4 喧騒
ある天気の良い日のことだった。
俺の家は森の中にあって、木漏れ日を感じながら妹と追いかけっこをしていた。
このことは、俺たちが小さなころから続いていて、今後もしばらく続いていくと思っていた。
そんな時、道の真ん中に一人の赤い髪が特徴的案少年が倒れているのをシアンが見つけた。
彼は息も絶え絶えで、ピクリとも動かない。
ただ、そんな時彼は一言だけ、「ご飯」とつぶやいた。
俺は昼飯のために持っていたパンを彼に分け与えると、よろよろと手をパンに乗せ、そのまま口へと運び、大急ぎで食べ始めた。
だが、当然そんな食べ方をしたのだから気管に入ったのだろう。
今度は死に物狂いで咳をし始めたのをみて、俺達兄妹は大急ぎで彼の背中を叩いて、詰まったパンを吐き出させた。
俺はそんな彼を担いで近くにある川の上流へ連れて行き、そこでもう一つパンを彼に与えた。
今度は流石に学習したらしく、ゆっくりとパンを食べていく。
そして、川の水を飲んだ後、ゆっくりと顔をこちらに向けた。
「ありがとう、ございます」
彼の言葉は、街にいた同年代の子供たちを知っている俺達には意外に思えた。
その時の俺は八才だっただろうか? なんにせよ、敬語というものは大人が使うもので、子供が使うのは変という考え方が根付いていたのだ。
しばらくそんな少年の様子に面食らっていると、彼の方から話しかけてきた。
「あの、ここはどこなのでしょう……?」
「……あ、えっと。森、だよ?」
シアンは見ればわかることをおずおずと話すが、そのことを笑う様子は彼にはなかった。
俺はそんな彼に手を差し出し、こう言った。
「とりあえず、俺の家に来いよ。迷子だったら父さんたちが助けてくれるだろ」
「……えっと、自分の家がわからなくて」
「自分の家がわからない?」
「はい。……その、自分の名前も」
……その頃の俺は、記憶喪失という言葉を本で知っていた。
だが、それがどういったのかはまだ理解できておらず、目の前にいた彼が記憶喪失だとはつゆ程にも思っていなかった。
だけど、それでも俺は彼の言葉を信じた。
「……わかった。じゃあさ、分かるまで家にいろよ! 俺が父さんたちに頼み込むからさ!」
「兄ちゃん! お父さんたち怒るかもしれないよ!」
「大丈夫だって! それに、今あいつを見捨てたらそれこそ父さんたちに怒られるだろ!」
「むぅ、確かに……」
「そうだろ? じゃあ、決まりだな!」
俺は差し出していた手から無理やり彼の手を取り、俺の家へと連れて走っていく。
そんな時、ある物語の主人公の名前が頭に浮かんだ。
「……『ザール』」
「え?」
「名前が思い出せないんだろ? じゃあさ、ザールって名乗れよ!」
「……ザール。ザール、か」
彼は何度もその名前を口の中で繰り返していた。
だけど……。
「その物語の内容は、よく覚えていない」
俺は目をつむりながら、夢の中の出来事に追伸する。
ザールと出会った時の話。
まだ俺たちが、普通の人間であった頃の話だ。
……いや、俺やシアンは人間ではなかった。
両親でさえも、人間ではなかったのだ。
くだらなく、救いのない話。
俺は起き上がり窓の外を見る。
空はすでに暗く、点々と星が煌めている。
窓の隙間から吹きすさぶ、何か言いたげな風。
それさえも、今の俺には喧しく感じられた。
「起きたか」
扉には、燭台を持っているユウと足元に抱き着いているカレンの姿があった。
ユウは部屋のあちこちに備えられている燭台に火をともしてから、手元の蝋燭を吹き消した。
「ずいぶんと疲れていたようだな。もう深夜だぞ?」
「……なら、カレンを寝かせた方がいいんじゃないのか?」
「なんだ、バレたか。冗談だ、今は下で店を開かせてもらっている。良かったら晩御飯くらいなら作るぞ?」
「……店? 晩飯というと、飲食店か?」
「まあ、そうとも言えるな」
彼女のどちらともつかない答えに眉を顰めると、笑いながらこちらの手を取り無理やり連れて行こうとする。
「ほらほら、明日からは働いてもらうんだ。今のうちに店に慣れてもらわなくては困る!」
「……働く?」
……ああ、そういえばそうだった。
今の俺は金をすべて家に置いてきたことで一文無しだった。
だが、飲食店など俺に務まるだろうか?
そんな考えを吹き飛ばすように、俺を下の階へと連れていく。
まだ頭がハッキリとしないままだったため、彼女の無理やりなエスコートを拒否する言い訳は思いつかなかった。
「かんぱーい!」の声とともに、涼しい音が響く。
見ると、複数人の男たちがテーブルを囲って、グラスに注がれた酒をそれぞれ飲んでいた。
他のテーブルにもちらほらと客がいて、カウンター席にも数人は座っている。
……中々に盛況しているようだ。
「ユウちゃん! その青年があれかい? その、ユウちゃんの家に住むって言っていた男かい?」
そんなことを思っていると、初老の男性が隣にいるユウに話しかける。
顔は赤い。どうやら酔っぱらっているようだ。
「ああ。ラザレスという。よろしく頼む」
「ラザレスって言うんかい? いくらユウちゃんが可愛いからって、襲ったりしたらここにいる奴らが黙ってないからね!」
「フフッ、安心しろ。私だって剣は使える」
「そうかい? なら安心だ! リンネちゃんもいることだしね!」
そう言って、その男性は笑い始める。
……ユウも一緒になって笑っている。多分、慣れているのだろう。
「とりあえず開いている席に座れ。軽く何かふるまわせてもらおう」
「じゃあ、何か簡単に作れるものを一つ」
「わかった。じゃあ、少し待っててくれ」
俺は近くにあるカウンター席に座り、料理を待つ。
だが、待っている間にも周りにいる喧騒は止まるわけもなく、がやがやと騒ぎ続けている。
……どうにも、こういった雰囲気は苦手だ。
そんなときのことだった。
「おいアンちゃん。お前か。ユウちゃんの家に転がり込んだ狼ってのは」
「……狼かどうかはわからないが、ユウの家にお世話になることになった」
「『ユウ』? テメェ、ユウちゃんのこと呼び捨てとは、いい度胸じゃねえか!」
そう言って隣に立っていた筋肉隆々な男が何かを振り下ろす。
見ると、目の前には大きなグラスに注がれた酒があった。
「まあこれが俺たちの『うぇるかむどりんく』ってやつだ。まさか、飲めないなんて言うわけないよな?」
……安い挑発だ。
俺は無視して水に手をかけると、カウンター側にいたユウが口を開いた。
「ラザレス、受けてやれ。つぶれても、私が面倒を見る」
ユウの言葉が俺の了承だと勘違いしたのか、男はニヤニヤしながら立ち上がった。
他にもその言葉を真に受けた男たちがわらわらと集まってきて、どうやら断れる雰囲気ではなくなってしまった。
……今更健康を気にする必要もないか。
「いいだろう。喧嘩を売る相手を間違えたこと、その肝臓に刻み込んでやる」
「へッ、そうこなくちゃな!」
しばらく飲んで、もうすでに相手の男は立てなくなっていた。
俺も頬杖を突きながら倒れている彼を見下ろすが、あと一杯飲まされていたら立場が逆だっただろう。
「アンちゃん、やるじゃねえか!」
「……ふん」
俺はそれだけ言って、倒れている彼から背を向ける。
だが、それでもその中の四、五人は俺の周りから動く気はなかった。
「なあアンちゃん、アンタどこから来たんだ?」
「……イゼル」
「イゼル? そりゃまた大都会じゃねえか。何でこんな田舎まで?」
「……まあ、色々あった」
「そうだよなぁ。色々あるもんなァ。特にアンちゃんみたいな年齢だと、俺も色恋沙汰に振り回されてよぉ……」
……色恋沙汰ではないのだが。
だが、彼目線からしたらきっと親身になって話しているため、無視するわけにもいかない。
「俺も俺も。服屋になるって言って、親に反対されてよ。無理やり家を出てったんだ」
「……それは、帰った方がいいのでは?」
「ああ。そんで昨日帰ったらよ、ずっと嫌いだった親父に『大きくなったな』って言われてよ。俺、年甲斐もなく目頭が熱くなっちまったんだ」
そう言って、彼は腕で目を隠して泣き始める。
……泣き上戸というやつなのだろう。
「俺も。昔村で一番頭悪くて、何もできなかったんだけどよ、今ここで俺と似たような子供たちに勉強を教える先生やってんだ。本当、人生って不思議だよなァ」
それきり、彼らは思い思いの過去を俺に話し続け、結局閉店まで放してくれることはなかった。
閉店の後カウンターにもたれかかり、向こう側のユウに話しかける。
「……疲れた」
「ふふふっ、そうか。まあ、初めてここに来た人はみんなそうなんだ」
……一見さんお断り、という奴だろうか?
いや、あの雰囲気だとむしろ一見さんを求めているようにも感じた。
「まあ、悪い奴らじゃないんだ」
「……それは、わかった」
「そうか。まあでも、その顔を見る限り言うまでもなかったな」
「……顔?」
俺は自分の頬を触るが、違和感はない。
彼女はパスタをカウンターに置いて、同時に一言添えた。
「笑っていたぞ。さっき」
「……俺が?」
「ああ。初めて見たな、ラザレスのそんな顔」
……俺が、笑った。
実に、何十年ぶりだろうか。
俺はパスタに手を付けるが、どうにも口の中に入らない。
どうやら俺は、あいつらの話に胃もたれを起こしてしまっていたようだ。
だが……怒る気にはなれなかった。




