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もし、昔と同じなら、甲子園の準決勝、一点リードの九回の裏、ワンアウト満塁で守り抜けば決勝に進む。最後のバッター、鋭い打球は高さをスピードを落とさずに青い空を背にしてセンター方向に向かって伸びていく。フェンス直撃、芝生の上に落ちたボールを金子さんが拾って振り返る。三塁ランナーがホームベースを踏んで同点、三塁コーチャーが両手を大きく回して二塁から走って来るランナーに、ホームへ向かえと懸命に指示を出す。
「いつだって、誰だって出来ることはある。それを否定する人がいるんか? いるとしたら自分や。自分だけが自分に無理やって言う、出来ないと思い込ませる。時間は常に動いてる、お前以外の人も幸せになろうと動いて行く。今、お前はここに座ってじっとしてる、止まってる、それは身体だけやない、気持ちも、心も動こうとしてへん。そうやって止まってることが、それがお前の幸せになる方法なんか? それがお前の戦い方か?」
金子さんが右足でステップを踏む。芝生に足がついて、ホームベースの上でしゃがんでいるご主人に狙いを定める。顎が上がり、折りたたんだ左肘が顔の前を通過する。三塁ベースを蹴ったランナーが乾いた砂を巻き上げ、ホームベースに向かって伸びる白線の上を疾走する。限界まで引いた弓のように全身を撓らせて、体重が左足の裏に移る。金子さんに出来ることはここまでだ。ご主人への想いを込めて、ボールの縫い目から指が離れる。
「なあ純。今日の料理は特別に美味い、それは保証する。めっちゃシンプルで、誰でも簡単につくれる。でもな、今日のは違う。特別な料理になる。もし一人で食べたら、一生後悔するくらいにな」
「一人で?」
「俺は料理人、今日は出張キュイス・デ・グワヌイユ。俺の店は二名様限定って決まってる、つまり、もう一人おらな料理は出されへん」
金子さんの投げた白球は、真っ直ぐに進んでいく。
「純、お前は誰と一緒に食べたい?」
ご主人は床に置かれたポーチを見つめて呟いた。
「湊子ちゃん」
「その答え、前からあったんとちゃう? お前の中に」
手渡すように、確実に、金子さんが投げたボールはご主人のキャッチャーミットに届いた。
「答えはあったんや。掴めよ、しっかりと」
「でも、どうしたら」
「ここにおってもしゃあないやろな」
石井さんの行き先なんて見当もつかない。だけど、ご主人はしっかりとボールを掴んでいた、もう迷いはなかった、動かずにはいられなかった。ご主人は玄関へと走ってドアを開けた。
そこには石井さんが立っていた。
長かった九回裏の守備は終わった。
延長戦、十回表の攻撃が始まった。
バッターボックスにご主人が立つ。
後続の打者は、誰もいない。
これは、ご主人の戦い。
幸せになるための戦い。
一球の勝負。
ご主人は自分の気持ちを、この一振りに込める。
「湊子ちゃん」ご主人は、緊張と驚き、そして安堵の気持ちが入り混じった声を掛けた。
「金子さんと下で遇って、私が村田さんの部屋で女の人のシャツをみつけたって話したら、それは妹さんのやつやって言われて。私戻ろうとしたんですけど、ここで待てって言われて、村田さんは必ずドアを開けて迎えに来るって」
やっぱり金子さんはずるい。わかっていながら、ご主人に黙っていた。でもそれは、きっとご主人に自分で気づかせるためだった。ご主人が自分で選択するべきことだったから。そして、金子さんはご主人の決断を信じていた。石井さんがドアを開けて、早く中に入りたいという気持ちに耐えて、きっと待っていてくれると信じていた。それは、金子さんが独りでもっと長い時間を、色んなものと戦ってきたから出来たのかもしれない。見えないものを、不確かなものを信じる力が、人にはあるということを知っていた。
「じゃあ、あれからずっとここで?」
「長かったです。なんであんなに焦ってしまったのかわからなくて、なんでなにも訊かずに出て行ってしまったんかなって、ずっと考えてました」
石井さんの眼は、もう既に泣き腫らしているようだった。いくら金子さんの料理の手際が良いといっても三十分近くは待っていたことになる。ご主人と同じように、石井さんも自分の幸せのために戦っていたのだろう。




