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流れるような動き、僕は自分が瞬きをしていたのかどうかすら思い出せない。檜のまな板の上には、下処理をした鯛が置かれていた。オリーブオイルをフライパンに注ぎ、刻んだニンニクを入れて火にかける。炭酸水の細かい泡が弾けるような音と、香ばしい匂いがキッチンに広がった。
粗塩をまぶしたアサリを両手で擦り合わせて汚れを落とし、水の入ったボールの中で洗いながら香りを嗅ぐ。死んで時間が経ったアサリは火を通しても口を閉じたままになるので、においで確認するのだ。冷蔵庫の横に置かれたキッチンボードのほうへ振り返って、金子さんはオーブンレンジの温度を設定すると予熱ボタンを押した。一切の無駄がない洗練された動き、そこはいつもご主人が立っているキッチンではなくなっていた。金子さんが全てを操る舞台だった。
「純、これは戦いやねん。俺が幸せになるためのな」
手拭いで下処理された鯛を拭くと、身に数カ所切込みを入れて塩をまぶす。この時季は関西で紅葉鯛と呼ぶらしいのだが、見ているだけで僕は唾を飲み込んでしまった。「料理なんて誰にでもできるし、続ければ自然と上手くなっていくもんやから」大げさに考えることはない、ご主人に料理を教えるときの金子さんの口癖。毎日誰かになにかをつくり、仕込みに何時間もかけたものがあっという間になくなってしまう。それも、金子さんが幸せになるための戦いなんだろうか。
ニンニクの香りの角が取れ始めた頃、フライパンの淵から少しだけ尻尾の先が出てしまう紅葉鯛を入れた。細かく包むような油の跳ねる音。ゆっくりと、でも着実に変化していく。まな板の片面を洗い、乾いた面を表にして、イタリアンパセリを刻みながら金子さんの話は続く。
「俺おまえのこと尊敬してる。最初は追い込まれて仕方なくやったんやろうけど、この便利な時代に料理なんて面倒なことやろうしてさ。でも、ずっと続けてるやん。教えてもすぐやらへんくなる人がほとんどやのに」
「それは、簡単なことしかしてへんからやよ」
「どうかな、簡単なことなのか難しいことなのか、それすら判断するのも億劫になるもんちゃうかな。好きでもないことをやろうとすると、余計にさ」
「素人の僕には、よくわからへんよ」
「じゃあ経験者の意見を聞いてみよう。そういうもんやよ。料理にはほかにも秘密がいっぱいあってさ、おまえには自分で見つけてほしいと思うから、今日は一つだけ教えるな。料理には、レシピに載ってないものが一番大切なんよ。」
「気持ち?」
「先にいうなよ恥ずかしい。もう分かってるやん。同じ材料、同じ工程でつくっても、つくる人が違うだけで全然違うものになるのが料理。でもな、食べる人によっても変わってしまうのが料理やねん。味覚とか好みなんてもんじゃない、いつ、どこで誰とどうやって食べるのかが大切で、そのものが美味しい美味しくないに関係ないくらい重要なことになる。それがわかってるから高級レストランはお客さんにも心の準備をしてもらう。そのために豪華な内装、落ち着いた雰囲気、きめ細やかなサービス、料理を美味しく楽しんでもらう工夫いっぱいをする。あと、見栄を張れるように高い値段取れるようにしたりとかな。そうするとお客さんもフラッとは入れない、それなりの準備をしないとな。結局は人の気持ちなんよ。一人より二人、気を遣う嫌いな人と食べるフルコースより、好きな人となんにも考えんと一緒に食べる旅先のソフトクリーム。なんとなくわかるやろ? 作り手がどれだけ苦労しても、受け手にその気がなければ意味がない。生きるための栄養を補給するだけのものになる。お腹が膨れればそれでいい、自分が食べてるものがどういうものか、興味すらないって人も多いんやから」




