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湯気の中  作者: 三波直樹
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 金子さんの話を聞き逃さないように集中していて、ご主人が近寄ってきたことに全く気がつかなかった。相変わらずご主人の気配は薄い、僕は驚いて体中の毛が引っ張られるように逆立ってしまう。だけど、金子さんは当たり前のように首だけをひねってご主人のほうを見る。すると、僕はご主人の後ろにいたもう一羽の白い鳩の存在に気づいた。こちらを見ていたかと思うと、飛び去った群れに向かって飛んで行った。遅れを取り戻そうと真っ直ぐに上を向いて羽ばたき、照りつける太陽に隠れてしまったので、僕はその鳩がどうなったのか、知ることは出来なかった。


「あれ? そこに自販機なかった?」


「前まであったけど、撤去されててさ。その代わりに新しいコンビニがまた出来てた」


「なんか色々変わってまうなあ、大手のフランチャイズ化が一段落したと思ったら次は囲い込み、区画整理して巨大ショッピングモールの出来上がり。一カ所でなんでも揃えば人が集まる、人の流れを変えられたらやりようないんよなあ」


「この辺の人はみんな梅田に行くから。まあ便利やよね、あそこまですると人は来るよ」


「やっぱり資本? 資本がないとあかんのかなあ」


「うちのスーパーも老朽化がひどくてさ、バックヤードは先月に施工してもらってんけど、売り場もなんとかせんとあかんくて。同じ業者さんに見積もりつくってもらったんやけど、金額見るとさあ、夏どころか冬のボーナスも削られるかもせえへんくって」


「いや、なんかあるって、やっぱアイデアやって。持ってるお金の額は変わらへんけど自分の考えは変えられるやん?」


「でも元手がないとどうしようもないもん。このままやとどんどんきったない売り場になってくしかないやろし、食品扱ってるから早いことどうにかせんとあかんのよ」


「なあ、盛り上がってきたところ早速なんやけど、話題変えへん? 俺駄目なんよこういう陰気な話、お腹痛くなっちゃう」


「金子君が話振ったんやと思うけど」


 ご主人が買ってきた缶コーヒーを手渡して隣に座ると、金子さんは重い空気を追い払うように、上下左右に激しく缶を振った。ご主人は自分が持っている缶の蓋を開けずに、その行為が終わるのを待っている。牛乳だったらチーズが出来るんじゃないかと思うくらいのシェイクがやっと終わると、金子さんが蓋を開けて一口飲む。それを確認してから、ご主人は持っていた缶の蓋を開けて一口飲んだ。


 ご主人は金子さんに頭が上がらないのだろうか。金子さんが言うように、もしかしたらご主人は心のどこかで、サヨナラを引きずっているのかもしれない。


 二人が座るベンチの下に落ちていたスポーツ新聞には、今年の夏の甲子園の出場校の名前が一面を飾っていた。


「じゃあ、さっきポチと何の話してたん?」


「ん? あれは陶芸家のマイムやよ。パントマイムの練習」


「喋ってなかった?」


「根がスポーツマンやろ? 声出していこー! ってのが染みついてんのかな」


「声出したらパントマイムちゃうやんか」


「練習やからね、本番になったらもう喋らへんって」


「いつ本番なん?」


「重箱の隅を楊枝でほじくるような話やめへん? 穴空いちゃう」


「箱すら持ってへんやんか」


「俺の胃の話やって。そうや、胃の話しよ。顎に右手の手のひらを付けて、肘を真下に伸ばしたところに胃があるって話、信じてるあなたは肘の先を顎に付けてみてください」


「絶対に届かへんのやろ? それ」


「あっ、ご存じで? 人体の不思議、感じてまうよなあ」


「教えてくれへんの?」


「甲子園の話やよ、ポチが不思議そうな眼で見とったからな」


「そうやったんや」


 金子さんの言った通り、このときご主人の心はここになかった。表情には出さなかったが、もしかすると忘れてきたものの在りかを、いつも探しているんじゃないかと思えた。本人が自覚しているのかどうかはわからない。でもあの試合の後で、ご主人の中の何かが変わってしまったのは確かなことだと思う。


「さあ、続きやろうぜ純」


 ご主人は月に一度こうして金子さんとキャッチボールをする。いつからの習慣なのかは知らない。でも、いつまでも二人はこうやってたまに会い、取り留めのない話を楽しむのだろう。それは知らない人から見ればなんでもない光景で、二人にとっても特別ではない日常なのかもしれない。それでも僕は、ずっと続いていくであろう二人の関係が羨ましかった。


 僕が心配していたのは、小百合ちゃんがご主人の、そんな日常の風景の中に深く溶け込んでいるのかどうか、それがわからないことだった。


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