111 生きる希望
俺たちは彼らがいなくあった後、その建物から出て、夜の街を走り続けていた。
既に夜が更けているためか、周りに人がいる気配はない。
静まり返ったレンガの家々に、ただ水を吐き出し続ける噴水。
そんな中、俺たちの足音と呼吸の音だけがこの静寂の中で止まずに鳴り響いていた。
「フェレス、まだ走れる?」
「平気」
「そっか。方向はこっちであってるよね?」
「うん」
俺は彼女がうなずいたのを見て、もう一度走り始めた。
周りに誰もいないため、こうして駆け抜けられるのもありがたい。
……だが、誰も外に出歩ていないことに不気味さも感じていた。
「いつもこんな風に誰も外に出ていないの?」
「うん。……でも、ここまで人がいないのも珍しい」
……平然とそう言うが、彼女もこの不気味さを感じているらしく、周りを見渡し始める。
それに、家の中から物音一つ聞こえないのも不自然だ。
「……走り抜けるのは危険かもしれない。今からゆっくり歩こう」
「どうして?」
「足音で住民が通報するかもしれない。もしかしたら、もうすでに俺のことが外にバレているのかもしれない」
「悪いけど、そりゃ無駄だよ」
俺は突然の声に、一瞬動揺するが、声の主を考えれば自然と落ち着きを取り戻していった。
そして、今俺たちが置かれている危機的状況にも。
「……ニコライ」
「やあ。ずっと見張ってたけど、気付いてなかったのかい?」
「まさか。親切にリンネが教えてくれたよ」
「そりゃ困るね。あいつには今度、サプライズの楽しさについて教えてあげなくてはならない」
「……フェレス、離れてて」
「わかった」
俺の言葉にうなずくと、彼女は駆けだして俺たちの手の届かないところへ移動する。
それを見届けていると、彼は溶けると同時に、俺の目の前に移動する。
俺はそんな彼から距離を取るために後ろに飛ぶと、とんだ先にはすでにニコライの姿があった。
「俺が言ったこと忘れたのかい? なら、もう一度言ってあげよう」
「……ッ!」
彼はそのまま俺の首に手をかけ、そのまま締め上げるように俺の体を持ち上げる。
俺はそんな彼の腕に左手で必死に抵抗するが、元々利き腕ではないほうに、成人男性の力を振り払う力などない。
「貴様の命など、我々がすぐに吹き飛ばせる、とね」
そう言って、彼は不気味に笑うが、それが一瞬ゆがむとともに、俺の首から手を放し後ろへ飛ぶ。
見ると、右腕を突き出しているフェレスの姿があった。
「んー、死者よ。俺に敵対する理由は何だい?」
「……別にない。強いて言うなら、今はこの人の敵が私の敵」
「あらら、どういう手を使ったんだい?」
「名前を与えた。死者なんて腐りきった名前は、彼女に似合わないからな」
「ふーん、名前をねぇ……」
彼は何かを考えるそぶりをした後、不気味に口元をゆがめ、口を開いた。
「そりゃ随分と残酷なことをする。君は今、彼女に『存在』を与えたんだ。我々という世界に拒絶された彼女を受け入れられる、君という世界を与えてしまった。生きる理由を与えてしまった」
「……どういうことだ?」
「わからないのかい? 君がいるから、いてしまうから、生きていてもいい希望を与えてしまう。感情も哀というもの以外残されていない彼に、生きる希望を与えて何になる?」
「……とことん下衆だな、お前は」
「おいおい、俺は心配してあげてんだよ? その化け物が受け入れられる世界なんてない」
「……ッ」
彼女の息をのむ声が聞こえる。
だが、彼はしゃべることを辞める様子はなかった。
「それとも、化け物同士傷の舐めあいということかい? それで君の心の傷が癒えるのなら、辞めておいた方がいい」
「……喋るな」
「俺は善意で言っているんだよ。君の隣にいる『ソレ』は、君がどうこうできる程小さな問題じゃない。わかるね?」
「黙れ」
「もし君に多大な財産があったとしよう。もし君が神にも及ぶほどに慈愛に満ちた人物だとしよう」
「そんなものは、彼女の前には無力でしかない」
「黙れぇっ!」
俺は左手で彼のことを殴りつけるが、全て避けられてしまう。
だが、それでも俺は彼の体にあたるまで殴り続けた。
まるで、駄々をこねる子供のように。
ただ、自暴自棄に彼に殴打を繰り返した。
「……醜いねぇ。実に醜い。君は本当に賢者だったのかい?」
「うるさい、お前に何が分かる! 俺には分かるんだ、親だった人に裏切られた、彼女の気持ちがっ!」
「……わかるから、何だってんだよ」
そういうと、彼は俺の足に足をかけると、そのまま俺はバランスを崩して転倒してしまう。
だが、それでも立ち上がり、彼に攻撃が当たるまで繰り返した。
……しかし、何度やっても、何度やっても彼の体に当てるどころか、かすりもしない。
すると、突然舌打ちしたニコライが俺の胸を押し、バランスを崩したと思ったら、そのまま蹴り飛ばした。
その勢いは先ほどの口調からは想像できないほど強く、壁にぶつかった瞬間口から臓器が飛び出るほどだった。
「その程度の攻撃避けろよ、賢者さん?」
「……お前に、お前に何が分かるんだよ!」
「わかんねえよ。テメェのような軟弱な男のことなんてよ」
「クソが、クソがぁぁぁぁァァァッ!」
ただ立ち上がり、彼を殴り続ける。
しかし、また蹴り飛ばされ、胸の中から何かが飛び出しそうになる。
一歩立ち上がるたびに、体中が痺れ出す。
だが、そんな痛みさえかき消すようにかぶりを振り、吐き出すように叫ぶ。
「うるせぇ、うるせぇうるせぇうるせぇ!」
「……ラザレス?」
「殺す、殺してやる。ニコライ、ここで絶対に殺してやる!」
「ハッ、やれやれ。やっと本気を出す気になったのかい?」
それと同時に、彼の体を殴りつける。
だが、今度は舌打ちをした瞬間に、俺の体が吹き飛ばされた。
そして、数メートルまで飛ばされ、俺の体が地面に打ち付けられ、仰向けに倒れる。
「まぁたそれかよ。馬鹿の一つ覚えかよ」
「……なんでだよ、なんで勝てねぇんだよ!」
俺はまた立ち上がろうとするが、もう体が限界だ。
指一本たりとも動かせない。勿論、足を動かして彼に向かうことも。
にも関わらず彼は俺のわき腹を執拗に蹴り始める。
「魔法も使えねぇ、剣も使えねぇ、呪術も使えねぇ。そんでもって、中身はガキ。テメェは今まで何のために生きてたんだ?」
「……ガ、ぁ」
「本当に無様だよな、お前。だからよ……」
「俺が、救ってやるよ」
そう言って、彼はどこからか一つの短刀を取り出した。
それは俺の腹、胸を伝っていき、俺ののど元で止まる。
そして、そのまま彼は腕を振り上げるが、突然彼の動きが止まった。
「……何でお前たちがここにいるんだい?」
彼はそう問いかけると、その声の主は一度笑うと、そのまま彼の腕から短剣を蹴り上げる。
すると、彼の体は溶け、俺から急激に遠ざかった。
俺はなんとか目を向けてその人物に目を向ける。
「正義のヒロイン見参……なんてのは、あたしには似合わないけどね」
「……なんで、君が」
「ふふっ、聞くんだ? ニコライが生きていても、疑問を抱かないのに?」
「……ああ。そっか。それもそうだね」
「……おかえり、マニカ」
「……うん、帰ってきたよ。ラザレス」
俺は彼女から差し伸べられた手を取り、彼に向き直る。
彼はなおも不遜に笑い、俺たちを見つめていた。
「感動の再開ってやつかい? 涙が出ちゃいそうだねぇ」
「……ありがとう、マニカ。もう大丈夫だ」
俺はそう言って息を吐くと同時に、右腕の先に氷を作り出す。
ただ、少ない魔力から作り出したためか、それともザールに与えられた外傷のせいか、全身がピリピリして、いまにも倒れそうだ。
それでも、何とか立ち上がれている。
「……ラザレス、その力」
「ああ。俺は賢者だ。賢者の力を取り戻した」
「そっか。もう、赦せたの?」
「……」
彼女の言葉に、返答することができない。
ただ黙って彼に斬りかかるが、すぐさま陰に溶け、そのまま出てくることはなかった。
流石にニ対一は分が悪いと思ったのだろう。
俺はそれを確認すると、もう一度地面に倒れた。
「ラザレス!? 大丈夫、今治すから!」
「……ああ、ありがとう」
だが、先ほど倒れた時とは違い、どこか気持ちは穏やかになっていた。