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湯気の中  作者: 三波直樹
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「なんでハンバーグの表面は焼けてるのに中は冷たいのか、温度? 大きさ? 時間? 何回も見ないとわからへん、触らんとわからへん、音を聴かんとわからへん、匂いを嗅がんとわからへん。上手く出来ても、違う分量でつくると全く違うやり方が必要になる。言葉や文字で表せる情報は、料理には足りなさ過ぎる。家族や友だち、恋人の気持ちを感じ取るのと同じくらい集中せんとあかんねんよ。自分の思い込み、勘違い、それに前向きな気持ちを加えて想像する、ほんなら失敗しなくなる、段々とな。応用が出来て初めて知識になる、薄っぺらい情報だけが先に入って、状況が変わってあたふたしてたら論理的にも実用的にもその知識は破綻してるんよ。俺は暗いとこで足音や息づかいだけでも、その人が誰なのかがわかって初めて、その人を知ってるって言えるようになるんかもな」


「やっぱり料理って奥深いんですね」


「飲食で働くのが修行って言われてんのがちょっとわかった気がする」


 金子さんが立ち上がってキッチンへ向かう、切っておいたバゲットをオーブンに入れて小さくうなずいた。


「話がそれたな。今オーブンに入ってんのがアクアパッツァ、イタリアの脛の下辺りにあるカンパニア州の古典料理。二人が婚約して特別な意味を持ったのがこの料理に使ってるオリーブの実なんやけど、オリーブって、一本の木では実がつかへんのよ。近くにもう一本オリーブの木が生えてないと実をつくらへん、不思議な木らしいわ」


 藤田先生の言うことがよくわかる。金子さんの話を聞いていると、ご主人の昇進祝いのためにつくった料理が、最初から今日の二人のためにつくったんじゃないかと思えてくる。やっぱり僕には、この人の全てを知ることは出来ないんだろう。単純なものほど奥が深い、料理と一緒なんだと思う。


「食べ終わる頃には固まっといてほしいと思ってんのが冷凍庫に入ってるカッサータ。シチリア島の伝統菓子やねんけど、材料と分量は完璧にオリジナル。生クリーム六にしっかり水気を切ったリコッタチーズを三とマスカルポーネ一の割合かな。冷凍せえへんのが普通やねんけど、固まった生クリームが一瞬で溶けていく食感が好きでさ。これに使ってるのがラズベリーとザクロのシロップなんやけど、花言葉知りたい?」


「もちろん知りたいです」


「気になるよそりゃ」


「でも嫌いなんよ花言葉、人間が勝手にイメージで決めてるし、同じ花でも良い意味と悪い意味があったりするやんか、中途半端なことせんとってほしいって思うんよなあ」


「じゃあ良い意味のだけ」


「じゃあ良い意味のだけでいいです」


 動物病院のロビーで藤田先生の話を聞くときと同じように、石井さんはご主人の右側に座って笑っている。二人が一緒に暮らすようになっても、変わることはないだろうと思った。きっと、もっと以前から、二人の気持ちはこの距離にあったのだと思う。


「前から付き合ってたとかちゃうやろな? 知ってるの全部言うわ、ラズベリーは『深い後悔』と『愛情』、これは純にぴったりやな」


「そうなんですか? 深い後悔って、なんかあったんですか?」


「時間はたっぷりあるんやから、直接本人にいてみたらええんとちゃうかなあ」


「じゃあザクロはどんな花言葉があるん?」


「ザクロは四つある。花が二つで実の部分と木の部分で分かれてる。花が『子孫の繁栄』と『円熟した優美さ』を表す。実が『結合』、木が『お互いに思う』、そんな感じかな」


 僕にはとても偶然とは思えなかった。今日の料理は、この二人のための料理だ。それが僕の思い込み、勘違いでもいいと思った。だって、まだ料理を食べてもいないのに、二人の心は幸せで満たされているのだから。


「まあこうなったのもポチのおかげかもな。南フランスでは黒猫は魔法の猫って言われてたりするし、日本でも福猫って呼ばれてたからな」


「そうですね。ポチがいなかったら出会ってなかったですもんね」


「そうやね。ありがとうな、ポチ」


 きっと、この世界に魔法は存在する。空は飛べないかもしれない、動物と話すことは出来ないかもしれない。はたから見れば、僕はただの小さな黒猫だ。ご主人に拾われて、一緒に暮らしていただけだった。でも、二人が出会うきっかけになれた。どんなことでも、どんなものにも、魔法の力はあると思う。二人にとって、僕は魔法の猫になれた。


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