13 過去
突然のことだった。
突然、両親は別物へと変貌してしまった。
壁を白に塗り、窓も扉も木の板で封鎖し、明かりという明かりをすべて排除した。
そうして、母親は俺達にこう言った。
「もう、喋っちゃ駄目よ。言葉は、人をおかしくするの。ね、可愛い我が子でいたいのなら、一言も発しちゃ駄目」
幼い俺には、わからなかった。
彼女が、狂っているということに。
勿論、疑いなんて持たなかった。
最初のころはよかったと思う。
狂っている世界を理解しきれなかったのだから。
父親も、母親も、何も言わなかった。
文字通り、『何も言わなかったのだ』。
だが、当然こんな生活をしてしまっていたため、食料を尽きてしまった。
俺達だって勿論腹が減る。そして、何より俺は■歳でシアンに至っては■歳なのだ。
その時、シアンは……破ってしまった。母親だったものとの約束を。
「お母さん、お腹すいた……」
数か月ぶりに聞いた声に、俺は少し安心感を覚える。
……その直後、彼女の頬にすさまじい速度で平手が飛んできてしまっていた。
手加減などしていなかったのだろう。彼女の体が吹き飛び、そのまま壁にぶつかってしまった。
「喋るなって言っただろうが!!」
目をひん剥いて、ヒステリックに叫ぶ母親。
優しかった母親の変貌に、頭から出血しているシアンの姿は、少年の俺を精神的に追い込むのに十分すぎた。
「……ああ、そうだ。そうよね。喋れるのがいけないのよね。シアンは何も悪くないの。ねえあなた、この子ののどを焼いてしまいましょうか」
「そうだね。その方がいい。シアンだって、痛いのは嫌だろう? なら、痛いのはこれで最後にしようじゃないか。大丈夫、全てが終わったら元通りになるからね」
父親はそう言って、どこからか鉄の棒をトングでつかみ、母親はその先端を炎の魔法で炙り始める。
その時の二人の狂気的な表情が、久しく見ない彼らの笑顔だったことが、俺に恐怖を植え付けさせ、気が付いたら腰を抜かしてしまっていた。
同時に俺は、彼らに■■を抱いてしまった。
「ごめんなさい! ごめんなさい! もう喋らないから、もう喋ったりしないから! だからやめて、お父さん、お母さん!」
「ほんっと、うるさいなあ。シアン、もう喋れないように念入りに焼いておこうか。もう二度と、僕たちを追い詰めないように。もう二度と、僕たちの心を蝕まないように」
「ええ。……ほんっとう、うざったらしいったらないわ。今も無垢な子供の声のふりをして、私たちを追い詰めて、あざ笑って! 今も笑ってるんでしょう!? 憎いんでしょう、私たちが!!」
そんな時、二つの打撃音が鈍く響き、二人はそれきり何もしゃべらなくなってしまう。
視線の先に会ったのは、ザールの姿だった。
それを見たシアンは、安堵からか、それとも恐怖からか、混乱したように泣き始める。
「……あ、ぁ……ザール……」
「逃げよう、二人とも。二人が起きる前に、出来るだけ遠くに」
「でも、お父さんが、お母さんが……」
「シアン。二人は死んだんだ。死んだんだ、この悪夢も」
そうは言うが、二人はまだかすかに呼吸をしている。
俺は……俺だけが、二人が生きていることを知っていたのだ。
「……ごめん、ザール、シアン。二人だけ先に行っててほしい」
「なんで!? ■■■■も、早くしないと二人に殺されちゃうんだよ!」
「ありがとう、ザール。でも、俺は忘れ物を取りに行かなくちゃいけないんだ。だから――」
俺は途中で言葉を打ち切り、二人に笑顔を見せる。
そこで二人は安心したのか、何とか扉の木の板をけ破り、外に出る。
反対に俺は、部屋の奥……台所に向かっていた。
そこにあるまな板の近くには、包丁が置いてある。
俺はそれで、二人を――。
雨上がりの石畳、二人の男女がいた。
片方は傷を抑え座り込み、片方は立ってその人物を見下ろしていた。
「……ザール、帰りましょう。ここに、ラザレスという人物はいませんでした」
「……そうか。それが、お前の答えなのか」
二人とも、目を合わせないまま話し続ける。
お互い独り言のように、語り続ける。
「答えじゃありません。事実です。あれが、あんなのが……ラザレスであるはずがありません」
「そうか。そういう考え方も、あるか……」
ザールと呼ばれた男は、うつむいたまま皮肉に笑い、彼女に語り掛ける。
「……なあ、貴様に両親は居るか」
「……なんですか、急に」
「少し、『奴』の昔話がしたくなっただけだ。気に入らないのなら、独り言と思って流してくれても構わない」
女性は頷きながらも、動く気配はない。
それを確認したザールは、ゆっくりと語り始めた。
「奴は、奴の両親は、幼くして狂ってしまった。理由はわからないが、ともかく突然のことだったんだ。その事実は奴と、奴の妹……そして、私の人生を、大きく狂わせた」
「……その、妹さんは、今は……」
「さてな。私にはわからない。……だが、生きていたのなら、十中八九綺麗ではない感情に染まっているだろう」
「……」
「続けるぞ」
ザールは自身の服を破り、患部であるわき腹に巻き始める。
その間も、彼は自身の口を止めなかった。
「ある日、奴は自分の両親を殺した。そして、自分という存在そのものを殺した。一夜にして、三人、殺してしまったんだ」
「……それって」
「ああ。奴の本性は、貴様の知っている『ラザレス』に近い。だが、奴自信が、両親に育てられた『ラザレス』であるということに耐えきれなかったんだ」
「でも、それは……そんなのって……」
女性は、口を閉じる。
その言葉に続く『しょうがない』という単語そのものが、彼自身の人生を愚弄することに気付いてしまったからだ。
「その日から奴は、両親のことに言及するのをやめた。名前も捨てた。そして、同時に今の……『賢者』の性格になった。笑わず、それでいて、誰にも気を許すことはない。孤高の、『賢者』に」
彼はよろめきながら立ち上がると、フォルセの街路を壁に手をつきながら歩いていく。
その際に、患部を押し当てている布が照らされ、元々茶色だった服が赤黒く染まっているのを、女性は確認した。
「……それは、ラザレスに?」
「そうだ。……貴様は、どうする? 私はまだ、奴を……『賢者』を倒すのをあきらめたつもりはない」
「私、は……」
それきり、女性は黙り込んでしまう。
そんな彼女の様子を確認した後、彼はまた独り言ちに語り始める。
「一つ、貴様に伝えておこう。奴の『賢者』という外面は奴自信を守る鎧そのものだ。それを失くすというのなら……それがいかに残酷なことか、理解しろ。もし半端な気持ちで『賢者』を否定しようというのなら、奴の友として貴様を許すことはできない」
「……」
「これは俺達『家族』の問題だ。安易に踏み入っていけないということを、理解しておけ。ソフィア」
そう言って、彼は饒舌だった口を閉じ、これ以上語ることはないとばかりに歩き始める。
女性は……ソフィアには、まだ答えが出せずにいた。