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湯気の中  作者: 三波直樹
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 引っ越しの話が持ち上がったのは、僕がご主人と一緒に暮らすようになって一年が過ぎようとしていた十月中旬だった。小百合ちゃんがそれまで住んでいたアパートを引き払い、一緒に住むことになったのだ。


 僕から見れば、それは小百合ちゃんの強行策だった。自分の荷物を運び込むと、リビングが八畳のワンルームではどう動いても段ボール箱に身体が当たるので、小百合ちゃんはとてもイライラしていた。いつまで経っても不機嫌な彼女を見かねてご主人が、「やっぱり二人で住むには狭いよな。せっかく一緒に住むんやったら、思い切って引っ越そか」と強引に言わされたのだ。そうと決まれば話は早かった、小百合ちゃんはバッグからクリアファイルを取り出して「気になってた物件あったから見てみて」と言い、地図や間取りが印刷された紙を笑顔でご主人に手渡した。


 いつ倒れてくるかもわからない荷物に囲まれて、まともな生活など出来はしない。少しでも早くほかへ移らなければ、圧迫感と息苦しさでご主人はどうにかなってしまいそうだった。家賃も小百合ちゃんと折半だったので、僕たちはご主人の職場に近い土佐堀の2LDKへと引っ越したのだ。もうすぐ年の暮れだというのに、内見するのにも順番を待たなければならない人気物件で、一度見に行っただけで小百合ちゃんがその日のうちに仮押さえをした。同棲で賃貸を借りるのは敬遠されるのだが、ご主人の勤続年数と契約者の名義をご主人一人にすることで審査はスムーズに通った。


 引っ越しをしたのは十二月の二週目、テレビも大きなものになったので僕は満足していたが、荷ほどきが進むにつれて日に日に減っていく段ボール箱のことを思うと、ついつい「また引っ越ししないかな」といういけない願望が綿あめのように膨らんでしまう。どんな玩具よりも段ボールは素晴らしい。中に入ると落ち着くし、爪の引っ掛かり、そして破れるまでの抵抗感は唯一無二である。七階だと夏になっても蚊が入ってくることもないだろうし、室内の温度変化も極端なことにはならない。僕にとってもこの引っ越しは喜ばしいことだった。


「ほら、ポチこっち向いて」


 ご主人が早番で朝早く仕事に出掛けると、小百合ちゃんと僕の時間があった。彼女はご主人のベッドに横になったままご主人を見送ると、寝間着姿でリビングの座椅子に座って僕を呼んだ。スマートフォンで写真を撮っては僕を移動させて、違うポーズにしてまた写真を撮る。人間にはプライバシーの権利というものがあるみたいなのだが、僕にはないらしい。ダイエットに勤しむ小百合ちゃんの指は細くて、撫でられる度にこのままでは冬を越せないんじゃないかと少し心配になった。片手にはいつもスマートフォンを持っていて、難しそうな顔で画面を眺めていた。自分の仕事に向かう八時過ぎまで、そして帰って来て寝るまで、ずっとこんな調子だった。印刷会社の事務と、読者モデルの二足の草鞋わらじを履く生活は忙しいようで、最近は夜はほとんど外食をして帰って来るようになっていた。


「ポチ、あんたまた爪切ってもらわなあかんね。私は引っかかれたらあかんから、純君にまた頼んどくわ」


 小百合ちゃんはそう言うと、テーブルの上に化粧品やサプリメントを並べて写真を撮り始めた。たぶんブログに載せるのか、雑誌の担当さんとの打ち合わせの準備か、そのどちらかだろう。こうなると僕の出番は終わり。気密性があるアパートではどこに行っても同じだが、僕には小百合ちゃんが使う化粧品の匂いは強すぎるので、少しでも早く遠くへ行きたかった。


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