知らない、知らない。
「ねぇ、『ラブ』と『ライク』の違いってさ、なんだと思う?」
「別に差異はないんじゃない?」
「相変わらず適当だね、縫さんは」
夕暮れの差し掛かる放課後、東京にある高校の図書館には二人の女子生徒が思い思い過ごしている。一応は文芸部という名目でここに居るが、二人とも文芸部らしいことは何もしていない。一人はスマホを弄っていて、もう一人の少女はなにやら課題をやっているようだ。といっても、ペンを遊ばせているだけで進んでいないようだが。
「そもそもさ、どーでも良くない? 好きなら好き、嫌いなら嫌いで良いじゃん。興味ないなら興味ないで、それでも良いと思うしさぁ」
縫と呼ばれた彼女は、弄っていたスマホを机の上に置き、鞄から炭酸飲料を取り出す。ふたを開ければ、プシュッといういい音がする。
「いやさぁ。もっとこう、興味を持とうよ。いっつもそうじゃん?」
「興味のないものを興味ありますって言ったって、どうせすぐばれるじゃん。自分よりそのことに関して興味関心を持っている人なんて、沢山居るわけだし」
それだけ言うと、縫は勢いよく炭酸を飲み干す。そんな彼女を見て、対面に座る女子はぶすっと頬を膨らませた。
「そーだけどさぁ……、そうじゃないんだよ」
「語彙力をまず何とかしようよ、小難しいこと気にする前にさ」
「何か小難しいことなんて言ったっけ?」
「ついさっきまで『ライク』と『ラブ』の違いがどうこうって言ってたのってそっちじゃん」
ああ! と眼鏡をかけた少女はポンと手を打ち、縫さんナイス! と笑顔になる。そんな彼女を見て縫は溜息をつく。
「そんなんならテストの点数も低いよねぇ」
「うぅ、うるさいよ! 今その話、なにより怖いんだから! 縫さんはもともと勉強が出来るタイプだからわかんないだろうけど……」
成績表、と縫がぼそりと呟けば、あー、あー、しらなーい! と耳を塞いで地団駄を踏んでいる。
「頭良さそうな名前してるのに、本当に残念な子だ」
「慣れてるけど、慣れてるけど腹立つ……!」
「ずっと思ってたんだけど、歌代詩織って『小中高女子高でした』って感じの名前してるよね」
詩織はキョトンと首をかしげ、そうかなぁと首を傾げた。
「頭良さそうな名前、とはよく言われるけど、それは初めて言われたよ」
「見た目はそれっぽいけど中身は程遠いもんね」
黒髪のぱっつんストレートに、赤い眼鏡。スカートは一度も折ることはなく、ボタンは一番上まで閉めている。ネクタイもキッチリ上まで締めていて、『優等生』とい言葉がしっくり来る容姿をしている。とてもではないが、勉強が出来ないようには見えない。
「なんか馬鹿にされてる気がするけど……、まぁ、いいや。でもさぁ、普通な苗字って良いよねー。加藤とか、田中とか。憧れるよ」
「そう? うちの中学、加藤、佐藤、押尾っていて馬鹿にされてたよ」
「それはさぁ、なんか、違うよ……。私が言ってるのと」
「難しいね」
一度会話が途切れてしまう。その隙に、縫はゴミ箱へとペットボトルを捨てに行く。
「そういう縫さんもさ、大分変わった名前してるじゃん。どうも思ったことないの?」
え? と聞き返しながら縫は椅子に座ると、再びスマホへと手を伸ばす。片耳にイヤホンをし、リズムゲームを起動させる。
「だからー、名前について、どうも思ったことないのって」
「あぁ、名前? 普段出来るだけ名乗らないようにしてるからね。あ、新カードじゃん。可愛い」
「半分聞く気ないよね?」
詩織は縫の手元を覗き込む。縫がやっているリズムゲームは、詩織にはよく分からない。二人しか居ないのにこうなってしまうと、彼女はとにかく暇になってしまう。やりたいなと思う反面、彼女はまだスマホ自体をもっていない。
「聞いてあげるから、早く話し進めなよ」
「えぇ、雑だなぁ。普段どうしてるの? 名乗らないようにしようにも、名乗らなきゃいけない場面ってあるじゃん」
彼女はスマホを操作したまま、そうだねぇと考え込む。その間にも指は凄い速さで動き続けていて、詩織はぼんやりとそんな様子を見つつ返答を待つ。
「一日二日の付き合いだろうって人には、『二ノ宮ゆき』とか『神楽坂さき』とかって名乗ってるよ」
「神楽坂も中々だよ……。え、受験もそれで受けた、とかないよね?」
「そりゃあ本名で受けたけど、普段使ってる名前とはまた別だよ? あ、ミスった」
えぇ、と詩織は声を上げる。三年目に突入して初めて知ったことだ。当の本人は、スマホを胸ポケットにしまいつつ言ってなかったっけと頭をかいた。
「聞いてないよ、初耳!」
「狩集って母親の方の苗字でさ。本当は不死川っていうんだよ。でもさ、自己紹介で不死川ですって言い辛いじゃん」
確かに強烈な印象が残るだろう。詩織は頷く。
「あたし思うんだよね。不死川っていう、いかにも不吉な字面なのに『縫う』って漢字つける? 普通つけないでしょ」
「死なない川なら良いんじゃない? 羨ましいよ、裁縫できる人」
女性らしいし、と付け加えれば、縫からのジトッとした視線が帰ってくる。
詩織は料理や裁縫が苦手で、家庭科ではいつもギリギリな3だった。それゆえに出た言葉だったが、どうも縫は気に食わなかったらしい。
「人間、カップ麺にお湯を入れられさえすりゃ生きてけるの。それが出来ればインスタント味噌汁だって作れるし」
「それさ、確かにそうかもしれないけど、不健康で早死にしちゃうよ」
「大丈夫。生き物はいずれ皆ぽっくり逝くんだよ」
さも当然と言わんばかりの、普通な顔で言われてしまい、詩織は少し萎縮してしまう。
「ノリが軽いね」
いつものことではあるが、彼女の口からは重い言葉がポンポンと出てくる。茶化したような口調であったり、さも真面目な顔だったり。詩織には、それが時折怖くてたまらないときがある。
「あたしさ、宗教とかは別に信仰してない。でも、死神はいると思ってんの。死神が死期を決めてると思ってる」
「うーん。それはそれでどうなんだろ」
「何かの事件とかに巻き込まれて死ぬとか、嫌じゃん。だったらさ、イケメンな死神が決めてるって思った方が、心中平和じゃん」
わかんないなぁ。そう詩織が呟けば、それで良いんじゃない? と縫は返した。それでも彼女は納得いかないようで、あまり働いていない頭をうんうんと捻る。
「なんていうかさ。死神がどうのこうのより、自分が頑張るしかなくない? だってさ、自分の人生の着地点だよ? 最終的な。だったら、自分でエンジョイするしかないじゃん。自分で」
彼女はない胸を張ってどうだ! と自慢げだが、縫は相変わらずこれといって興味がなさそうだ。頬杖をついたまま、彼女に質問をする。
「エンジョイする前に死んじゃうかもよ?」
「うぅ? まあ、そうかもしれないけど……。あんまり考えたくないなぁ、死ぬとかさ」
どうなるか分からない。少なくとも、詩織にはその恐怖心が纏わりついている。天国や地獄があるのかないのか。転生というのは本当にあるのかどうか。どうなんだろ、と考えたこともあるが、死なないぶんにはそのことに関しては分からない。
「死ぬときって、本当に走馬灯が流れるらしいね。それがリフレインし続けるから、自分では死んでるかどうか分からないって」
「え、それ無限ループって怖くね? ってやつじゃん」
詩織が目を丸くするなか、縫はまた鞄をごそごそと漁り出す。今度は飴玉を取り出し、一個口の中に穂織り込む。もう一個取り出せば、ひょいっと詩織に投げつける。
「わぁ、ありがとう! ミカンじゃん」
「どーいたしまして。そーいや、自殺者ってさ。自殺する瞬間を延々ループしてるって言わない?」
「なにそれ。怖いよ」
顔をしかめつつ、詩織は飴玉を口に放り込む。本来なら甘酸っぱいミカンの味がするのだろが、今はいまいちよくわからない。
「縫さん詳しすぎない? 死ぬことについて。病み期? 病み期でもあったの?」
「いーや? 宗教とか神話とかに昔興味があって、それで調べてたら転じて色々と。小学生の頃だったかな」
「あぁ……、別の病気」
今の彼女自身、容姿がどことなくそれっぽい。黒髪に一本赤いメッシュを入れており、本人は自前だと言い張る青い瞳。夏でも冬でも黒いロングパーカーに手袋、タイツを欠かさず、肌は極力見せようとしない。
一度肌を見せない理由を聞いたことがあるが、特に何もないけどカッコいいからと答えていた。
「なに、その憐れんだ目。別に、体のどこも疼かないよ」
「いや、うん。小学生で神話とかに手を出してる時点で中々じゃないかな」
「海外のことかもっと早いしなぁ」
それは色々と別じゃない? と突っ込めば、彼女はそう? と首を傾げた。
「宗教ってさ、大人になってから入るとかじゃない限り、洗脳だと思うんだよね、あたし」
「それ言い始めちゃったら、色々と洗脳じゃない?」
「例えば?」
青い瞳にじっと見られ、詩織は少したじろぎつつも、たとえ話を引っ張り出してくる。
「例えばさ、教育とか、道徳? 悪さしちゃ駄目ー、とかも、ある意味洗脳じゃん」
「教育と洗脳とかの線引きや定義って難しいね」
「人によって、何を大切にしてるかとか違っちゃうしね」
縫はとことん好きなものを追及できるタイプだ。それ以外は平然と切り捨てることができる。だが、詩織にはそれが出来ない。自分のことより、人が望んでいることや人の意見に考えをゆだねてしまうことも多い。流し流されてしまう。
「答え出てない?」
「え、何の?」
「だから、『ラブ』と『ライク』の違いだよ」
あ、と詩織は声を上げる。『ライク』の『ラ』の字すら、すっかり頭から抜けていた。
「うーん。いや、人それぞれはその通りだと思うし、わかってるよ? でも、そういうことじゃないんだよね。私の言いたいこと」
これでも駄目かと縫は頭をかく。どうやら飽きてしまったようで、さっさと終わらせたいようだ。二人して無言でうんうんと考える。すると、数分した後、縫は手を打つ。
「『恋』を知らないから、『愛』の違いも分からないんじゃない?」
「一理あるんだろうけど難しすぎるよ……」
今からとっさに恋をしろ、なんていうのも無理な話だ。これで振り出しかぁ、と詩織は肩を落とす。
「ていうかさ、なんでそんな疑問が出てきたの」
「縫さんが、『この子可愛い』ってよく言うじゃん。でもさ、『この子可愛い好き』はあんまり言わないでしょ? その違いは何かなって」
縫はあー、と声を上げながら目の辺りを覆う。まさか自分が発端だなんて微塵も思っていなかったのだろう。
「それ、どっちもライクだよ。別にラブじゃない」
「なんでそう言いきれるの?」
「手の届かない人って分かった上で見てるから」
アニメやゲームのキャラクターもそうだが、俳優や女優でも好きな人は少なくない。中には、結婚などをしたらショックだと思う人だって居る。だが、それでも決して指先さえ届きやしないというのは、確かに分かっている。その上で応援し、追いかけている。
「でも、それ、辛くない? 苦しくなっちゃわない? 確かに好きなんでしょ?」
「確かに好きだけど、そういう好きじゃないっていうか。別に、彼ピッピにしたい、とかって思ってるわけじゃないから」
うーん? と腕を組みながら彼女は頭を捻る。首を右に傾げたり左に傾げたり。唇をすぼめたり眉をひそめたりとなにやら顔が騒がしいが、彼女本人は全く気にも留めていないようだ。
「なんか、納得いってないっぽい?」
「いや、なんか、わかんないなって。辛そうだもん」
「まだ早いんだよ」
年変わらないじゃんと詩織は不満げだが、縫はそんな彼女に満足気に微笑んでいる。
「あーあ。高校に入れば青春の一つや二つ、あると思ったのにー」
「まぁ、まだチャンスはあるんじゃない?」
いつも通り、適当な返答。
「これと言ってさ、好きなものとか、出来なかったんだよ」
「うん、知ってる」
詩織の言葉に簡単な返事をしつつ、彼女は鞄を膝の上により、鞄の整理を始める。
「ねぇ、縫さん。そろそろ、下校時間だね」
「知ってる、帰るよ」
アンタも準備しなよ、と声をかければ、うん。と詩織は返事をする。彼女も近場にあった鞄を持ってきて、散らばっていた課題などを詰め込んでいく。その途中で、ふと詩織は手を止める。
「ねぇ、縫さん。明日ってさぁ、来ると思う?」
「来ないかもね」
「あぁ、やっぱり?」
手を動かしつつ話してとせっつかれ、再び詩織は手を動かし始める。今度は準備を終えた後に、再び彼女は口を開いた。
「いつまで繰り返すんだと思う?」
「そっちの気が済むまで、じゃない?」
ごめん。そう消え入るような声で詩織が謝ると、縫は知らないよ、とぼやくように返した。その言葉に、彼女はうつむき、スカートの裾をギュッと握った。
「ねぇ、縫さん?」
先ほどまでとは違い、震えたか細い声。
「何。とりあえず聞いてあげるよ」
「うん、ありがと。そのね、信じてくれないかもしれないけど、確かに、好きだったんだよ」
「そう。分かってたかもしれないけど、あたしは嫌いだったよ」
ハッキリそう告げて、ポンポンと詩織の頭を優しく撫でる。暫くはうつむいたままだったが、少し経つと笑顔で彼女は顔を上げた。
「もう最終下校時間になっちゃうね。帰ろ、縫さん」
二人は学校を出て、それぞれの帰路についた。
縫の家は遠く、バスを二本乗り継いで一時間近くかかる。いつも通りアプリで時間をつぶしつつ、家に帰り着けば食事と風呂をすませて、そのあとに宿題を終わらせる。
眠ろうと布団に入ったあたり、無機質な着信音が流れる。
「はい、もしもし、狩集です。はい、詩織さんのお母さんですか。……そうですか、詩織さんが、亡くなったんですね」
電話を切ったあと、彼女自身もびっくりする程に自然に眠りについた。
翌朝、目が覚めれば普段通りに制服に袖を通し、普通に授業を受ける。そして、いつも通り、放課後は図書館へと向う。
「あ、縫さんおはよう! ねぇ、『ライク』と『ラブ』の違いって、なんだと思う?」