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湯気の中  作者: 三波直樹
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「ポチ、元気か?」

 思わず身体が固まってしまう。見えてるいのか見えていないのか、それよりも心を見透かされているように感じた僕は、ナナフシみたいにゆっくりと、動いているのがバレないようにカゴに敷いてあるタオルの上にお尻を戻した。


「あいつと俺、昔、甲子園に出て準決勝まで行ったんよ。これ前に話したっけ?」


 金子さんは、ご主人がいるときは僕に話かけない。そして僕と眼を合わさないで遠くを見て喋る。なぜなのかはわからない。でも、僕もなぜか金子さんが向ける視線のほうを見てしまう、何かが見えているような気がして、いつもそうしてしまう。


「俺らが野球やってたのは話したよな。ほんなら今日はあいつの秘密、一つ教えたるわ」


 秘密。それは金子さんの口癖だった。ご主人と喋っているときも、聞きたいか? と前置きをすることが多い。僕とこうして話しているときも、ほぼ毎回このフレーズを口にする。「フレーズって言葉は英語で慣用句とか、決まり文句ってことやけど、フランス語では苺って意味なんよ」そう教えてくれたのも金子さんだった。ご主人の秘密、つばを飲み込む代わりに、僕の耳は無意識に金子さんがいる方へと動いてしまう。昔の僕なら、餌も持っていないのに、なぜか金子さんの周りにどこからともなく集まって来た嘘みたいな数の鳩の群れに、なんの躊躇ちゅうちょもなく突っ込んでいただろう。でも、今は甘く熟した苺の香りに、僕の気持ちは奪われていた。


「実はあいつ甲子園に忘れ物してきたんよ、髪の毛とちゃうで? でも坊主頭からまた伸ばしても真ん中だけ薄くなったままやから、髪の毛も忘れてきたんかな? まあとにかく、九回の裏やってん。一点リードでワンアウト満塁、前進守備でセンター守ってた俺の所に打球が来た。速いライナーで、俺の頭越えてフェンス直撃。ボール掴んだときには三塁ランナーがホームに帰ってて同点、二塁ランナーが三塁を回る所やった。俺はキャッチャーやっとった純に向かって思いっきり投げた。俺は手が小さくて変化球投げられへんかったんやけど、真っ直ぐだけやったらチームで一番やったから、自信はあってん」


 金子さんは右腕の肘を膝の上に置き、手のひらを閉じたり開いたりしながら、当時のことをゆっくりと思い出していた。


「アウトのタイミングやった。落としてもうてん、あいつ」


 サヨナラ、という終わり方らしい。プロ野球は次の試合も、来シーズンもあるけれど、高校三年生、甲子園でのサヨナラには、もう次はないらしい。全国一位を目指す大会、三位や四位を決めることもないのだそうだ。


「でもまあ、誰も純を責めへんかった。頼り甲斐のあるキャプテンで、一番優勝したいって思ってたからな。ちょっと想像つかんのとちゃう? 今のあいつしか知らんかったらさ」


 確かに意外だった。二人のキャッチボールを見ていても、金子さんのほうが明らかに動きが良い。きっと試合でも彼のほうが活躍していたんじゃないかと思えた。キャプテンを任されるのは実力だけではないにしろ、僕の知っているご主人ではそんなに凄い大会で準決勝までチームを引っ張ることが出来たとは、にわかには信じられなかった。


「あいつはずっと気にしててさ、平気な顔してるけど、今でもこうやってボール投げてると、どっか上の空なときあるんよ」


 金子さんは右肩をぐるりと大きく回した。そして薄く伸びた顎髭あごひげの汗をぬぐうと、よく使いこまれて引き締まった両腕を膝の上に戻して話しを続ける。


「純と一緒に野球したくてさ、同じ大学入って、高校のときからあいつは注目されてたけど、入った大学がパッとせえへんくて。そのうちスカウトも観に来んくなって、実力あったんけやどなあ。俺は勉強なんてするガラやないし、一年で中退。野球だけじゃ学校におれんかってん。ほんでさ、小百合ちゃんおるやろ? あの子、大学の野球部で俺らと一緒やった後輩の妹やねんで? あの子の兄貴が純のこと尊敬してて、小百合ちゃん村田の話を兄貴からよう聞いてたらしくてさ。ほんならあの子が京都から大阪に就職しに来たときバッタリと」


「ごめんごめん、向かいのコンビニまで行ってて」


 集まっていた鳩が一斉に飛び立ってしまった。その中の白い鳩が、一羽だけ少し遅れて群れを追う。大きく時計回りに旋回しながら青い空に昇って行く。


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