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ご主人が金子さんの後ろでキッチンの引き出しからお箸、ナイフ、フォークを取り出して石井さんに手渡した。ご主人は自分の部屋からデスクチェアに敷いていた座布団を持って来て、ワイングラスを三つ、取り皿を二枚テーブルの上に並べて準備は整った。
「シェフ、今日の料理はなんですか?」
バゲットを切り分ける金子さんにご主人が尋ねた。
「昇進祝いが婚約祝いになったからちょっと物足りんけど、鯛のアクアパッツァとシチリアン・カッサータ。どっちもお祝いのときに出す料理、鯛はめでたいのタイと掛けてるねんけどな」
「こういう本格的なイタリアン食べるの初めてです」
石井さんがテーブルの上に置かれたワインボトルを手に取ると、金子さんが手を添えて優しい口調でそれを制した。
「お客様、私が注ぎます」
金子さんがはボトルを手に取ると、左手首に手拭いを掛けて胸を張り、映画に出てくるソムリエみたいなポーズをとった。
「これから寒くなってくると、やっぱり鍋料理が食べたくなるよな。そしたら日本酒が飲みたくなる、熱燗で一杯やると寒さで縮こまった身体もほぐれるからなあ」
金子さんはワインを石井さんのグラス、ご主人のグラス、そして自分のグラスへ順番に注ぎながら話を続けた。
「おでんとか良いよな、大根食べると幸せになるわ。うちの店でも冬になるとおでんも熱燗も出すんやけど、そんときは石井さんが純にお酌してあげて。俺の店ではワインは男が注ぐのが決まりなんでね」
「へー、そうなんですか。そういえば藤田先生が金子さんの料理の話がすごく楽しかったって言ってました。なにか聞かせてもらえますか?」
「そんなサービスしてたん? いっつも黙ってるのに」
「あの先生は黙らせてくれへんねんよ、大声で何回も名前呼ばれるからな」
「金子君、話し聞かせて」
「金子さん、話し聞かせてください」
二人の大きな揃った声を聞いて金子さんは眼を細めていたが、僕は確信していた。この二人はご飯と味噌汁みたいに相性が良いと。きっと、今日みたいに一緒にテーブルを囲んで、たくさん話をしながら毎日を過ごすんだ。金子さんは漂って来る料理の香りを嗅ぐと「じゃあ少しだけ」と言ってワイングラスを手に取った。
「まずは、婚約おめでとう」
「ありがとう」
「ありがとうございます」
金子さんがグラスを高々と上げて乾杯すると、二人は少し照れてお礼を言った。
「このワインはイタリアの首都があるラツィオ州でつくられたフラスカティ・スペリオーレ・セッコ。辛口の白ワインで、黄色いフルーツをイメージさせる華やかな香りと、遅摘みしたブドウの凝縮した複雑な味わいが今の二人にぴったり合うかな。太陽を浴びた麦わら帽子みたいな小麦色、このワインは冷やして飲むより十五度から十八度くらいのほうが味も香りも引き立って好きなんよ」
「なんか本当にレストランに来てるみたいですね」
「こんなに料理のうんちく話す金子君初めて見たかも。いっつも料理のことは好きにしろって言われてるから新鮮な感じ」
「もっとちゃんとしたコツを教えてほしいって思うか?」
「そりゃ思うよ、何回も失敗して遠回りしてるみたいやねんもん」
「じゃあ今日は教えようかな。無駄なことをして、気づくようになるんやよ」
「どういうことですか?」
先に金子さんの魔法に掛かったのは石井さんだった。テーブルに置いたグラスの脚を持って身を乗り出しながら不思議そうに金子さんを見ている。




