6話 やめ……あっ……そこ、ダメっ……んっ
ホームルームが終わり、如月が弥生を迎えにきた。どうやら榊姉妹は電車通学らしい。ゆかりの住むアパートの方向とは違う、学校を出て左に行くと駅がある。ゆかりがここに来た際に見た駅は、なんというか、近未来的であった。
「んじゃねー」とお互いに言って、ゆかりたちは2グループに別れた。後ろが気になるけど、それ以前に……睦月ちゃんが気になるっ!
「睦月ちゃん……近いです」
「近くない」
いや、近いから。
どれくらい近いかというと、ゆかりが後ろに下がれないくらい。ゆかりが首を横に回せばキスできるんじゃないかってくらい。
「ちゃんと前を見て。躓いちゃうよ」
「いや、だって……はい……」
反論しても返されるのなら、睦月に流された方がいい気がした。くっつかれるのも、別に同級生の友達になら抵抗は感じないし、相手がいいなら大丈夫だから。
「朝のこと、覚えてるよね?」
睦月はゆかりの耳元で甘い声で言った。誘われている気がして、気が引けた。
「ひんやりしてて気持ちよかったとか……考え事してたとか?」
「むっ」
睦月が頬を膨らませたのをゆかりが感付いた時には、睦月はゆかりの背中の肉をつねっていた。
「痛っ」
「バカ……」
「ばっ、バカだって!?」
「……貧乳」
「コンプレックスだからやめてっ!」
「……ゴミ」
「悪口が酷くない!?」
ゆかりが「みゃー」と唸ると、睦月は力を入れすぎたと自覚して背中から手を離した。後ろに人がいるのをお構い無しに、睦月は背中のアザを確認する。
「……あ……べ、別のことっ!その後の!わたしがゆかりちゃんに言ったことを思い出してっ!」
「いま「あ」って言わなかった!?確実に言ったよね!?い、嫌だよぉ?背中が痛いって何かと生活が不自由になるから!」
「思い出して」と言われても、朝に睦月ちゃんとした会話って……待っててくれたとか、学校が爆発しないかとか、“放課後どこか行こう”とか……
「あっ!忘れてたっ!どこか行こうって……デートの……」
睦月は何も言わず、下に目線をやりながら頷いた。
「怒ってる……?約束、忘れちゃってた……」
「……ヨタ怒ってる」
そう言って、睦月はゆかりの背後まで回り込んだ。ゆかりが体を180度回しても、睦月はゆかりの背後から離れない。
「な、何する気?」
「……何もしない……」
「絶対嘘じゃん!背中を許したら死んでも文句言えなくなっちゃう!」
「大丈夫だから」と睦月は言う。その大丈夫がどの程度なのかが気になる。背中を思いっきり叩くことは、睦月にとって大丈夫なのかもしれない。カバンの中から刃物を取り出して……は犯罪になっちゃうけど。
「はやく背中を見せて……焦れったい」
「焦れったくないよ!」
「焦れったいのっ!」
「勝手に焦れったくならないで!」
「むぅ……」
唸り声をあげた睦月は「強行手段か」と言って、ゆかりに背中を見せた。
「あ、あれ?睦月ちゃん……?背中見せちゃってるけど……」
ゆかりが不安がって睦月に近寄ったとき、ゆかりの右足が地面につく前に、睦月は振り返った。
反撃される、けど一度出した足はすぐには引けない。そのまま流れるように睦月は、ゆかりの唇ギリギリに親指を、鼻にそって人差し指が流れ、ゆかりの目先に中指がくるようにして掌を合わせた。ただの猫だましである。
パァン。と音の振動がゆかりの目から視神経を渡って脳を震えさせる。
たった一瞬でゆかりは終わりを覚えさせた。終わりを間際にして、ゆかりの時間は1秒が20秒ほどの長さに思える。
「あっ……体が、動かない……脳が命令を出さない……」
体感20秒と少しの間、ゆかりは瞬きさえできなかった。垣間見える終わりに怯えることもなく、睦月に背後から両腕を掴まれた。
「……“すい……まっ……せん……許してください……なんでもしますから”……」
「……“ん?今なんでもするって言ったよね?”」
「えっ?」
ゆかりの腕を掴む睦月の手は、いつの間にかゆかりの胸を触っていた。ゆかりの腕は自分の背中と睦月の胴体に圧迫されて自由に動かない。
「ぴゃっ!」
「揉みしだいてやる」
「ほれほれぇ」と言いながら睦月は手を動かした。
ゆかりの平たい胸の周りの肉を寄せ集めて、公共の場で堂々と揉みしだく。
「やめ……あっ……そこ、ダメっ……んっ」
次の瞬間、ゆかりの胸から睦月の手が離れた。引き換えに睦月はゆかりのお腹を触りだした。
「あ、はへ……?どうしたの?」
「いや……なんか、やってる自分が恥ずかしくなってきた……変な声出さないでよ」
「なっ、睦月ちゃんが弱いとこばっか責めてくるからじゃん!」
背中越しに睦月の赤くなった顔が分かる。睦月は赤面を隠そうとゆかりの背中に額を当てて下を向いている。それでもゆかりのお腹から手を離さない。
「ねぇ」
改まったように小さな声で、ゆかりには幻聴なのかと思わせた。ゆかりが幻聴ではないと確信したのは、ゆかりのお腹を掴む力が緩くなり、恋人を抱き締めるように優しく拘束されているからだ。
「……わたしは……ゆかりちゃんが約束を忘れるくらい、ちっぽけな女かな?」
睦月の質問でゆかりに緊迫感が迫った。それも、予想外な質問の内容と……「女」という、まるで相手を異性だと捉えているような口振りのせいだと思う。
「何、その質問。変なの」
「へ、変かもしれないけどっ!……お願い、答えて」
力が緩くなったと思えば次は強くなった。暴力とか、ゆかりへの嫌がらせなんかじゃなくて、離れないように抱き締めている。
「別に……ちっぽけじゃないよ……というか、睦月ちゃんは結構“特別”……かも」
「……かも?」
「いや、特別!特別ですっ!」
ゆかりが誰かを特別だと言ったのは初めてだ。
特別というものは好きな人を指すのだと思っていた。長い間一緒にいて、周りの誰とでもしないことをして、これからの人生を一緒に歩みたいと思っている人。それは恋人か。睦月ちゃんと……恋人に……。
激しく脈打つゆかりの心臓が治まる気配をなくす。睦月が後ろにいて、自分に触れていると意識すればするほど息が詰まる。彼女にこの心音は届いているのか、彼女はどう思っているのか、全ての疑問が睦月への期待になった。
「……どれくらい?」
今にも顔を赤くして逃げ出しそうなゆかりに追い討ちをかけるかのように睦月が訊いた。
「どれくらいって……そりゃ……」
そこまで言って黙り込む。適切な言葉が浮かばなくて、いま思い浮かんでいる言葉を言うとそこまでいっちゃう気がした。
考えてみれば、友達というものはどこまでいけるのだろうか。会話が友達の原点として、付き合うは恋人の原点とした時、今のゆかりと睦月はどこまでいけるのか。キスは恋人すぎる。告白も……どちらかというと恋人よりになるかもしれない。
だったら……
「て……」
「て?手?」
疑問文を浮かべた睦月の力が弱くなって、今までの抵抗が解放されたようにゆかりの体は睦月の腕の中から飛び出した。
「手を……繋ぎたいくらい……特別」
そう言ってゆかりは睦月へ右手を伸ばした。その様子は他人から見ればテレビ番組でたまにある求愛のサインと似ていた。ゆかりの右手を睦月が握ればカップル成立、なんてことを考えているのは睦月の方だった。
「手をって、そんな……恥ずかしいよぉ……」
「やっ……ぱぁりぃね!お、おかぁしいよぉね、手を繋ぁぎたいぃなんて……」
ゆかりの声の音調が不安定になった。外国人でもあり得ないオーバーな音調であった。
ゆかりは「あははは」と笑って誤魔化す。「ごめんね」と言い右手を引いた。
何もなかった。自分は何も言っていない。ただ虫が飛んでいただけで、睦月ちゃんだって何も思っていない。それでいい。もの悲しさなんてちっとも感じない。
「で……さ、どこ行く?」
ゆかりが笑顔を作って言った。
無理して笑ったり無理やり怒ったり、ゆかりにとってはその場しのぎの技で、一時期はその場しのぎを極めようと考えたこともある。でもそれが間違いだって今気付いた。
「睦月ちゃん……?なんで、眉間にシワを寄せてるの?……わたし、間違えたかな?」
「……間違えた……間違えてないかだと、大間違い」
「大間違いっ!?……って、100点中なん点?」
「……12点」
「おうっ、12点は貰えるんだ!」
ちょっとだけ、居心地の悪さが薄れた気がする。いや、薄れた。家族じゃない誰かとこうやって他愛もない話をするのがゆかりの憧れの1つで、思い出の1つ。“彼女”……名前なんだっけな……世界で1番大切な人の名前を忘れてる。でも本当はどうでもいい人なのかも……。
「ゆかりちゃん?立ち寝?」
睦月が人差し指で睦月の頬を突く。
「え?……ヴァ」
睦月の指先から伝わる熱で過剰に反応してしまった。
首を傾げた睦月を見て、ゆかりは気恥ずかしくなった。大切な彼女より、睦月に惹かれていく自分がバカ気ているようで、睦月のそばにいると睦月のことだけを考えてしまうことが怖い。
「……ごめん……行こ、デート……」
「……どこ行く?」
どうにか話をデートの件に変えなくてはいけなくて、ぎこちない雰囲気が鬱陶しくなる。
「やっぱデパートとか?ウィンドウショッピングとか憧れてるんだぁ……カラオケとか、ボーリングとか、ゲーセンってのもいい。うん、すっごくいい」
「結局なんでいいってこと?全部は回れる時間ないな……」
近くの美容院の中を見ると時計があり、4時前だった。8時までには夕食の準備ができていればいいし、コンビニは24時間営業だから遅くまで遊んでも困らないけれど、問題なのは睦月の方だ。
「なん時には帰らないといけない?」
ゆかりは睦月に合わせれば良いと思い至り訊いた。
「んぉ……な……半?いや、8時……ケチャップが切れてるからスーパーが開いてる時間までなら……だから8時までなら」
睦月が自分より遅い時間だったことに驚いた。じゃあ自分も8時までならいいか、と考えを変える。
「4時間……そっか、結構いられるんだ……はは」
「両方、親いないしね。一人暮らしの特権だよ、好きな時間に食事できるのは」
「たしかに!誰かに縛られることもなく、誰かに心配されることもない……まさに自由って感じ。でも……ちょっと心細いな……」
「お子さまだね」
2人並んで歩く。前と違って笑っていられる。今日は、なんか惜しいとこまでいけたなぁ、と過去形で思う。
「睦月ちゃんはどこか行きたいとこあるの?」テンションが上がって、ゆかりは睦月に訊いた。
「……んー、水族館……?」
「それ、市外じゃん……」
「わたしここらのこと知らない」
子どもの演技のように睦月は言った。でもそれがおふざけではなく、ただ純粋なだけだと分かっている。
「……わたしもここに詳しくないや……まっ!どうにかなるでしょっ!ゆかりちゃんのウルトラスーパーハイパーコースAかB、どっちがいい?」
自分が案内する、とゆかりは有りもしないコース名を言った。
「うぇ、ネーミングが……Aはなに?」
「本屋、ゲーセン、ボウリング、ゆかり宅でございます」
「B」
なんだそれ、の一言も言わずBの一言だった。睦月自身他に何か言えただろうと少し後悔している。
「えっと……本屋、ウィンドウショッピングまたは単にショッピング、カラオケ、ゆかり宅、かな」
「本屋とゆかりちゃん家は変わらんのか」
「えへへ、好きなんで」
本を見たい、買いたい、読みたい。そして家でゴロゴロしたい。……あれ?これ、全部自分がやりたいこと!?
「ご、ごめん!わたしが決めるのはおかしいよね!2人で決めよっ!」
ゆかりが前言撤回を申し出ると、睦月は首を横に振った。
「B、お願いします」
ゆかりのお腹から「え」という音が漏れた。それでいいの?と言葉にできず、目で伝える。睦月はそんなゆかりの目を見て、どうにも理解できずにいた。ゆかりはケホッと咳き込んで、喉に詰まった何かを吐き出した。
「ホントーに、Bでいいの?」
「うん、いいよ。すっごくいいっ!ゆかりちゃん家行ってみたかったんだ。カラオケにも行きたかったから」
そう言われても、ゆかりは「本当にいいの?」と何度も問いかける。
「いいんだってば」
睦月に言われても、ゆかりはまったく自信が持てない。
気遣わしそうに一歩手前の睦月を見つめて、何を考えているのかを探る。
……まっ、なんでもいっか。
自分が提案したことに反論するのはおかしいし、睦月が「すごくいい」と言ったから、なんだっていい気がした。




