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湯気の中  作者: 三波直樹
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 一歩踏み出す度に背筋の毛が逆立ってしまう冷え切った廊下を歩いて、僕は自分のお皿に残ったごはんを食べていた。すると、「こっちです、お願いします」小百合ちゃんは玄関を空けるなり知らない人たちを家に入れた。僕は驚いてご主人の部屋のクローゼットに身を潜めて聞き耳を立てた。三人? いや、四人の足音が家と僕の心の平穏を踏み荒らしていた。


 玄関のドアは開いたままで、前足をお腹の下に隠さないと耐えていられないくらいの寒さが襲う。五分程すると足音が消え、バタンとドアの閉まる音がした。それは一瞬の出来事で、嵐が通り過ぎたあとのような妙な静けさの中、状況がわからない僕はただただ震えていた。


 僕はひたすらにご主人の帰りを待った。近所にある病院へ向かう救急車のサイレンが四回、隣の七○三号室のドアが閉まる音が聞こえたということはもう十一時を過ぎているはずだ。クローゼットの中にずっと閉じ籠っていたので正確な時間はわからない。不安が募って、普段から耳にしている音ですら身体に水を掛けられたときみたいに怯えてしまう。だけど、このまま外に出ると今までとは違う世界が広がっていそうで、そのときの自分に状況を変えられる力もなければ、受け止める勇気もなかった。


 ガチャッという足音の伴わないドアの音がするなり僕はご主人に駆け寄った。


「ポチただいま。あれっ? 小百合は? まだ帰ってへんのかな」


 玄関のタタキにしゃがんで僕を撫でたご主人の手はとても冷たかった。しかしそんなことよりも、緊張で強張っていた僕をときほぐしてくれたことに感謝した。僕は身体全体でご主人の手に擦り寄って、まとわりついた不安をこそげ落としていた。そんないつも以上に馴れ馴れしい僕の態度に対して、ご主人はなんの疑問も持たなかった。僕が落ち着きを取り戻すと、靴を脱いで年越し蕎麦とエビのかき揚げが入ったビニール袋を台所のステンレス台の上に置き、ご主人はマフラーを外した。そして、リビングの明かりを点けたご主人は、テーブルの上の四つ折りにされた紙を、なんの気なしに手に取って開いた。 


 とても長い時間だった。何度も何度も声を押し殺して、大きく息を吐き、少し吸っては身体を強張こわばらせるご主人は、段々としぼんでいく風船人形のようにゆっくりと膝をついた。


 太陽がビルの隙間から光を射し、穏やかな土佐堀川の水面を染め上げていく。西のほうに眼をやると、土佐堀川とその向こうの堂島川とが交わって安治川あじがわと名前が変わり、ご主人が働く福徳スーパーのある港区へと流れていく。水都と呼ばれる大阪を感じるには、なかなかの立地と言っていいだろう。しかし三十路男と黒猫一匹には広い家だ。このリビングには46インチの薄型テレビに、突き板のローテーブルと低反発の座椅子が二脚しかない。紙に殺風景いう文字を書き、額に入れて飾れば幾分かはましになるのに。起きて半畳寝て一畳という言葉が身に沁みる、僕は日向ぼっこを切り上げてテレビ観賞をすることにした。


 チャンネルはご主人が適当にザッピングして勝手に決まってしまうのだが、ジャンルは問わずドキュメンタリー番組が僕のお気に入りだ。こうして色んなものを見ていると、人間とは「つくる」生き物だということがわかってくる。


 僕がまだ野良だった頃は、なぜ人間は毎日違う姿に変わるのかが不思議だった。服を着替え、荷物を持ち、それぞれがなにかをつくるために生きているのだ。つくることには大小さまざまなものがあり、眼に見えない細菌や、景色を変えてしまうほど巨大なものまである。そして形あるものだけにとどまらず、スポーツでは記録、エンターテインメントでは時間だ。つくることを欲し、苦悩し、喜びを感じる生き物なのだ。


 この日はクラシック音楽の番組を見ていて、ヨハン・ゼバスティアン・バッハという人間についての特集があったのだが、ひとつ気がついたことがあった。


 彼は西洋音楽の父と評される人間で、生前も才能はあったのだが作曲家としてよりもオルガンの演奏家として活躍した。神聖ローマ帝国、今のドイツのほぼ中央に位置するアイゼナハの音楽家の八人兄弟の末っ子として生まれ、聖歌隊の指導や宮廷のオルガニストをしていたという。彼の演奏は素晴らしく、十三歳でフランスの王宮オルガニストに任命され、神童と謳われたルイ・マルシャンと、ドレスデンで宮廷から対戦の話をもちかけられたが、マルシャンがバッハの実力に恐れをなして逃げ出し、不戦勝になったという話もある。


 バッハの死後、音楽家の息子たちやモーツァルト、メンデルスゾーン、ベートーヴェン、ショパンといった作曲家がバッハの譜面を学び、その功績や彼の楽曲が世に広まったのだという。

つくった人間がいなくなっても、つくったものは残る。残ったものがあると、つくった人間を感じることができるのだ。リビングにバッハの「Sleepers, Wake Cantata BWV 645(目覚めよ、と呼ぶ声が聴こえ)」が心地よく響いていた。僕は、なにかをつくれるのだろうか。


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