7話 そんなの甘えじゃんかっ!
「べはぁー」
帰宅したゆかりは、真っ先に床に散乱した服に飛び込んだ。案外服が薄くて、普通に肘を打った。睦月とウィンドウショッピングに行って、カラオケに行って、いま帰宅。
「ここがゆかりハウスだよ」
右へ左へ、ゆかりは転がる。服や新聞紙がくしゃくしゃになっていく様は、なんだか愉悦に浸れる。
睦月は廊下に立ったまま、リビングに入ってこない。顔色を暗くして、何かを呟いている。
「……ゆ……かり」
「え?……ユーカリ?」
市にユーカリなんてあった?と訊くために腰を浮かして立ち上がろうとすると、睦月はゆかりの顔先に人差し指を向けた。
「なっ……人に指を差すなんてっ!」
衝撃で体に電流が走ったかのように体が震えて、ゆかりは立ち上がれなかった。
「目に入って失明でもしたらどうすんの!」
「あ、ごめん……なさい……じゃ、なくって!何っ!?この部屋っ!」
睦月は部屋中をお構い無しに指差して、なんじゃあっと暴れまくった。
「ゴミ溜めかっ!」
率直な感想に、ゆかりは肯定するしかできなかった。自分でもこの部屋はダメだと分かっている。
「掃除できないんだもん!」
「できないじゃない!やらなきゃいけないの!」
「だからやれないの!」
「言葉を変えるなっ!」
睦月は一先ず部屋に入り、近くの新聞紙を拾う。綺麗な長方形の束ができていき、次第に睦月の片手には収まらなくなっていた。
「掃除ができなきゃいいお嫁さんになれないよ?」
本当に同年代を口説いているのかと不思議になるくらい、睦月の声が柔らかかった。中学生の緊張を解すように優しい口調。
「お嫁さんにならなければいいのでは?」
「……クズ」
睦月は部屋中を見渡した後、自分が片した床に座った。
ゆかりの部屋は、廊下から扉を開けて入ると目の前にソファーがある。ソファーの前には机と、数メートル離れた場所にテレビが置かれてある。扉から入って左側にはベッドがあるけれど、それは睦月と同じ構造。ゆかりの使用している布団はとてもシンプルな白色で、シミ1つない。
睦月は1番に部屋の中央に置かれてあるロッキングチェアに見とれてしまった。
「……ゆかりちゃんは生かされている。ゆかりちゃんが愛されていないなら叔母さんは仕送りなんてしない。“人に愛されているから生きていける”。でも、もし仕送りが止まったら?ゆかりちゃんは生きていけるの?」
「そんな……たしかにわたしは生かされてるよ。バイトなんてしてないしお婆ちゃんからの仕送りが止まればお先真っ暗だから」
それでもゆかりは言い返したくて、最後に「でも」と小さく言った。
睦月の耳には届いていたようで、睦月はむっと顔をひきつらせる。
「っ……人は1人じゃ生きてけない。生きれたとしても……あっ」
ゆかりは口を止めた。自分が言っていることの意味を理解した。そっと睦月を見て、後悔する。
「そんなの甘えじゃんかっ!」
その一言。
「甘え」だなんて、そんな言葉を言われたのは初めてだった。お婆ちゃんに頼って生きているのが、甘えだなんて……気付かなかった。
「人は1人じゃ生きてけないのは確かだよ。だからといって誰かとの結婚が前提にないのに人に甘えるのはどうなのさっ!わたしは……ゆかりちゃんとは違う。わたしは1人で生きていく力がある。わたしは甘やかされてないからっ!」
あなたとは違う――そうやって世界観の違いを突き付けられて、距離を置かれる。でもそれは睦月が悪いんじゃなくて、何もかもゆかり自身の言動が招いたもの。今すぐに睦月が帰ってしまったなら、ゆかりは1人で泣き崩れる。
争い事は嫌だから睦月とは喧嘩したくない。でも、素直になれない。
「甘やかされてないって……睦月ちゃんが親に愛されてないだけじゃんかっ!愛されない睦月ちゃんがおかしいんだよ!」
本当は言っちゃダメなのに……言いたくないのに……「ごめん」の一言が出てこない。
数時間前の陽気さが恋しくなった。睦月が軍歌を歌い、ゆかりが振り付け考える。そしてやりきって喜んで、恥ずかしくなる。ただそれだけが、本当に幸せだったのに。
「わたしは子どもだもん……親に育てられても、何もおかしくないじゃん」
「高校生になったのに、それでも自分は子どもだって言い張れるの?親が育ててくれるって、本気で信じてるの?」
「……そうだよ……言い張るし、信じてる」
ゆかりは自分の考えと睦月の考えの違いにうんざりしてしまった。気を抜けば追い返してしまうくらい、鬱憤がたまっていく。
「子育ては甘やかしなんかじゃない……子どもが社会に出たとき、社会性のある人間にできたか。育成は強くすることだから……」
……何も言えない。何秒間、2人は黙り込んでいるのか。考え方の違いで傷付いて、相手を傷付けて、最後は……
「やめよっか」
睦月が20デシベルくらいの声で言った。
何をやめるのか?ゆかりは考えることなく理解できた。喧嘩の後にあるのは“絶交”。昔からずっとそうだったから、ゆかりには理解できる。
こうやって、何度も友達と別れてきた。今さら心憂さに泣いてられない。でも、高校生になって1番にできた友達と絶交なんて、嫌だ。
「……やだ」
睦月が20デシベルくらいの声なら、自分は30デシベルの声を心がけて、ゆかりは堂々と否定する。
「ゆかりちゃん?えぇ、なんで……」
「……やめない……ずっと、これからも友達でいたい……」
「……え?」
「来年、一緒に桜を見ようって約束したもん!それまででも、わたしは……」
「ちょっ、ちょっと待って!ゆかりちゃん……勘違いしてない?」
「……勘違い?」
いきなり足が冷えて、顔が熱い。勘違いなんて言われて、頭が真っ白になった。
「わたしは喧嘩をやめようって言ったんだけど……喧嘩したくらいで友達やめないよ」
「え……あっ、うぇ……」
完全にゆかりの勘違いだった。「やめない」なんて、言わなきゃ良かったと後悔した。それと裏腹に、睦月の言葉が嬉しくて下を向いて涙の滲んだ目を隠す。
「今まで友達とは喧嘩して別れてきたから……またそうなるかと思っちゃった」
保育園に通っていた時も、小学校でも中学校でも、友達とは起承転結があった。出会って話して食い違って終わる。これを何十回と繰り返して、次第にこれを当たり前だと感じてきた。“咲いたら散る”のがこの世界の道理だから。
「……ごめん。甘えなんて言っちゃって……ゆかりちゃんのこと、わたしあんまり知らないのに、決め付けるのはおかしいよね」
「わたしも……ごめん。言い合いで負けたくなかったから、つい愛されない方がおかしいって……ごめん」
なん回も謝って、相手には許してもらえる。でも自分自身が許せなくて、気が済むことのない心境で謝り続ける。
どうすれば自分を許せるのか、心の中で考える。「いいよ」とか「許すよ」なんて返されても、本当に許してくれているのか分からない。もっと、たしかな……例えば切腹とか、それくらいしないといけない気がする。
「そうなんだよ……わたしは親に愛されてないんだよ。わたしが家出したのも、全て愛されなかったから……だってそうだよね、自分たちの娘が家出したのに、あの親は一向に捜索してない!わたしはいなくてもいいってことなんだよ!」
そこまで言われて、ゆかりは彼女のことをまた少し理解した。
自分の親が自分を捜索していないって、そう言うってことは、彼女は親に捜索して欲しいんだ。ただ素直になれていないだけなんだ。
「……もしかしたら、もうしてるかもしれないよ?してなくても、今日とか明日には……するかもしれない。何か事情があるだけかもだし……」
どれほど都合の良い言葉でも、結局は「今は待つしか無い」で終わる。
「……そうだったら、いい……かもね」
睦月はただ愛されたいだけ。でも素直になれないから、気持ちを言葉にできない。「抱きしめて」の一言も、甘やかしてもらう為の「あれが欲しい」も、自分に都合のいいことが言えない。ただそれだけ。
「素直になるっていいことだよ」
「……素直になったら誰かが困るじゃんか」
謙虚さが溢れて自由が流された。そんなフレーズがお似合いだ。誰かに遠慮することで自由を捨てているだなんておかしい。
「わたしは……困らないよ。睦月ちゃんが素直になってくれるなら、それが何よりも嬉しい」
「……本当に?」
言葉にしないと信じてもらえないと思い、うんとだけ言い首を倒した。
「本当に……ほんとぉーに!言いたいことは言ってもいいの?」
「法に触れないのなら、なんでもいいんだよ」
「…………朝」
そこまで言って躊躇ったのか、睦月は黙り込んだ。いま疑問文で返したら発言の邪魔になるんじゃないかと、ただ唾を吞んで待つ。
「本当は……ゆかりちゃんを待ってた。一緒に登校したかったから30分は待った。でも……待ってるのって恥ずかしいから……嘘ついた。ごめん」
「……うん……うん。素直になってくれて、ありがと」
素直になってくれたのと待っててくれたこと、2重に嬉しくて、ゆかりはクッションで顔を隠した。睦月も恥ずかしかったのか下を向いている。
最後にもう一度「ありがとう」と伝える。時計を見ると7時半を過ぎていて、カーテンを開けると一番星が空にあった。電線のない通りから見える一番星は、いつもより、ずっと……暗闇を引き立てる。