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「じゃあ、金子君はなんで」
「なんで料理人やってるかって?」
「うん」
「言ったことなかったっけ? そうやなあ。見ときたいんよ、幸せな時間を」
「でもそれって」
「毎回良い結果なんて見られへんよ。いつまで経っても満足出来へんかもしれへん。だから楽しい。些細なことかもしれへん。でも一瞬、一瞬だけでも自分がつくったもので人が幸せになってくれたら、俺は幸せやねん」
ご主人と金子さんの違いに、僕はこのとき初めて気がついた。二人の関係はいつだって対等だが、ご主人はわからないことがあると金子さんに相談する。金子さんからの相談は聞いたことがない。ご主人は自分のことをたくさん話していると思っているのに、金子さんのことがいつも遠くて、手が届きそうで触れられない、そう感じているんだろう。僕も、同じように感じていた。
ご主人が金子さんに話すことは、出来事だった。それはただ、現象を語っていた。金子さんは、本当に自分のことを話さない人なんだろうか。僕は、金子さんはいつも自分のことを話している人なんだと、今わかった。どんなことがあっても、たくさんのことを学んでも、色んなことを経験した自分の言葉で話している。知識がない人を馬鹿にするようなことはしない、学ぼうとしている人の姿を見ている。安易に人を助けることはしない、自分から膝をついて、まず同じ視線になろうとする、そういう人だ。
猫の世界でも、人間の世界でも、自分の力を誇示したり、どこまでも上を目指す、そういう生き方がある。でも、この人は自由なんだ。どこへでも行くことが出来て、その場所からでしか見えない景色を知っている。そして、相手のことを完全に理解することは出来ないということも知っている。そのもどかしさや、やるせない気持ちを抱えながら、笑顔でいられる強さがある。
僕には金子さんのお店をはっきりとイメージすることが出来た。「自分が話さなくてもいいように」これも嘘だ。たぶん、一番近くで見ていたいのだろう。一つのお皿に盛られた料理を、分け合って食べる人の姿を。彩弥ちゃんと一緒に食べたジャック・レモンも、わざわざ一つのグラタン皿に盛らなくてもなくてもよかった。同じお皿だったから生まれた二人のやり取り、生まれた感情、過ごせた時間。金子さんの好きなもの、それはとても単純で、一人では経験出来ないものだった。
「純、お前は自分の生き方が好きか?」
「生き方。僕は、わからへん」
プチトマトを縦に半分に切り、種抜きしたオリーブの実を指で軽く潰してフライパンに加える。白コショウ、オレガノ、エプロンにしたワイシャツの胸ポケットから取り出したオープナーで白ワインを開けて回し入れる。
「自分のことを好きって言うようなもんやもんな。なんかこっぱずかしい感じするけど、俺は自分の生き方を楽しんでる。俺やから出来ることもあれば、俺やから出来へんこともある。人が簡単に出来ることが自分には出来へん、毎日そんなこと感じてる」
「金子君でもそうなん?」
「俺をなんやと思ってるんや? 場末の居酒屋の店主やで? 稼ぎも少ないし、お店開けたら終わるまでずっと立ちっぱで足も臭くなるし、昔の知り合いが来てくれたら名前忘れてて頭下げっぱなしや。掃除して太陽が出てきたら屋上の畑の水やりしてやっと一服出来る、そんな生活を今年で八年か? 一人で続けてんねんで?」
「それでも金子君は」
「楽しい」
自分の台詞をご主人に言われないように、金子さんは左の眉毛を少し上げて言った。人間には楽な仕事はないらしい。それでもご主人を見ていて、嫌いなことをしているとも思えない。思い悩んで、頭を抱えていることもあるのだが、電話を切って身体を伸ばした後の晴れやかな顔や、パソコンを閉じて暗くなった画面に映った自分の増えた髪の毛を触る表情は、金子さんに初めて料理を教えてもらったときのように充実感がある。それでもご主人は金子さんとは違い、自分の生き方について今の気持ちを言葉に出来ないでいる。




