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湯気の中  作者: 三波直樹
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 申し訳なさそうに下を向いた石井さんの表情が曇ってしまった。「ごめんなさい」と言われたときに、ご主人の眉は彩弥ちゃんが金子さんから同じ言葉を聞いたときと似た形をつくった。それは自分のしたことを悔いる顔、石井さんの中に、表情に、影をつくってしまったことに気がついてしまったのだろう。新しい声を出すこともなく、向かい合った二人は身体だけでなく気持ちの行き先も決めれずにいた。ほんの少し、二歩、三歩前に踏み出して手を伸ばせば届く距離。眠っている子どもに語りかけるような声を出せば聞こえる距離。その少しの距離を保つことが苦しい、縮められないことが歯痒はがゆい。同じことを、同じように感じているはずの二人なのに、触れることが出来ない。


「あの、お茶入れるんで、座ってください」


 ご主人はまたくるみ割り人形のような顔をしていた。外で吹く木枯らしが、まだ枯れていない葉を無理やり連れ去ってしまうように、ご主人の抱えていた気持ちを遠くへ飛ばしてしまった。堪えることが出来ず、石井さんの前に降ることも出来なかった気持ちの代わりに、道端で拾い上げた小石を手渡したのとなんら変わらないお手軽な言葉。僕にはそんな風に聞こえた。


 石井さんはうつむいたままだ。僕を撫でる手も止まり、言われるがまま座椅子に腰を下ろした。僕は石井さんの腕に頭を寄せた。顔は微笑んでいるが、その瞳は暗く、物悲しさを感じさせた。それは、金子さんが時折見せる眼に似ていた。どこか孤独で、なにかをうれいているようで、身体はここにあるのに、心は違う場所にいるような、そんな眼をしていた。


「ニャー」


 僕は鳴いた。「戻ってきて」と、石井さんに伝わることを願って声を出した。眼を閉じた石井さんは、大きく息を吸って、ゆっくりと息を吐いた。開かれた眼は僕を見ていた。どこか遠くではなく、ちゃんと僕を見てくれていた。


「おっ、ポチも石井さんが来てくれたから爪切ってもらえるってわかるんかなあ。ちょっと待っててくださいね、すぐに持ってくるんで」


 ご主人はコンロの火を少しだけ弱めて自分の部屋に入って行った。鉄瓶からは、細い湯気が出ていた。爪切りとティッシュを二枚持って来たご主人は、笑顔でそれを石井さんに手渡した。さっきより少しはましになったが、どうしても木彫りのような硬さのある顔のままだ。シンクの上の棚から茶筒を取り出したが、中には乾燥させた茄子の種が入っていた。ラベルも張っていたのに間違えるくらい、ご主人は動揺していた。やっとのことでほうじ茶を入れ終わり、リビングのローテーブルに湯気が上る湯呑が二つ置かれた。すぐに座ればよかったのに、小さな丸いアカシアのお盆を太腿の前で両手で持って突っ立っている。


「座ってください、なんか、ふふっ、村田さん面白い恰好になってますよ」


 大きなご主人の身体と、余りにもバランスが取れていないお盆がコミカルな違和感を演出して、その姿を見た石井さんは、ついつい笑ってしまった。


「えっ? そうですか?」


「だって、そのお盆とサイズが違い過ぎて。遠近法のトリックアートみたい」


 言い得て妙だなと思った。照れながら頭をいたご主人はもぞもぞと身体を縮めてしまった。


「あの、ちょっとお手洗いに行ってきます」


 ステンレス台の上にお盆を置いて廊下を歩くご主人を見送ると、石井さんが僕の爪切りを始めた。一本の爪だけが刃に当たる変な感触。その情報が脳に送られて身体が反応する前に、僕の爪は先っぽだけなくなっていく。追いかけることもなくなり、なにかを捕らえることもなくなった僕の野生は、石井さんのやわらかな母性に包まれる。横になってじっとしていても、勝手に動いでしまう尻尾は無意識に生きていることを母に伝えるサイン。


 生まれたときにたくさんの声を出した、不安に駆られ、助けを求めた。なにも見えない世界に、光が射した。それは温かくて、見守られていることを知り、安らぎになった。猫の僕は、人間よりも早く大人になったのだろう。自由を求め、欲求に身を任せ、世界を旅して、僕は満足だった。でも、どうしてこんなに心地よいのだろう。ご主人と一緒にいて、石井さんに抱かれ、彩弥ちゃんに撫でてもらい、金子さんの声を聴くと、僕を優しく包んでくれていると感じる。そして、今僕が声を出すのは、不安だからではない。自分の存在を示す為でもない。この温もりを感じていたいと、願うから。引き留めて、繋ぎ留めていたかった。


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