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僕は金子さんの話を聞いて、この人の真ん中を感じた。それは心と呼ばれるものなのか、魂というものなのかはわからない。でも、全てがそこから始まって、金子さんを形づくっているんじゃないかと思った。それは、たくさんの知識や経験の蓄積があって出来上がるのか、森の中で湧き上がる泉のように、自然と生まれてくるのか、もしくはその両方なのかもしれない。この人は眼で見ていない、耳で聞いていない、口で話していない、頭で考えていない。いつも真ん中で感じて、真ん中から全てが溢れていたんだ。そしてご主人の、僕の、真ん中の乾きを潤してくれた。
「来週、昇進祝いでもするか」
世間の人はどう思うだろう、三十路の男が仲良く二人でごはんを食べる。いつもの金子さんなら、自分からそんなことを提案することなんてなかった。また、背中を押してくれようとしているのかもしれない。ご主人は素直に喜んだ、金子さんのお店は二名様厳守なので、久しぶりに金子さんの手料理を食べれることが嬉しかったのだろう。
バラの起源は今から三千五百年前、それよりもっと昔からあるとも言われている。人間はその見た目の美しさ、誘惑されるような香りに魅了されて、様々な品種を生み出した。その数は二万種を超えて、いまだに増え続けているという。花の女王、そう呼ばれるバラは、どうしてここまで人間に愛されたのだろう。
金子さんは言う、「原種とされるワイルド・ローズ、野バラのことやけど、それはただ、そこに咲いてたんやと思う。誰のためでもなく、ただ咲いてた。人間の手で品種改良されて、オールド・ローズ、モダン・ローズなんて呼ばれるバラが生まれた。今、花屋さんで見かけるバラは殆どがモダン・ローズやねんけど、原種の一つ、白く咲き誇ったロサ・バンクシアエ・アルバ・プレナを見たときは感動した。俺はあの花が好きやね」と。
花は、ただそこに咲いていた、ご主人が僕を拾ってくれたとき、僕はただそこにいた。秋の中で座っていた。抱き上げられたとき、どうして暴れて逃げ出さなかったのかと今でも不思議に思う。ご主人はいつだっで僕を愛してくれている、そう感じるようになったのはいつのことだったのか思い出せない、それくらい自然なことで、いつだって僕はご主人の真ん中を感じていたんだ。僕がご主人のことを好きな理由、それはもう、言葉にすると違うものに汚されてしまいそうで、僕の中のものを卵みたいな殻で包んで渡すことが出来ればいいのに、そう思えるくらい大切なものになっていた。
その日、今年初めての木枯らしが吹いた。部屋に入って来る風はまだ生ぬるい。昼過ぎまで寝ていたご主人を、網戸の揺れる音が起こした。今日は買い出しに出掛ける必要はない、掃除を済ませてシャワーを浴びたご主人は、リビングのテーブルで収穫したバジルの種を茶封筒に入れている。季節の変わり目が、雲の形や気温の変化以外でも感じられる。長袖のスウェット姿になったご主人を見ていると、足早に通り過ぎる年末の訪れを予感させた。今年もあと少しで終わってしまう。色んなことがあったけど、家の中には大きな変化はない。丸められて壁に立て掛けられたカーペットが敷かれてしまえば、もうあとは春が来るのを待つだけだ。インターホンが鳴ったのは夕方の五時を過ぎた頃だった。
「はい」
「あっ、藤田動物病院の石井です」
「えっ? 湊子ちゃん? どうしたんですか?」
僕は驚かなかった、先週の水曜日も石井さんは訪ねて来ていたからだ。ご主人が仕事に出掛けた後、お昼前にインターホンが鳴った。モニターに映る小さな石井さんは、下を向いたり髪の毛をいじったりして落ち着きがなかった。画面が黒くなってしばらくすると、またインターホンがなって石井さんの姿が映った。僕は駄目だと言われていたけど、テーブルの上にのぼって彼女を見送ったのだ。




