108 恍惚
俺は、自身にのしかかる重さで、目が覚める。
目を開けた先には、白い石で出来た見慣れない天井が視界に入る。
そして、俺はその視線を下に向けると、そこには俺の腹の上に跨っているリゼットの姿があった。
「おはようございます、お兄さん」
「……何のつもりかな。あまりふざけていると、怒るよ」
「怒ったら、どうするつもりなんですか?」
彼女は、俺を挑発するように笑う。
そんな彼女を俺の腹の上からどかそうとするが、左腕が縄でベッドに縛りつけられていて、うまく動かせない。
魔法で氷漬けにしようともするが、何故かその縄には魔力が通らず、右腕を作り出すこともできなかった。
そんな俺を意地の悪い笑みで見下ろす彼女を見て、流石に腹に来るものがあった。
「何のつもりだ? ……ふざけているのなら、すぐに止めろ」
「ふざけてこんな事しませんよ。私の愛が、お兄さんをこうしてしまったんです」
「……愛?」
一瞬、意味が分からなかった。
愛なら、余計にこんなことをする理由がない。
しかし、理解できずにいる俺をよそに、彼女は恍惚とした表情で語りかける。
「ええ。あの夜からずっと、ずっと、ずぅっと、お兄さんのことばかり考えてたんですよ。お兄さんが初めて私を助けてくれた時から、お兄さんのことしか考えられなくなっちゃいました。その責任、とってくださいね?」
「責任、か。命を持って償えばいいのか?」
「まさか。そんな野蛮な事しませんよ」
……なら、どうすればいい?
こういったことは初めてで、上手く思考がまとまらない。
「私と、結婚してください」
「……え?」
「付き合ってください。懇ろになってください。生涯の……伴侶になってください」
そう語る彼女の眼には、狂気的なものがあった。
……だが、今ここで断り切れる状況じゃないことは、分かっている。
なら、今俺に出来ることは……。
「……答えを言う前に、一つ聞かせてくれないか?」
「『聞かせて』? 今有利な立場なのは貴方と私、どちらですか?」
「頼む。君についての質問なんだ」
「……なるほど。いいでしょう」
しぶしぶと食い下がってくれるリゼット。
あまり押しが強い少女ではないため、元々話せば聞いてくれるという確証はあった。
……だからこそ、この行為に違和感があったのだ。
「あの霧は、君の力?」
「はい。私の呪術です。瞬時に私のもとへ移動させる力で、範囲としては霧の届くところまでならどこまでも」
「……代償は?」
「流石にそこまでは。結婚した後に教えてあげますよ」
逃げられないと思っているのか、勝ち誇った笑みを浮かべるリゼット。
だが、魔法も呪術も使えない今の状況では、逃げられないのは事実に他ならない。
「今度は、私から質問してもいいですか? ラザレス」
「……ああ。答えられることなら」
俺の言葉にニッと笑い、俺の顔に極限まで顔を近づける。
そして、口を開くと同時に、脅すように真顔になった。
「聖核の場所を教えてください」
「……なんの、ことだ?」
「とぼけても無駄です。既にダリアがそちらに裏切ったことなど知っています。なら、聖核のことも当然知っているはず」
「俺の、研究室にあったはずだ」
「へえ?」
彼女はそういうと、もう一度こうこうとした表情に戻る。
俺は同時に安堵感に襲われた。
その直後、彼女はもう一度真顔に戻ってしまう。
「嘘、ついちゃうんですね」
それと同時に、俺の意識が段々と薄れ始める。
まるで、触れ合っているだけなのに血を抜かれているような、そんな症状に襲われてしまう。
「なんだ、これっ……!?」
「魔力を吸い上げています。本当のこと言わないと、お兄さん死んじゃいますよ?」
「……殺したら、ハァッ、結婚できないんじゃないのか?」
「ご安心してください。お兄さんが物言わぬ死体になっても、愛し続けてあげます」
そう語る彼女の眼は本気だ。
……だが、ここでソフィアを売る真似はできない。
彼女を売るくらいなら、文字通りここで死んだほうがましだ。
そう思って歯を食いしばり耐えていると、彼女は突然俺に顔を近づけて笑った。
「それでこそお兄さんですよ。今日はこれで勘弁してあげます」
「……?」
そういうと、彼女は俺の唇に唇を重ね合わせた。
柔らかい。そして、温かい。
だが、魔力を奪われた俺に、彼女に抵抗する力は残ってはいなかった。
そんな俺を見て、恍惚とした表情でつぶやく。
「抵抗できないお兄さん、可愛いなぁ」
そういうと、彼女は部屋から出て行ってしまう。
そして、ドアが閉じられると同時に、部屋が静寂に包まれた。
「……クソッ、魔力を吸い取るなんて荒業、聞いたことねえぞ」
だが、事実縄に対して魔力は通じず、むしろ吸い取られる感覚だけはあった。
今はそれよりも、思ったことを整理しなくてはならない。
まず、彼女がリゼットと断言するには、いくらかの違和感がある。
彼女はザールに恐怖を覚え、景色に対して素直に感動できるほどに純粋な心の持ち主だ。
多分、俺のことが好きだというのなら、直接俺に言いに来るはずだろう。
そして、もう一つ違和感を感じることがある。
彼女があそこまでなるのに、俺はあまり彼女と接触していなかったはずだ。
もし俺に対してあこがれを抱いているのなら、ちょっとでも彼女の理想に外れることをすれば、その恋慕は消え去るはずだ。
だが、その彼女の恋慕は、ちょっとやそっとでは消え去らないほどまで燃え上がっている。
会えない日にちが彼女をあそこまで駆り立てたというのだろうか?
「……本当に、俺が彼女をあそこまでしたのか?」
疑問が脳裏をよぎる。
だが、それと同時に彼女の狂気的な目には見覚えがあったことを思い出した。
四年前、メンティラと初めて再開したダリアが、あのような目をしていた。
もしかしたら、恋愛感情を操作する呪術が、こちら側にいるのかもしれない。
……なら、俺のソフィアへの思いが利用されない理由がわからない。
疑問が尽きない中、突然部屋の中に、パンが入っている加護を持った見慣れぬ少女が入ってくる。
彼女の養子としては、腰まで伸びているぼさぼさの灰色の髪に、ボロボロの布切れ一枚を服としてまとっていて、背丈はリゼットよりも少し高い程度だ。
顔立ちは整っているが、彼女の瞳はまるで深淵を移すかのように光がなかった。
「……誰?」
俺の問いかけに答えず、彼女は俺のベッドに座り左手でパンを食べ始める。
そして、丸形のパンを一つ食べると同時に、俺に話しかけてきた。
「あなたは、フォルセの人?」
「……いや、一応国籍はイゼルだよ」
「そう」
それきり、もう一枚左手で取ったパンにかじりつく。
今度は、チーズやトマトの乗っている、美味そうなパンだった。
……正直、腹がすくからやめてほしかった。
「……君は?」
「わからない。私は生まれた時に、親に捨てられた」
「……ごめん」
「構わない」
そういうと、パンを完食する。
それと同時に、彼女の右腕が俺の手首を縛っている縄へと伸びた。
「解放する前に、一つお願いがある」
「何?」
「私を、外に連れてってほしい」
俺がうなずくよりも早いか否か、彼女は俺の縄に触れた。
それと同時に、縄が突然脆くなり、左腕が自由になった。
「……これは?」
「呪術。右腕で触れたら、触れたものを殺す力」
「……代償は?」
「喜怒と楽。私はその感情、すべて失った。それに、自分ではこの呪術は制御できない」
彼女は何でもないようにそう言うが、声から悲しみがにじみ出ていた。
俺はそんな彼女の肩にコートをかける。
「……インク臭い」
「我慢してくれ」
「いいの? 私、右腕の部分殺しちゃうかもしれないんだよ?」
「大丈夫だよ」
俺は彼女に、自身の右腕だったものを見せる。
それをみて、彼女は目をそらした後、おずおずとコートを着る。
「……やっぱり、インク臭い」
「洗っても落ちないんだ。我慢してほしいな」
俺はその言葉とともに、扉を開け放ち、左右を確認する。
この場所には俺たち以外に人はいないらしく、むなしく扉を開け放った音が聞こえた。
「……そういえば、ここはどこなんだい?」
「フォルセ。本国の、丁度中心」
……ある程度、予想はしていた。
だが、本当に聞かされると、心に来るものがあった。
しかし、ここで辟易なんてしてられない。
俺は彼女をフォルセから出すためにも、一歩ずつ歩き始めた。