60
「あんな風に出て行ってごめんなさい。私、怖かったんです。もし勘違いじゃなくて、村田さんにそういう人がいるのかなって、そう思うと、怖かったんです」
石井さんは今にも声をあげて泣き出してしまいそうになり、眼鏡を外し、シャツの袖口で何度も頬を伝う涙を拭く。
静まり返った球場に、向かい合って立つ二人は敵ではない。だけど、同じ試合はもう出来ない。悔いがない、やって良かったと思える結末を求めて、二人は今、ここにいる。ピッチャーが投げたボールがバットに触れている時間は千分の一秒から三千分の一秒だという。少しでも反応するタイミングやバットを振る角度がずれてしまえばゲームセット、試合は終わってしまう。
石井さんがピッチャーマウンドの上で大きく息を吸う。投げる球は決まっていた。
「私、村田さんのことが好きです」
駆け引きなしのストレート。胸をすくようなスピードで、石井さんの瞳はご主人の返事を切望した。
「僕も好きです。湊子ちゃん、結婚しよう」
「はい、え? あっ、はい、結婚します」
ご主人の打球はホームランだった。青く澄んだ空に打ち上がって、白い雲の中へ吸い込まれていった。試合は終わった、石井さんはご主人と一緒に戦うことに決めたから。もし決勝戦があるのなら、それはこれからの二人の人生なのかもしれない。
どうしてこんなに時間が掛かったんだろう、二人の気持ちは同じだったのに。金子さんの言葉を借りるなら、子供はみんな天才なのだという。自分の気持ちを抑えることをまだ知らない、それはどんなものにも影響を受けない、純粋な思いを伝える天才だと言っていた。自分の言葉が、違う意味で相手に受け取られる不安、自分が人にどう見られたいかという欲もない。傷つくことを恐れて自分を守ることも、嘘もないのだと。大人になると、そんな才能が薄れていく。ぶつかって、磨り減って、丸くなって、みんなと同じ箱に収まるように、自分の気持ちを抑えるようになっていく。金子さんは言う、それじゃあ誰だって一緒になってしまう。みんなの中で一番になれる人は一人しかいない、でも、誰かの一番大切な人になるチャンスは誰もが持っているのだと。みんなと同じことをしていれば、安心なのかもしれない。金子さんならこう言うだろう。それは本当に自分がしたいことなのか、傷つくことを恐れていては戦えない、自分を守ることも戦いだと思う、だけど、それでは傷ついた自分が残るだけだ。自分が思い描く幸せは、ほかの誰かと同じものではない、世界のどこにも存在しない、誰も見たことがない新しいものだ。自分でつくった理想の幸せは、自分で手に入れるしかない、自分しか手に入れることが出来ないんだ。最初に欲しいと思うのは誰だ、最後に諦めようと決めるのは誰だ、いつだって選ぶのは自分だ。誰かのせいには出来ない、愚痴を言っている暇なんてないんだ。楽な道なんてない。ベルトコンベアーの上に乗っていても、行き先を自分で選べない不自由に耐えないといけない。誰だって戦っているんだ、自分の幸せのために。それがわかっているから、金子さんはいつだってご主人の味方でいてくれたんだろう。
「喜ばしいことなんやけど、話の展開が早くない?」
「これでいいんです」
「金子君、僕婚約しちゃった」
「そうみたいやなあ、抱き合ってるもんなあ、キスもしたらええんとちゃう? それよりさっさと中に入ったら? 玄関先でいちゃついてると刺激が強いで? 俺もう帰ろかなあ」
「湊子ちゃん、今日金子君が料理しに来てくれてん、一緒に食べよ」
「はい、良い匂いしててお腹減りました」
二人は手を繋いでリビングに歩いて行く。僕は蛙の形をしたキッチンミトンを手にはめた金子さんと眼が合い、ウインクをされた。オーブンレンジから取り出された紅葉鯛は見事な焼き色がつき、アサリは口を開け、周りのスープがとめどなく気泡をつくっていた。
「もうあと少しやな」
金子さんはスープの味をみると、これ以上焼き色がつかないように煮詰めようと、アルミホイルを上から被せてオーブンにお皿を戻した。




