた方の行動が、世界の命運を分けることになるかもしれませんからね」
メンティラは、二人を緊張させまいと、無理に笑う。
だが、後になって思えばあまりにぎくしゃくしていたため、逆効果だったかもしれない。
……だけど、彼にとっては冗談なんかではなかった。
彼らの行動、言動が、彼の……『ラザレス』の今後を決めると、メンティラは確信していた。