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湯気の中  作者: 三波直樹
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 彩弥ちゃんは腰に巻いていたバスタオルと取るとご主人に投げて渡した。ショップカードをワイシャツの胸ポケットに入れ、ぺたぺたと廊下を歩いて洗濯機の中のズボンを取り出して両足を通し、二、三回軽く飛び跳ねてチャック上げ、ボタンを掛けた。そして洗面台の棚に入れておいた黒いビニール袋を右の脇に挟んで廊下に出ると、玄関へいそいそと向かいサンダルを履いた。


「この時間はまだお店におらんと思うで、仕込みはいつも夕方からやし」


 ご主人がそう忠告したが、彩弥ちゃんは構うことなくドアに手を掛けた。


「彩弥。まだ外雨降ってるから、傘持って行き」


「うん、お兄ちゃんありがとう」


 こんな土砂降りの中へ元気に歩いて行く彩弥ちゃんを、ご主人は優しく見守っていた。それはどこか懐かしそうで、羨ましそうでもあった。いつもキャッチボールが終わると、金子さんが道の角を曲がって見えなくなるまで、ご主人はその後ろ姿を今と同じように眺めている。自分とは違うなにかを感じているのだろうか、振り返ることを待っているのだろうか。彩弥ちゃんは急ぎ足でエレベーターホールに消えて行った。


 洗濯機の上に置かれたしわくちゃの白いワイシャツに気がついたご主人は、自分の部屋から溜まっていた洗濯物を持って来て、上着、肌着、とそれぞれ違う洗濯ネットに分けて入れ、洗濯機を回した。男の一人暮らしだと一週間に一度の洗濯でも量は知れている、それでも彩弥ちゃんのワイシャツだけ違う洗濯ネットに入れる所がご主人らしいと思った。


 僕は洗濯機の隣にある洗面台を見る度に妙な気分になる、使われることがない備え付けの歯ブラシのストックホルダー、シェービングクリームと髭剃りだけでは埋まらない棚、フェイスタオル一枚では余ってしまう壁に付いたポール。人間一人、猫一匹ではこの空間ですら持て余してしまっていて、僕にとってはどうしても好きになることが出来ない場所になっていた。そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、ご主人は自分の部屋のデスクで手書きの値札をつくり始めていた。


 パソコンの画面にはヨーロッパのどこかの市場の写真が映っていて、それを真似て作業しているのだろう。ホームセンターで買って来た木の板に、印字した文字を切り抜いた紙を張り付けてインクを染み込ませたティッシュを何度も押し当てている。ステンシルというらしい。紙を剥がすと「NASU」という横文字が板の上に転写されていた。英語表記だと読めない人も多いだろうということで、日本語をそのままローマ字で書くことにしたらしいのだが、果たしてこれでヨーロッパの青空市場をイメージさせることが出来るのだろうか。でも、僕はそんなご主人の思いやり溢れる発想が好きだった。


 外では雨は小降りになったが、雲が早く流れて風が窓を叩いている。もしかすると台風なのかもしれない。「風を背中に受けて立ち、右手を横に伸ばした先に低気圧の中心がある、らしいで」そんな金子さんの嘘か本当か、どうして突然そんな話をするのかわからなかったある日の言葉を思い出していた。もしかすると金子さんの全ての言葉には「なんとなく」なんてものはなくて、意図があるのかもしれない。そんな風に思うのは考え過ぎなのかもしれないが、誰かが今のご主人の作業を見ても、どうしてこんなことをしているのかわからないだろう。金子さんや彩弥ちゃん、石井さん、藤田先生のほんの一部しか知らない僕はもどかしさを感じていた。彩弥ちゃんも同じなのだろうか、「わからないことがあると知りたい」その真っ直ぐな気持ちを言える彼女は、金子さんの持っているたくさんの秘密を解き明かすことが出来る人なのかもしれない。


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