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「ごめん、仕事してた」
「そうなんやろな。行こか」
僕を駐輪場に停めてある自転車のカゴに乗せて表の道路へ出た。影になっていたコンクリート造りの駐輪場の涼しさが、グラデーションのように夏の日差しへと変わった。容赦なく照りつける太陽は、年々地球に近寄って来ているんじゃないかと思えた。真上から降り注ぐ光が土佐堀通に影をつくることはなく、アスファルトが鉄板のように熱を帯びていた。
「今日は下福島はやめとこ、日影が全然なかったわ。靭公園にしよや」
金子さんの提案で、背の高い木が植えられている靭公園に向かうことになった。なにわ筋を五分程南に下って、東西に分かれた靭公園の西側のテニスコートの脇に自転車を止めた。観客席を設けたコートが一つと、フェンスで囲まれたコートが十五面あるのだが、この暑さのせいで使っている人は全身同じスポーツブランドで揃えた本格派の一組しかいなかった。なにわ筋を挟んで東側にあるバラ園から蒸留された香水みたいな匂いが、むんと広がってくる。
「なんか甘い匂いがするなあ」
ご主人が屈伸運動をしながらぼそりとそう言うと、金子さんは右腕のシャツを肘までめくり上げて腕を回し、すらすらとご主人のなんでもない疑問について答えた。
「真っ白なフェア・ビアンカ、淡いピンクのロイヤル・サンセット、ぼやけた藤紫のブルー・ムーン、ハイブリットティー系のダブル・デライト、赤みの強い紅桔梗のクイーン・エリザベス。秋バラは香りが強いって言うけど、この暑さやといやでも匂い立つやんな」
初めて耳にするバラの名前が多過ぎて、ご主人は軽い会釈しか返すことが出来なかった。
肩を温めるためにボールを地面にバウンドさせて二人はキャッチボールを始めた。Tシャツの袖口まで日に焼けたご主人と、夜型で日の光がワイシャツに反射して、一層色白く見える金子さん。見慣れた光景なのに、違う国の人が親睦を深めているような取り合わせ。幾度となく見てきた二人の球筋、細くても鞭のように撓ってスナップが効いた重い球を投げる金子さん、身長を活かして高い位置から伸びる球を投げるご主人。お互いがたまに変化球を投げて驚かせたり、内野ゴロのような低い球を投げて相手を走らせたり、二人はいつでも現役時代に戻ることが出来た。
「繁盛してるんやってな副店長」
ご主人の鋭い球を受けて手首を軽く回すと、金子さんは若々しい笑顔でボールを投げ返した。
「おかげさまで」
売り上げが好調なのは嬉しいことだが、自分の時間が少なくなり、こうやって気分転換することが難しくなった。ご主人は苦笑いを浮かべて額の汗を拭った。
「今月はハロウィンがあるから、なんか催し物を考えてたんよ。それで時間忘れててん。金子君のお店ではなんかすんの?」
「俺のとこはイベントは一切なし。年がら年中通常営業やからね、気楽なもんよ」
「そういえば周年もなんもやってなかったよね。今月じゃなかった? お店の八周年」
「もうそんな経つんか」
「なんか他人事みたいと思っていいんか、忙しくて昨日のことのように感じてるんか、どっちなん?」
「さあね、飲食店は十年続いてやっと一人前やからな。それより副店長になったからか今日はええ球投げるやん」
僕の眼から見ても、ご主人が投げるボールは生きていた。早いとか重いといったものとは違った良さがあった。放物線を描き始めるかと思ったときに勢いが持続して伸びる球、野球解説で聞いたことのある気持ちが乗った球。ただ投げているのではく、投げたくて投げていた。「あいつは俺より野球がうまい」と言っていた金子さんの言葉を信じていたが、今日確信に変わった。
大きな体を屈めて細かくステップを踏んで、金子さんの手から離れたボールのタイミングと角度から、次に行う自分の身体の動きに的確に指示していた。使い古されたキャッチャーミットにボールが収まるより前に視線は金子さんの位置を捉え、捕球したと同時に右手の指がボールに掛かり、左膝の角度が固定されて体重と勢いが最大に掛かった瞬間に中指の先がボールから離れた。元キャッチャーの投げる球ではなかった。まるで、抑えのピッチャーが出されたサインに何度も首を振って投げた渾身のストレート。




