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リビングから離れてキッチンを通り過ぎると右にご主人の部屋、その奥の玄関側に小百合ちゃんの部屋がある。ご主人の部屋に入ると、引っ越しの片付けも済んで、本棚には以前住んでいた家から持って来た、見慣れたビジネス系の本や雑誌がきれいに並べられている。クローゼットはいつも半分開けていてくれて、その床には弾力のある薄いマット、その上にタオルが敷いてある。ここが僕の部屋と言っていいだろう。たまにテレビチャンネルの設定が好みに合わないときがあるのだが、そういうときはここに籠ってご主人の帰りを待つのだ。小百合ちゃんの足音がしたので廊下に顔を出してみると、斜め向かいにある洗面所のスライドドアが閉まるのが見えた。これからシャワーを浴びて、朝食も食べずに仕事に行くのだろう。
玄関に置かれたトイレに僕が用を足しに行こうとすると、小百合ちゃんの部屋のドアが僅かに空いていることに気がついた。普段から侵入禁止と言われているので、僕は一度も中に入ったことがなった。お風呂場のドアが閉まり、シャワーの流れる音を確認して、僕は恐る恐るドアの隙間から中を覗いた。
ほかの部屋と同じ白い壁紙、外の廊下側の曇りガラスの窓の上には、まだなにも付いていないカーテンレールがあり、くすんだ光が怪しく室内を照らしていた。そんなぼんやりとした明るさの中に、古代ローマ遺跡のような所々バランスが悪く積み上げられた段ボール箱が影をつくっていた。側面に「洋服」と書かれた幾つかだけが開けられていて、そのほかは全て引っ越してきたときのままなのだろうと推測できた。ここに来て二週間は経っているのに、どうして荷物をほどかないのだろう。それにあと四日もすれば、年が明けるというのに。
元日の朝、リビングのローテーブルの上には、十字の折り目がついた「さよなら」と書かれた白い紙が一枚広げられていた。そのほかに小百合ちゃんが残していったものを挙げると、使いかけのシャンプー、コンディショナー、ボディーソープ、水素水が入ったペットボトルが六本。それ以外はもうなにもなかった。
昨日帰宅したときと同じ仕事着のまま、リビングの座椅子に膝を抱えて座るご主人がいつもより小さく見えた。もうすぐ仕事に行かなければならない時間なのに、髪の毛はまだセットすらしていない。ズボンの膝の裏には皺が幾重にも重なってだらしなくなり、形状記憶のワイシャツは元の形を忘れてしまっていないか心配になるほど縒れてしまっている。
「ポチ、明けましておめでとう。二人っきりやな」
昨夜からずっと電話を掛けたりメールを送ったりしていたので、全く寝れていないご主人の顔は青白く、虚ろな視線で知らせの来ないスマートフォンを眺めている。頬がこけて口元には薄っすらと髭が生え、僕は水辺に横たわった流木が朽ちて行く過程を見ているようだった。今のご主人の顔で福笑いをしても、こんな状態の土台とパーツでは、どこに動かしても笑える顔になりそうになかった。
結局、朝の七時を過ぎても小百合ちゃんからはなんの連絡もなかった。仕事に出掛ける前は、いつもなら毛が付いてしまうので遠慮するのだが、僕は自分の首元をご主人のふくらはぎに擦りつけた。すると、まだ僕の身体がその上に乗れそうなくらい大きな手のひらで、ご主人は僕の頭を撫でてくれた。
「もう仕事行かなあかんわ、今日は八時過ぎには帰って来るから」
そう言って立ち上がったご主人は、おぼつかない足取りで玄関まで歩いて行くと、振り返って力なく僕に手を振った。
「行ってきます」
喉に絡んだ痰を、乾いた咳払いでどかしてご主人は初仕事に向かった。まるで二倍速映像みたいに流れて行くどんよりとした雲は、途切れることなく元日の空を埋めていた。下に見える申し訳程度に植えられた街路樹は風を受けてしなり、信号で立ち止まっている人たちは肩を寄せ合い首を竦めている。どうしてこんなときに凍えそうな外へ出て行かないといけないのだろうか。
小百合ちゃんが出て行ったときも、こんな風が吹いていたんだろう。僕は昨日の出来事を思い出していた。




