9 記憶
女性は、ペンを持ったまま窓から雨雲を見つめていた。
その意識を遮るかのように紅茶を注ぐ音が部屋に響き、一杯になったカップが机の上に置かれる。
「ベテンブルグ様、何を見ていらっしゃるのですか?」
「ありがとうございます、メア。なんでもないんですよ。雨が降ってるなと思いまして」
「最近だと珍しいですよね。ここのところずっと晴れでしたからね」
「ええ。雨だとどうにも筆が乗りませんね。やはりこの書類は明日に……」
「駄目ですよ。あともう少しなんですから」
メアと呼ばれたメイド服を身にまとった女性が腰に手を置き、もう一人のベテンブルグと呼ばれた女性に注意する。
別に特段おかしくはない、いつもの日常だった。
彼女もペンに目を落とし、書類に目を通していく。
その時に、書類を走っていたペンが急に足取りを止め、ソフィアが顔を上げた。
「そういえば、ラザレスは何をしているのでしょうね」
「おや、おやおや? 気になっちゃいますか?」
「……からかわないでください。友達が連絡一つもくれなかったら普通気にしますよ」
「そうですかぁ? その割にはしばらく音沙汰なしのザール騎士団長を心配している風には見えませんが?」
「別に、ザールとは友達でもなんでもありませんから」
「なるほど。ラザレス様も大変ですね」
何故そこでラザレスの名前が出てくるのかわからず、ソフィアは首を傾げる。
そんな二人の空間に、一つのノックとともにあるニュースが飛び込んできた。
「報告します! フォルセにて賢者の法の再興が確認されました! そのことで、緊急会議に参加していただきたく参りました」
その言葉は、先ほどまでの和やかであった空気を一変させるには、十分すぎるほどだった。
賢者の法。
その名前に、彼女は聞いたことがある。
「……賢者の法、ですか」
「はい! オズルド様の報告であるため、確かな情報かと!」
オズルドという名前を聞くと同時に、ソフィアの表情が苦虫を噛み潰したようになる。
彼は密売や奴隷売買など、黒い噂が常に付きまとう男だ。
性格の方も決していい方とは言えず、そのことがソフィアの苦手意識に拍車をかけていた。
「わかりました。メア、少し行ってきますね」
「はい。美味しい紅茶を淹れて待っていますね」
彼女が会議室の重々しい扉を開けるとともに目に入るのは、数人の重鎮と、その中心に鎮座しているイゼル国王の姿だった。
ソフィアがそんな彼らに深く礼をした後に席に座ると、見かねた重鎮の一人が口を開く。
「さて、この件についてどれほど知っているのか。聞かせてもらおうか、ベテンブルグ卿?」
「……どれほど、と言われましても。この件については今しがた知らされたばかりですので」
ソフィアはできる限り冷静を装うように答えるが、それが彼にとっては余計に不愉快だったようで、立ち上がりがなり立てる。
「ふざけるなっ! この件について、貴様は無関係を主張するつもりか!」
「勿論、数年前の遺恨は未だ忘れてはおりません。ですが、それと賢者の法の再興は別件で、私が責められるいわれはないはずです」
「なるほど……あくまで、白を切るつもりなのだな」
彼の激昂の理由に心当たりがないため、ソフィアは段々と困惑が隠せなくなってくる。
だが、そんな彼女に助け舟を出すかのように、一人の男が口を開いた。
「もうよい。この様子では、ベテンブルグ卿が関係しているとは考えにくい」
「ですが、陛下……!」
「よい、と言っている。それとも私に恥をかかせるつもりか?」
ねめつけながらそう語る彼の姿には、確かに王の貫禄があった。
それを間近で見た彼は、先ほどの様子とは裏腹に借りてきた猫のようにおとなしくなってしまう。
しかし、それでも彼女の気は晴れてはいなかった。
「さて、ベテンブルグ卿。貴公はこの件とは無関係ということで構わないのだな?」
「はい。少なくとも、賢者の法の再興については関知してはいません」
「……再度確認する。本当に、関係ないのだな」
「……? はい」
彼女の答えに一度息をついた後、厳かに彼は口を開く。
その時の彼の言葉には、今一番聞きたくはない彼の名前があった。
部屋に戻ると、彼女は目の前にあるソファに横たわる。
だが、反対に彼女の頭の中はこれ以上ないほどに混乱していた。
「……どうして、ですか」
何とかひねり出す声。
しかし、あまりにもかぼそすぎる声のため、誰かに届く前に消えてしまう。
しかし、それでも……彼女の小さな胸を締め付けるには十分すぎるほどだった。
「ベテンブルグ様、お疲れさまでした。それで、今後の方針は……」
「……明日、ザールとともにフォルセへ向かいます。それまで、寝かせてください」
「え? ですが……」
彼女は一度窓の外をちらりと見た後、もう一度ソフィアの顔に目を落とす。
そして、何かを悟ったかのようにほほ笑むと、そっと毛布を掛けた。
「かしこまりました。後の書類は私の方で片づけておきますので、どうぞごゆるりと」
「……ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」
「いえいえ」
彼女はクッションに顔をうずめ目をつむり、心の底からメアに感謝をする。
同時に、彼女をこの件に巻き込みたくない、とも。
しばらくして、ノックの音がこだまする。
彼女は目を擦りながら、不明瞭な頭でなんとか「どうぞ」と応じる。
「私だ、ソフィア」
「……ザールですか」
「その様子だと、聞かされたようだな」
彼は部屋に上がり込み、扉を閉めてソファにもたれかかる。
彼女もそれに倣いソファから体を起こし、彼と向き合う。
「何の用ですか。出来れば、早く済ませてください」
「安心しろ。私だって長居するつもりなどない」
彼はそう言って一度息を吐くと、膝に頬杖をついた。
「明日は早朝六時に出発する。それまでに支度をしていけ」
「……それだけですか」
「…………そうだ。それを伝えに来た」
そう言うと、彼は立ち上がり部屋から出ようとする。
そして、ドアノブを握った後に一度ソフィアの方へ振り返った後、そのまま出て行ってしまった。
彼がいなくなった後に、ソフィアは窓の外を眺める。
まだ、雨は降り続いている。
「……う……ぁ……」
誰もいないのを確認した後、彼女は声を押し殺して泣き始める。
ずっと信頼してきた、ずっと背中を追い続けていた存在に、裏切られた。
その事実は、彼女の背中には大きく、冷たく重いものに感じられた。
「……う……ぅ、あ……」
声を殺し泣き続ける彼女の脳裏に、様々なことが思い浮かぶ。
私が側にいなかったからだ。
私が見守ってあげられなかったからだ。
そんな自責の念が、彼女の後悔という感情を膨張させ続けていた。
「ラザレス……ラザレスっ……!」
彼の名を呼ぶ。
だけど、勿論来るわけがない。
でも、呼ばずにはいられなかった。
しかし、たった一つの記憶が、彼女の壊れそうな心をどうにかして守っていた。
それは、どこか遠い、いつのことだったかわからないような、あまりにも不鮮明な記憶。
薄暗いどこかの場所で、彼女はラザレスと口付けを交わした。
夢で見ただけかもしれない。
それでも、そんな記憶が、たったそれだけの記憶が、彼女の心を守り続けていた。