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爪切りが終わって、石井さんは僕を肩に抱き上げた。僕のお腹の辺りに彼女の大きな心臓の鼓動が伝わる。高鳴って、段々と早くなる。僕を抱く腕に一瞬力が入って、動かなくなる。トイレの水が流れる音が聞こえ、石井さんは突然僕を床に下ろして玄関へ向かって走った。その足音に驚いた僕、トイレのドアを開けて石井さんの姿を見たご主人。玄関の三和土で左のフラットシューズに踵が引っ掛かってうまく履けず、靴を踏み曲げた状態で固まっている石井さんの背中は小刻みに震えていた。
「湊子ちゃん?」
「ごめんなさい!」
石井さんの声は濡れていて、それでも訊き返されたくないという意思をはっきりと伝えていた。僕はゆっくりと廊下を歩いてご主人の足元までたどり着いた、すると石井さんは玄関のドアノブに手を掛けた。
「あの」ご主人の言葉が喉に詰まった。
「突然来てすいませんでした。私、もう、帰ります」
外に出ると急いで閉められたドアの音がご主人の足を止めた。大きな波をかぶったように肩を落とし、呆然としていた。トイレの内側の取っ手からしずくが垂れる。僕は廊下の床に落ちたその水滴が、大きなガラスのコップが割れたときような音に聞こえた。小さな水溜まり、その周りに散らばった小さな水の痕のひとつひとつが、怪しく光っていた。
「どうしたんやいきなり。何があったんや」
僕もご主人と同じことを思った。そして、きっと同じことを思い出していた。小百合ちゃんの出て行った姿を、そんな昔の出来事を、見せられているようだった。太陽が沈んで、電気を点けていなかった部屋は薄暗くなり、ローテーブルの上に置かれた二つの湯呑は冷え切ってしまっていた。振り返って、リビングのほうへ眼をやったご主人は小さく呟いた。
「まさか」
その視線の先には、カーテンレールに彩弥ちゃんのボタンが取れたワイシャツが掛かっていた。女性もののワイシャツ、石井さんはそれに気づいたのだ。座椅子の横には忘れられた四角い石井さんのポーチが横たわっている。ご主人は頭を撃ち抜かれた兵士のように膝から崩れ落ちた。そのとき、玄関をノックする音が聞こえてご主人は急いでドアを開けた。
「湊子ちゃん!」
「おう。俺との約束忘れてデートの予定でも入れてたんか?」
そこに立っていたのは、いつもの継ぎ接ぎだらけのトートバッグを持った金子さんだった。
「ごめん。そっか。そうやんな」
「ん? どうしたん? まあ入るで」
金子さんはご主人の肩に手を置いて一歩後ろに下がらせると、顔色一つ変えずにいつのもひょうたんのような爪先のサンダルを脱いでキッチンへ向かった。それでもまだ玄関で背を向けて立っているご主人を見て、金子さんは問いかけた。
「どうかしたんか?」
「いや、なんでもないよ。大丈夫」
「じゃあそう思わせてくれよ、全然大丈夫に見えへん」
僕が眼を閉じてご主人の言葉を聞いても、肩をすくめて絞り出した声はか細く、触れた途端、バラバラにちぎれてしまいそうな返事だった。
「金子君には関係ないから、気にせんでええよ」ご主人は子猫のように弱々しい声を絞り出す。
「もう気になってんねんから関係しちゃってんねん」金子さんの口調は一定で、膝に手を添えるようなほんの僅かな丸みを帯びていた。それでも微動だにしないで見つめる金子さんの視線がご主人を捕らえて離さない。
「いっつも、いっつも自分勝手やんな、金子君は」
僕は心臓を握りしめられるような痛みを感じた。どうしてこの部屋には茂みや溝がないのだろう。どこかにフェンスがあり、僕だけが通り抜けられる穴があればいいのに。より合わせた縄が一本、また一本と、徐々に増えて行く重みに耐えながら、か細い音を立ててほどけていくのを見せられているようだ。怪しい地響きが近づくのを感じて、僕は身体を小さく丸めた。




