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「なんでお兄ちゃんはずっとここに住んでるん? 職場が近いから?」
「そうやなあ、それもあるけど、まあなにかと便利なんよ」
ご主人は珍しく言葉を濁した、でもそれは後ろめたい気持ちではないことは確かだった。少しだけ晴れやかな顔をしたからだ。それは過去ではなく未来にあるなにかを思い描いているんだと思った。彩弥ちゃんも「ふーん」と言ってそれ以上の詮索はしなかった。僕はこのとき、彩弥ちゃんがご主人の表情を見て、金子さんと同じようにご主人のことを信用してくれて、そっとしておいてくれたことに感謝している。わからないことや不安に感じることがあっても、大切な人の味方でいることが、愛なのだと知っている彩弥ちゃんが眩しかった。
「どうやったら素敵な女の人になれるんやろう」
彩弥ちゃんはぽつりと呟いた。
「どうなんやろなあ」
ご主人は居心地が悪そうにお尻の位置を調節した。
「金子さんとはそんな話せえへんの?」
彩弥ちゃんは純粋で真っ直な視線をご主人に向けていた。
「金子君は男を立ててくれる女性がいいって言ってたかな」
ご主人は湯呑を覗き込んでその視線から逃げていた。
「エッチな意味じゃなくて?」
「お前ほんまに金子君みたいになってきてるぞ、いくら大人になったからって兄妹でそういう話すんのは冗談でも笑われへんねんからな」
声を荒げたご主人を、僕は初めて見た。それは怒りや不安ではなく、気掛かりで仕方なくそうしてしまったのだと、彩弥ちゃんの眼を見ることが出来ないご主人の憂いた表情が、そう物語っていた。
「冗談じゃないもん。本当に知りたいだけ」
彩弥ちゃんは真剣で、ずっと冷静だった。僕を撫でる手の動きが一定で、ご主人が声を荒げてもその動きが変わることはなかった。ご主人は彩弥ちゃんの視線に気圧されてしまった。それ程に、その切実な思いを感じてしまったのだろう。ご主人は下を向いて金子さんとのやり取りを思い出しているようだった。その間も彩弥ちゃんは、ずっと真っ直ぐな眼差しをご主人に向けていた。
「彩弥、お前まだ金子君のこと好きなんか?」
「まだって、どういうこと?」
「いつやったか忘れたけど、もしかしたらって思ったことがあったから」
ご主人は訊いてみたものの、深くは踏み込めない。本当は、彩弥ちゃんの本心を知るのが怖かったのかもしれない。でも、もし彩弥ちゃんが金子さんのことを好きなら、ご主人はどうするんだろう。
「興味があるだけ。いっつもお兄ちゃんと仲良くしてるのに、いっつも不思議な人で、現実離れしてる感じがするから」
彩弥ちゃんも、ご主人や僕と同じことを感じていた。だけど、僕は小百合ちゃんの一件があってから、女性の言動について素直に受け取ることが出来なくなっていた。最近の石井さんも、ご主人と明るく話していたと思えば、眼を合わすことは少なくなったように感じたり、どこか隔たりがあるように思えてしまう。彩弥ちゃんみたいに、身構えないで人の気持ちを訊ける探求心を、金子さんのように、迷いもなく自分の意見を言える強さを、羨ましく思った。
ご主人はまだ、内心穏やかではない。それでも自分の複雑な気持ちを一旦どこかへしまって、なんとか金子さんとの会話を思い出していた。
「えっと、男は弱い生き物やから、プライドがないと生きていかれへん。女の人が物事を決めると、男はつまらなくなって離れて行きたくなる。だから最初から最後まで、女の人は男を誘導して決断させてあげれるようでないと女性として失格。逆に男はすべきときに覚悟を持って決断出来なかったら価値がない。良い女は待つことが出来る人で、良い男は自分で決めたって思い込める馬鹿じゃないとあかん、そんなこと言うてたと思う」
僕は昨日金子さんが石井さんにかけた魔法の言葉を思い出していた。「待つことやよ」、それは落ちてきた花びらが、肩の上に乗るくらいの軽い言葉だった。見逃してしまえば風で飛ばされて、二度と見つけることが出来ない程度の些細なこと。それは単純であるがゆえに、難しいことなんだと、僕は今になって気がついた。




