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湯気の中  作者: 三波直樹
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「そっか。そうなんや」


 彩弥ちゃんは黙ってご主人の話が終わるのを待っていた。そして深い溜め息をついて、空っぽになった湯呑を見つめていた。


「お兄ちゃんは決断できた?」


 いつのことを思って彩弥ちゃんがそういたのか、僕には一瞬わからなかった。たぶん、小百合ちゃんとのことだろう。ご主人は、気づかれないような小さな溜め息をついてから答えた。


「どうかな。決断、出来なかったと思う」


 二人はお互いに自分の手の中にある湯呑を見つめていた、たまに洗濯機の中で回るズボンの金具が次の言葉をうながすように音を立てたが、きっかけにするには心細い。


 小百合ちゃんとの関係は、僕は途中参加だったのでどういった始まりだったのかは正直わからない、憶測でたぶん小百合ちゃんから告白したんだと思っている。でも最後は、ご主人には選択肢がなかった。それなのに自分が「出来なかったと思う」と言うご主人の優しさがいじらしくて、愛おしい。優しさを競う大会があれば、七十億を超える人間の中でご主人は強いほうから数えたほうが早いと僕は確信している。貧しさや苦しみを抱えている人を助ける人は多いだろう、でもご主人は自分よりも幸せそうで充実した人生を歩む人たちにもその優しさを向けている。小百合ちゃんにもきっと理由があったんだろうと、どんなことがあっても悪口を言ったことはなかった。自分に足りないものがあったんだと、ひたすらに悔いていた。


 思えば、金子さんからキャッチボールの誘いの電話が来なくなったのは小百合ちゃんがいなくなってからだった。それまでは前触れもなく留守電に「次のお前の休みにやろか」と伝言が入っていた。ご主人が自炊を始めた去年の一月にはキャッチボールの誘いはなかった、気まぐれな金子さんのことだし寒いからやめておいたんだろうと思った。でも、二月の終わりになっても金子さんからの誘いは一向になかった。ご主人が料理のことでお店に電話して、「明日、キャッチボールせえへん?」とくと「せやな、やろか」とあっさり予定が決まった。次の月も、その翌月も金子さんからは誘うことがなくなった。僕の思い過ごしでなければ「自分が食べたいと思うものつくるのがええで」と言ってかたくなに自分から料理を教えようとしなかったのには、ご主人に決断させようとしていたんじゃないだろうか。「結局人は自分の生き方しか出来へんもんなんよ」金子さんから聞いた言葉が洗濯機の中で回るズボンのように、僕の小さな頭の中で回っていた。


「金子さんのお店って、どこ? 検索しても出てこうへんくって」


「彩弥知らんかったんやっけ? えっと、確かショップカードあったと思う」


 ご主人は自分の部屋から名刺ファイルを取り出して持って来て表紙をめくった。その一ページ目に、一行だけ文字が書かれたカードが入っていた。cuisseキュイス de grenouilleグワヌイユ 蛙の足、金子さんのお店のカードだった。


「これやな」


 ご主人がファイルからカードを取り出して裏を見ると、簡易的な地図と営業時間、日曜定休の文字の下に、一回り大きなサイズで予約不可、二名様限定とだけ書かれていた。電話番号も書いていないのにこれがショップカードと呼べるのだろうかとも思ったが、これぐらいインパクトがあるのか、もしくはないのかわからないほうが人の興味を惹くのかもしれない。あの金子さんのことだ、七年も一人でお店をしているのだから、僕にはまだ理解出来ない策略があるのかもしれない。


「ありがとう」


 彩弥ちゃんがカードを受け取るとご主人が一言付け足した。


「そのショップカード、オープンしたとき以来つくってないって言ってたから、大事にな。それにお兄ちゃん以外に数人にしか渡してないって言ってたから、人にあげんほうがいいかもしれんで」


「大丈夫」


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