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湯気の中  作者: 三波直樹
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 さっきまでの重低音とは打って変わって拍子抜けた軽い音が鳴り、洗濯機のロックが外れた。ご主人は中身を取り出して一着ずつハンガーに掛けていく。それを済ますと自分の部屋のクローゼットを開けて、備え付けのポールに服を掛けた。ご主人の服は上着もズボンもこのクローゼット一つに全て収まってしまう。靴下は全て黒くて十足もあれば十分だろうし、下着もカラーボックスに靴下と一緒に入れられているが数は少ない。上着は畳まずにハンガーに掛かっている、サイズはLかLLでゆったりとした形のものが多い。あとはネクタイと寝間着用のスウェット、運動に適したジャージがあるくらいだ。ご主人が服を買いに行くことは滅多になく、春に一回と秋に一回だけだ。必要なものは、とても少なかった。


 洗濯カゴの中には彩弥ちゃんの白いワイシャツだけが残った。「まあ、また取りに来るかな」と言ってご主人はそのワイシャツをリビングのカーテンレールに掛けた。僕は上から二番目の外れてなくなったボタンのことが気になっていた。長年着古したように見えるそのシャツは、今の彩弥ちゃんには少し小さいように思えた。


 外は相変わらず雨が降っていた。分厚く広がった雲の向こう側を、いつのまにか太陽が通り過ぎて沈んでしまった。夕方の六時を回ってテレビではニュースが始まった、僕の予想は当たっていたらしく、紀伊半島沖を大型の台風が通過していたらしい。今日の夜からは蒸し暑い熱帯夜になるだろうと、長袖の暑苦しいスーツをまとったお天気キャスターが伝えていた。


 ご主人は僕のお皿にごはんを入れてくれると、金子さんのお店に電話を掛けた。ちょうどお店を開けてお客さんが来るのを待っているくらいの時間なんだろう。


「はい、キュイス・デ・グワヌイユです」


「金子君、今電話大丈夫かな?」


「おう純か、今もう満席でポチの手も借りたいぐらい忙しい、って言いたいんやけど暇やから大丈夫やで。ほんでどないしたん?」


「昨日のお礼言おうと思ってさ、おいしかったわ、ありがとう」


「そんなん気にせんでええのに、それだけか?」


「あとタッパーどうしたらいいかな?」


「また近くに寄ったときでもいいし、今度キャッチボールするときにでも中にお金入れて返してくれたらそれでいいから」


「じゃあウォンでいいかな?」


「円にしてくれんと換金せなあかんやんか」


「それと、彩弥お店に来てないかな?」


 やっぱりご主人は彩弥ちゃんのことが気になっていたらしい。


「彩弥ちゃん? いや、来てへんけどなあ。なんで?」


「今日家に突然来たんやけど、なんか金子君に用事があるみたいやったから。ショップカード渡したらまだお昼前やったのに出掛けて行ったからさ、会ってないかなと思って」


「そうなんや。まあまだ店開けたばっかりやから来るかもせえへんけどな、来たら連絡しよか?」


「ううん、大丈夫。それやったらいいねん」


「そうなん? お兄ちゃんも大変やなあ。おっ、こんな天気やのにお客さん来たみたいやわ」


「そっか、ほんじゃあ頑張ってな」


「おう、お前も彩弥ちゃんのことはええから誰か連れて食べに来たら?」


 僕は金子さんがご主人の友達で本当によかったと思った。電話を切ったご主人は空っぽの部屋のドアを見つめていたが、その眼には悲しさや寂しさは感じなかった。寒そうにしていると毛布を肩に掛けてくれるように、汗をかいていると冷たい飲み物を差し出してくれるように、金子さんの言葉はご主人の背中を押してくれた。そこにはいつも選ぶ自由があって、ご主人の中にある本人の気づいていない意思を呼び覚ます力があった。


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