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「ポチの爪を切りに来ました」
「えっ? あっ、そうなんですか。じゃあ、上がってください」
ご主人は平静を装う。だけど一瞬の躊躇いが、石井さんとの微妙な距離を表していた。どんなことを考えてご主人が玄関のドアの前で立っているのか、僕にはまだわからない。ノックの音がすると、見覚えのあるくるみ割り人形のような顔になっていた。
「どうも。わざわざ来てもらって、すいません」
「最近来られてなかったんで、ちょっと心配になったんです。お仕事、忙しくされてるみたいですね」
僕がご主人の脚の後ろから顔を見せると、石井さんはにっこり笑って手を振った、するとご主人は挨拶を交わしてから呆然としていた自分に気がついて、やっと次の言葉が出た。
「はい、まあその色々ありまして。えっと、どうぞ入ってください」
「お邪魔します」
何度も病院で顔を合わせて仲良くなり、ご主人は藤田先生と同じように石井さんのことを湊子ちゃんと呼ぶようになっていたのだが、なぜかご主人は複雑な表情で招き入れた。
「藤田先生から聞いたんですけど、副店長さんになったんですね」
「えっ? あっ、はい。半月ぐらい前になりました。なんで藤田先生がそのこと知ってるんですか?」
「先生が金子さんのお店に奥さんと行ったらしいんです。それで金子さんから聞いたらしくて、その日はずっと村田さんとポチの話で盛り上がってたみたいです」
「そうやったんですか」
どうしてなんだろう、僕にはご主人が楽しそう見えない。石井さんの話を聞いてもいつもの笑顔がない。眼鏡のレンズ越しに、緩やかな曲線になった目尻、優しい石井さんの微笑みがあるのに、それが見えていない。視線を逸らして左の肘を揉む、緊張していたり、不安を感じているときのご主人の癖だ。どこか上の空で、違うことを考えているように感じた。
石井さんはリビングへ真っ直ぐ歩いて行き、肩から下げていた四角いポーチを床に置いた。僕はその後ろをついて行き、彼女の脹脛に身体をすり寄せた。久しぶりに会った石井さんは、僕の背中をそっと撫でてから抱き上げてくれた。本人は気にしていると言っていた二の腕の感触が僕は好きで、抱かれる度に安らぐことが出来た。ご主人とは太さも硬さも違うのだが、僕を包むぬくもりは同じだった。
「カーテンの色変えたんですね。もう十月の後半だから私も衣替えしないといけないなって考えてたんです」
「えっ? どうしてそんなこと」
怪訝な表情をしているご主人に気がついた石井さんは、なにかを察して少し身を震わせた。
「あの、その。以前金子さんが留守番をされてるときにお邪魔したことがあったんです。聞いてなかったですか?」
「そうなんですか。初耳でちょっと驚きました、大丈夫です、なんかとても自然に入ってこられたんで不思議やっただけです」
疑問がなくなってもまだ緊張は残っているようで、ご主人の声は上擦って早口になってしまっていた。問題の解決は新たな問題を生むとはよく言ったもので、ご主人は石井さんと金子さんが会い、何があったのかが気になっていたがそれを訊くことが出来ずにいた。怖ったのか、あえて知りたくなかったのかはわからない。まだご主人は、気兼ねなく石井さんの真ん中に触れることが出来ない。本当はそうしたかったはずなのに。それは自分の中にあるものを、さらけ出せないでいることを自覚していたからなのかもしれない。
「ごめんなさい。やっぱり勝手に家に入られるのって嫌ですよね」
「あの、いやそんなことないですよ。僕が留守番を頼んでいただけなんで、その、気にしないでください」




