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湯気の中  作者: 三波直樹
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 洗濯機のブザーが鳴って、ご主人は乾燥のスイッチを押した。水が排出される音がして、洗濯機はまた回り始めた。自分の部屋に戻ってプリンターのスイッチを切ると、ご主人はトースターに食パンを二枚入れ、目玉焼きとベーコンをカリカリに焼いてお皿に盛り付けた。リビングのテーブルにお皿を置くと、焼き上がったトーストの一枚に自家製のマーマレードジャムを塗ってインスタントコーヒーをカップに注いだ。テレビの右下に表示されている時計はお昼の二時二十六分、ブランチにしては遅いのだろうが、文句を言う人は誰もいない。


 食べ終わってお皿を洗い終わると、ご主人はそのまま夕飯用のお米を研ぎ始めた。「台所に立つ用事があったら出来ることはまとめてやっといたら楽になる」ご主人は金子さんの助言を忘れたことがなかった。お米の研ぎ汁をボールに取っておいて、ご主人はお風呂場に行き湯船にそれを入れた。いつもなら霧吹きに入れてベランダのプランターに噴射するのだが、今日は水やりをしなくても大丈夫だと思ったのだろう。


 ご主人の手は野球をしていたせいなのか固くてざらざらとしていたのだが、お米を研ぐようになって段々つるつるとしてきた。お風呂にお米の研ぎ汁を入れるのは石井さんから聞いたアイデアだった。敏感肌だという石井さんは、思春期に肌荒れに悩んでいたらしい。市販の洗顔料を色々と試してみても、どれも肌に合わなかったという。そんなときに石井さんは、共働きの両親の代わりにいつもご飯をつくってくれていた自分のおばあちゃんの手が、とてもきれいなことに気がついたのだ。そして試しにお米の研ぎ汁で顔を洗ってみると、二週間程で変化があったのだという。その話を聞いて以来、ご主人はいつも研ぎ汁を大切そうにお風呂場へ持って行くようになった。


 仕事が終わって帰宅するのが夜中になることも多いご主人は、近所の迷惑も考えて掃除機ではなくフローリングワイパーを使って掃除をする。家具と呼べるものはほとんどないとはいえ、床面積が広いのでそれなりに時間が掛かってしまう。家全体を拭くのにワイパーシートを四枚は使うだろうか、それも片面だけではなく付け替えて両面使っている、贅沢はしない。以前はシートに付いた毛が自分の髪の毛か僕の抜け毛なのか心配になって確認していたが、最近はめっきり気にしないようになっていた。最後は決まって玄関から一番近い空っぽのままの部屋を掃除する、ご主人や僕が入らなくても埃は溜まる。いつも閉め切られているその部屋のドアは、動かす頻度ひんどが少ないせいかキイキイと音が鳴るようになってしまっていた。ご主人がこの部屋の明かりを点けることはない。八畳程のなにもないその場所の掃除が、なぜか一番時間が掛かった。月に一度、ご主人はこの部屋のエアコンのスイッチを入れて除湿をする。そして帰ってくるとエアコンの電源を切り、いつもドアを閉めると、鼻で小さく溜め息をついた。


 掃除が終わってしばらくすると洗濯機のブザーが鳴った。まだ中が熱いのか、洗濯機の扉のロックが外れるまでの待ち時間をご主人はもどかしそうに洗面台の壁にもたれて過ごしていた。もうこの家の中でやることがなくなってしまったのだろう。どうして人間は結婚して子供をつくり、家庭を持つのか。ご主人のこんな姿を見ているとなんとなくわかるような気がした。人と会っているときはいい、仕事をしているときは仕事に集中している、家に帰って来て体を洗い食事をして眠る。汚れれば掃除をして生きる為に必要なことを学ぶ。そして考えられる全ての用事を済ませて、乾燥が済んだ洗濯物を取り出すのを一人で待っている。もうそれ以外にすることがない。誰かが一緒にいれば会話もあるのだろう、子供がいればいつも傍にいて相手をするのだろう。こうやって洗面台の壁にもたれて腕を組み、洗濯機のロックが外れるのを一人で待つような、意味のない時間は誰だって過ごしたくないはずだ。こういう日は一日がいつもより長く感じてしまう、漏れてくる爽やかな柔軟剤の香りだけでは、払拭することが出来ない気持ちもある。僕はいつもご主人の休みの日が来るのを待ち遠しく思っていたのだが、こんな時間を過ごさなければならないのならもっと仕事が忙しくなってくれればいいのに、と思ってしまった。

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