16 脱出
静かな時間が続く。
外は虫が鳴き、町は静まり返っている。
見張りの兵もすでに舟をこぎ、俺もほとんど眠りかけているような時間だった。
ふと俺はその時間に目を覚まし、目の前の照明の代わりの炎に目を向ける。
静寂。
孤独。
暗闇。
それらすべてが合わさったかのような、場所だった。
冷たいレンガの感触が、俺の足に伝わる。
……殺戮者から、英雄に。
そして、英雄から殺戮者に。
前者があいつで、後者が俺。
誰に聞いても、あいつが正しくて、俺が間違っていると言う。
彼は、力も弱くて、何も守れなかった。
結果として、間違ったことに手を貸していたんだと、思う。
……だけど、ひたむきだった。
あいつは、誰よりも、ずっとずっと自分の罪と向き合っていたと思う。
全て投げ出して賢者のことなど知らないまっさらなラザレスになるという選択肢さえ、彼にはなかった。
後ろ手に拘束された手のひらに、血の感触が戻ってくる。
あいつらは悪魔だ。
世界を滅ぼした、悪魔だ。
……だが俺は、何故彼らに復讐をしようとした?
俺を利用したから? 違う。利用されることなんて、いつものことだった。
それに、あいつらだって元をたどれば悪魔になりたかったかどうかなんてわからない。
ベテンブルグとシルヴィアの二人が、彼らを目覚めさせた。
手にこびりついたぬくもりが、俺の心を蝕む。
それに、今更後悔したところでもう遅い。
彼らはすでに、悪魔にはもうなれないのだから。
静かな世界に、一つの断末魔が響き渡る。
その声に弾かれるように、見張りの兵士が目を覚ました。
「な、なんだ!?」
彼は大急ぎで階段を駆け上がっていく。
俺はそんな彼の姿を見送った後、暗闇に向けて呟いた。
「……始まったな、ニコライ」
「ああ、始まったね。君も上に来るかい?」
「そうだな。その前に、これを外してくれないか?」
俺は暗闇に向けて、後ろ手に鎖で縛られた手を見せる。
彼はそれを慣れた手つきでペンチのようなものを使って破壊し、影となって外側のカギを開けてくれる。
「さあ、出なよ。隣にいるのが君というのは少々不服だが、それ以上に俺は外が見たいんだ」
「……同感だな。俺だって、何が悲しくて白髪交じりのおっさんと夜景を見なくちゃならないんだ」
彼は俺の軽口には反応せず、そのまま上へ行ってしまう。
俺もそんな彼に続いて階段を上るが、城の中には誰もいなかった。
当然だ。だってこれは、俺達が仕込んだことなのだから。
「上にバルコニーがある。来なよ」
彼はそれだけ言うと、先に行ってしまう。
俺も誰もいなくなった城内を見回しながら彼の後を追いかけると、言われた通りバルコニーにつき、そこから夜景が一望できた。
先についていたニコライが軽く手で促してくる。
下を見ると、緑色の肌をした異形の者たちが、人間たちを襲っていた。
各地では火の手が上がり、突然の出来事にこの国にいる者すべてが混乱している様子だった。
俺はバルコニーの一角に上り、座りこんでそんな街並みを眺める。
「……魔物化、か」
「ああ。俺達が襲撃の時に、教皇様の魔力をちょっと川に混ぜただけで、こうなるとはね。本来なら水を狙うなんてのは禁じ手なんだろうけど……ま、これも教皇様の意思だ」
「あんたは、何も思わないのか?」
「綺麗言かい? 賢者様らしくもない」
「そうじゃない。達成感とか、なんでも感じたことでいいんだ」
ニコライは一度こちらをじっと見ると、そのまま街並みに視線を戻して答えた。
「つまんねえな、だ」
「え?」
「俺たちは宗教だよ? 邪教だろうが正教だろうが、それでも宗教だ。敵を倒せばいい喧嘩屋とは違う。ましてや、こんな勝ちに何の価値を見出せっていうんだ?」
「……ニコライ」
「おっと、勘違いはいけないねえ。俺は自分の手で敵をじわじわなぶるのが好きなだけさ。別に、正義に目覚めたとか、そういうつもりは微塵もないよ」
「ああ、わかってる。アンタは畜生だよ。それも、とびっきりのな」
その言葉を、ニコライは一笑に付す。
次の瞬間、背後から俺たちに声をかける者がいた。
「……脱走者ラザレス、そして、ニコライだな?」
「来たよ。無粋な輩が」
ニコライはやれやれと言った風に手を上げると、後ろの男がさらに声を張り上げる。
俺はそんな彼を、背中で見つめた。
「私の名は『ノイマン』。家名は、貴様らに教える道理などない」
「……自己紹介中申し訳ないんだけどね、あー、ノイマン?」
ニコライは影に溶け込むと、瞬時に彼との距離を詰める。
そして、凄むような低い声で話し始める。
俺はそんな彼をちらと見た。
「少しうるさいね」
そう言うと、彼はゆっくりと右腕をノイマンに差し向ける。
その行動にノイマンも危機感が働いたのか、大きく距離を取ることで答えた。
「おや、運がいい」
「黙れ! 貴様ら賊徒どもが口を開くな」
「だってさ、ラザレス」
「そうか。勝手にやっててくれ」
息をつき、背中を向ける。
どうせ、勝敗は決まっている。
ノイマン。その名前と姿は一度城で見たことがある。
多少肌が焼けた巨漢で、よく大声で城の兵士たちを怒鳴り散らしていた。
「貴様ら、この国に何をした!?」
「おいおい、俺らがやったって証拠はあるのかよ?」
「ふざけるなっ! くそっ、まさかベテンブルグ卿の仕業か?」
……どうして、彼女の名前が出てくる?
ニコライもそう思ったのか、尋ねるように言う。
「……ベテンブルグ?」
「ああ。英雄の一人であるラザレスがそちらにいるのだ。私は以前、貴様とベテンブルグが話していた姿を見た! それもとても親密そうにな!」
「へえ。それで、ベテンブルグの名前が出たのかい?」
「ああそうだ。貴様達の思惑など、聡明なイゼル国王陛下の掌の上だ!」
彼がそう言い終えると、ニコライから声が投げかけられる。
「だそうだよ、ラザレス? どうする?」
「……知るか」
「あら。いいのかい?」
「そんな馬鹿の始末など、俺が知ったことか。殺したいというのなら、ニコライに任せよう」
「……じゃあ、任されるとしよう。来なよ、えーと……ノイマン?」
「その油断が、命取りだ! 死んでもらうぞ、ニコライ!」
凄まじい轟音とともに、床が砕け散る音が耳いっぱいに広がる。
そして、しばらくすると、一人、倒れる音がした。
足元には、血が流れてきている。
「……さて、帰るか。ラザレス、君も来るかい?」
「俺は……どうするかな。この国ももう時間の問題だ。これ以上、お前たちの味方をするつもりはない」
「おいおい、そりゃつれないでしょ。俺達はともかく、リンネ達に何も言わずにどっか行くってのは、流石の俺でも引くぜ?」
……確かに、彼女たちには恩がある。
「そうだな。礼だけ言って、俺は……マクトリアに向かう」
「……マクトリア、ね」
「その言い草だと、やはり大方のことは知っていたんだな」
「まあ、そりゃあねえ。『賢者』の法だし、賢者のことくらい枢機卿の俺が知ってないと」
マクトリアに行って、シアンに会う。
……それから、俺は命を絶つ。
もう、賢者の法にも、イゼル側にもつくつもりなどない。
「それで、シアンに会ってどうするのさ? まさか、会って許してもらおうってんじゃないでしょ?」
「……ああ。俺はただ一言、アイツの口からききたいだけだ」
「へえ。そりゃ何を……と聞くのは野暮かい?」
彼はそう言って口をつぐむ。
俺は彼女の口から聞きたいだけだった。
『お前は間違っていた』、と。
……そうすれば、俺の何かが救われるような気がしたから。
もう、当初考えていた彼らを殺す、という気持ちは失せていた。
疲れたのだ。何もかもに。
殺戮者という、汚名を背負うことにすら。
俺達の周りには、紫色の霧が渦巻いていた。